『幻灯』
「今から少し時間を取れるか?」
コンサートに出かけた帰りの車の中であなたが突然尋ねた。
昼間の照りつけるような日差しは少し和らいで、夏草の匂いをはらんだ風が
細く開けた窓の隙間から入り込む。
「あの、はい・・・大丈夫ですけど・・・」
・・・・Deja vu?・・・・
いつだったか同じような会話を交わした。
「あの、どこに向かっているんですか?」
「秘密だ・・・」
少し微笑みをたたえたあなたの横顔。
あのときと同じように私の胸がとくん、と脈打つ。
思わずクスリと笑うと、不思議そうにあなたが尋ねる。
「どうかしたのか?」
「いいえ、前にも同じような事話したなあと思って」
「そうだったかもしれないな」
あのときと違うのは私たちの関係が『先生と生徒』から
『恋人同士』に発展したこと、かな?
あの日見た光景は今でも鮮明に覚えてる。
不思議な色の光の中で、こちらを振り返ったあなた。
・・・きっと私が恋に落ちたのはあの瞬間だった・・・
「着いたぞ、起きなさい」
いつの間にかうたた寝していたらしい。
あたりは闇がおりて微かに蜩の鳴く声が聞こえる。
あなたに手を引かれて車から降りるとそこは静かな林のようなところだった。
露を含んだ草は滑りやすく、高めのヒールを履いていた私は恐る恐る歩を進める。
「ここ、どこですか?」
あなたはその質問には答えずいきなり私を抱き上げた。
「そんな歩き方では転ぶのが目に見えている」
「わっ、だ、大丈夫ですから。一人で歩けますよ〜」
「君に見せたいものがある、目を閉じて静かにしていなさい」
どうしてこんなにドキドキさせるんだろう、この人は。
私の心臓がどうにかなっちゃったら、全部、全部、あなたのせいなんだから。
やがてさやさやと水の流れるような音がし始めた。
緑の気配は一層濃くなり、少し冷えた夏の夜風が頬に心地良い。
そっと私を降ろしながらあなたが囁いた。
「目を、開けてみなさい」
目を開けるとそこは淡い光が乱舞していた。
漆黒の闇を流れる無数の光。
蒼とも碧ともつかない不思議な輝き。
まるで何かを訴えるようにゆっくりと点いては消え、消えては点く。
「これって・・・蛍?」
「そうだ。まだあまり知られていない場所だそうだ」
「綺麗、ですね・・・」
静かに明滅する蛍たちを驚かさないよう、自然と囁くような声になる。
「君に、見せたかったんだ」
はにかむようなあなたがなぜだかとても可愛らしく思えて腕を伸ばした。
何事かというようにあなたが少し膝を折って、私に向き直る。
「ありがとう、ございます。とっても嬉しい・・・」
そっと、そっと唇を重ねた。
私からする初めてのキス。
あなたは少し驚いたように私を見て、さっきよりも深いキスを私に与えてくれる。
せせらぎの音と、蛍の燐光。
光と闇と夏の気配。
きっといつまでも忘れない、幻のような夏の一夜。
fin.