『月虹』


鎖骨の上に心地よい重さを投げかけているあの人の腕をそっと外して

私はひんやりとした床に足先を降ろす。

その冷たさはまだ微かに火照りの残る体の熱を吸い込むようで・・・

窓から差し込む月光に照らされたあの人の顔は幼子のような安らかさと

彫刻のような端正な美しさが同居していて私の心を捕らえて放さない。

キッチンに向かい、銀色のケトルを火にかけた。

ダイニングテーブルの上には藍色の紅茶の缶、昼間二人で買ったものだ。

ティーバッグの紅茶しか知らなかったあの人に

リーフで入れる紅茶の美味しさを知って欲しくて。

やがてケトルの口から細い蒸気が白く立ち上ってきた。

音を立てないようにカップとポットにお湯を注ぎ温める。

こんな夜中に紅茶を飲もうなんて私どうしちゃったんだろう。

気持ちが高ぶっているからだろうか?

私は自分の胸元に視線を落とした。

白い肌の上にあの人が残した花びらのような薄紅色の痕。

体の芯に残るあの人がくれた初めての鈍い痛み。

髪にも唇にも肌にもあの人の香りが残っている、そんな気がする。

温めたポットにリーフを入れた。

春一番に摘んだというダージリン。

お湯を注げば春摘みらしい、ふんわりとした爽やかな香りが漂う。

少し待ってカップに注ぐ。

光沢さえ感じられる鮮やかな橙色が白いカップに映える。

ゆっくりと香りを吸い込んで一口飲めば、優しい熱さが私の喉を滑り降りていった。

橙色の水面にポツリと水滴が落ち波紋が広がる。

そしてもう一滴。波紋が更に増えた。

その水滴が自分の瞳からあふれ出す泪だということに少し驚いた。

あの人が私の名を呼び、私があの人の名を初めて呼んだ。そう、何度も・・・。

哀しいわけじゃない。

体に残る痛みのせいじゃない。

切ないほど幸せだけどうれし涙、と呼ぶのも少し違う気がする。

花吹雪の頃出逢ったあの人は

花の蕾が綻び始める頃私を愛していると告げて

そして今夜、私の肌に花びらをいくつも散らした。

この泪はもう二度と私があの人を「先生」と呼ぶことはない事を

懐かしむ気持ちの発露。

もう二度と袖を通すことのない制服を懐かしむような、そんな感傷。

紅茶を飲みながら、私は声を立てずにひとしきり泣いてキッチンの窓から月を見た。

蒼白い光・・・月だけが知っている私の泪。

カップやポットを静かに片づけて私は寝室へと戻り

あの人の傍にそっと自分の体を横たえた。

長い睫毛が柔らかな影を落とす頬にキスをする。

あの人が眠ったまま私を優しく抱き寄せてくれた。

静かな寝息を聞きながら私は想う。

この夜を、今夜の紅茶の味を私はきっと忘れない。

十年先、二十年先もきっと憶えてる。

その時もこのぬくもりが私の傍にあることを祈りながら

私はそっとあの人の耳元に囁いた。

「零一さん、愛してます・・・。」

朝になったらもう一度紅茶を入れて二人で飲もう。

そんなことを考えているうちに私の意識は穏やかな眠りの中に沈んでいった。





fin.