『月光浴』


窓から見下ろしていた乾いたアスファルトに小さなシミがにじんだ。
ひとつ、またひとつ。あっという間にシミは地面全体に広がり静かな雨音が響き始める。
屋根を、アスファルトを、そして柔らかな木々の葉を心地良いリズムで打ちながら。

梅雨入り前の、生き物の芽吹きを促すような優しい雨。

試験問題作成のために休日出勤している静かな日曜日の午後。
資料を探すために職員室から数学準備室に向かおうとして、ふと気づいた。

誰かが小走りに校門から校舎に向かってくる。
右手は何かをしっかりと抱え、左手でほとんど役に立っていなさそうな
上着らしきものを頭の上に押さえながら。

その人物が誰であるか、遠目ではあったが私はすぐにわかった。
受け持ちのクラスの女生徒。
高等部からの転入生ではあるが、まじめで勉強熱心、好奇心旺盛。
クルクルとよく変わる表情がなぜか気になる彼女。
その彼女がなぜ?こんな雨の、しかも休日に?

知らず知らず私自身も生徒たちの下足箱がある一階への階段を駆け下りていた。

辿り着いたそこには濡れ鼠の彼女が私の姿を認めて無邪気に笑った。

「こんにちは、先生。」

「何をしている。今日は休日の筈だが?」

「先生に会いに来ました。」

あまりにも屈託なくそう言われたので一瞬言葉を失った。

「君がなぜ私を訪ねてきたかは後で聞く。今はその君の髪と洋服を
 どうにかしなければ。・・・来なさい。」

彼女に背を向けて数学準備室へと向かう。
早鐘のように胸が鳴る。・・・「先生に会いに来ました。」だと?・・・
どうかしている、「生徒」が発した一言でこんなに動揺するとは。
それに、あの洋服。すっかり濡れて体に張りつくようになってしまい、
目のやり場に非常に困る。
梅雨前の不安定な天候の時期には傘を携行するよう、よく言って聞かせなければ。

「あの・・・」

「なんだ。」

振り返ると同時に発した私の言葉はつい、強い口調になってしまい
彼女は困ったように首をすくめた。

「あの、数学準備室通り過ぎちゃいましたけど。」

「そ、そうか。」

慌てて中に入り、エアコンの温度設定を3度ほど上げてロッカーを物色した。
タオルはすぐに見つかったが、着替えさせるものはいったいどうすればいいのだ。
私のスーツを着せるわけにはいかないし、これしかないか・・・。やはり。

「タオルでよく拭いて、これに着替えなさい。私は外に出ているから
 着替え終わったら呼ぶように。濡れた服はハンガーに掛けてエアコンの下に吊すように。」

ハイ・・・と言う小さな返事を背中に聞いて私は部屋から出た。

5分ほどたつとドアが遠慮がちに開いて彼女が顔を覗かせる。

「あのー、着替え終わりました・・・。」

私と視線が合うと彼女はあろう事かぷっと吹き出した。
予想された反応ではあったけれど憮然としてしまう。
部屋に入り、自分の椅子に腰掛けて彼女にも向かいの椅子に座るよう促した。

肩が小刻みに震えているのは寒さのせいではないらしい。

「何かおかしいだろうか?」

「いえ、ご、ごめんなさい。先生がこんな服持ってるなんて、予想もつかなかったし
 その、着てるところはもっと想像がつかなくて・・・。スーツ以外の格好なんて。」

一生懸命に笑いをこらえているのか、目尻には涙さえ浮かんでいるようだ。
彼女の年齢はいわゆる「箸が転げてもおかしい」年頃なのだろうが・・・。

「君は笑い上戸なのだろうか?私は四六時中スーツを着ているわけではない。
 ただ、そういった種類の衣類を買うのは非常に希なことだが。」

「わ、笑い上戸じゃないと思うんですけど。ごめんなさいー。
 どうして『ジャージ』なんか買ったか聞いたら怒っちゃいます?」

思わず小さな溜め息がもれる。
だから彼奴に言ったんだ。
似合わないと思うし、第一私の身体的能力はスポーツにむいているとは言い難いと。

「友人にスポーツクラブに無理矢理入会させられたんだ。
 デスクワークと趣味のドライブだけでは体がなまる一方だとかなんとか言い含められて。
 たまに学校帰りに通っているところだ。」

「ああ〜そうなんですか〜。でも先生って手足長いんですねー。
 ホラ、こんなにぶかぶかですよ。ホラホラ。」

彼女は満面の笑みをたたえて余っている袖口をぶらぶらと揺らした。
子供のように無邪気な、その笑顔。

「そんなことはどうでもよろしい。君はなんの用事で休日の学校に来たのか?」

「ああそうでした。はい、これ。」

彼女は濡れないように大事に抱えていた荷物の中から、一冊の本を取り出した。
夜の風景らしい冴え冴えとした月光が美しい写真集。
蒼白い幻想的な雰囲気に思わず引き込まれてしまいそうな本。

「すごく綺麗だったから、衝動買いしちゃって。どうしても先生に見せたくなって・・・。
 何となく先生が学校にいるんじゃないかと思って、歩いてたらこのどしゃ降り。」

彼女はまだ乾ききっていない髪をゆらゆらと揺する。

「で、走ってきたら先生がいてくれた。」

彼女は再びにっこりと笑う。

「全く君は・・・。もし私がいなかったらどうするつもりだったんだ。
 第一に梅雨前の不安定な時期には用心のために傘を携行するように。
 第二に私は生徒からの贈答品は・・・」

言いかけた先を彼女が制する。

「先生がいなかったら、また走って帰るつもりでした。
 それと本はお貸しするだけです。先生の感想を聞いてみたいので。」

彼女はあくまでもマイペースで柔らかな笑みを絶やさない。
生徒に本を貸したことはあるが、貸して貰うのは初めてのことかもしれない。

「ありがとう。では、貸して貰うことにしよう。」

本の帯を見ると満月の光だけで撮影したとある。
様々な蒼のグラデーションが織りなす沈黙が支配する世界。
子供の頃、新しい本を買って貰った時のような期待感が胸に広がった。

「服が乾いたら送っていこう。雨もまだ・・・」

そう言いかけて窓の方を見ると、いつの間にか雨はやみ
雲の切れ間から差し込む薄日が木々の葉の上の水滴をキラキラと輝かせている。

「あ、やんでる。大丈夫です、一人で帰れます。」

「しかし・・・」

「お仕事の邪魔しちゃってゴメンナサイ。ホント、大丈夫ですから。」

立ち上がった彼女はエアコンの下に吊した自分の洋服に触れた。

「なんとか乾きました。すみません、もう一度着替えさせて貰って良いですか?」

そう言われたので慌てて部屋を出て、ぼんやりと外を見る。
まるで、小さな台風のようだと思う。
突風のように現れて、こちらが想像もつかないような行動を起こす。
気に入った本を見せるためだけのために、わざわざ休日の学校にくるとは・・・。
彼女の行動に自分の胸の中がざわめいているような気がする。
なぜかはよくわからないけれど。

「ありがとうございました!じゃ、失礼しまーす。」

彼女は部屋から元気よく出てくると、私に向かってぺこりと頭を下げた。
こちらが何か言う前に、クルリと背を向けて階段を駆け下りていく。

彼女の気配が残っているように感じられる部屋に戻り、机の上の本をめくってみた。
一枚の花の写真に目がとまる。周囲の蒼から浮かび上がるように咲く白い花。
注釈を読んでそれが満月の夜にだけ咲くといわれる神秘の花、月下美人だと知る。
寿命は一夜の儚い花。

突然脳裏に彼女の笑顔がよぎった。
そして実際にこの花を彼女と眺めてみたいと考える自分に気付く。

「どうかしている。」

私らしくもない。こんな事を考えるなんて。
私は本を閉じ、やりかけの仕事に再び向かった。
視界の隅に蒼白い本の表紙。
彼女のおっとりとした笑顔と、たおやかな白い大輪の花の印象が重なる。

「本当にどうかしている。」

自身に言い聞かせるようにつぶやいて、私は静かにペンを走らせ始めた。






fin.