『Impatience』
久しぶりに私の家に訪れた彼女は、びっくりするほど面やつれしていた。
大学の卒業試験が近いのが原因だろうとは思うが、いつもの薄紅色の頬が
青白さを感じさせるほどに変化しているのが痛々しい。
「大丈夫か?」
私は開口一番、思わず尋ねた。
「あ・・・はい。一生懸命やっているつもりではあるんですけど・・・。」
「違う。試験の準備ではなく、君の体調の方だ。」
「私・・・ですか?大丈夫、です。」
答える口調も弱く、か細い。
彼女が通う大学はことのほか卒業が難しいと聞く。
卒業後に国家試験も控えているので、大学側としては国試の合格率を下げるような
できの悪い学生は輩出したくないのが本音だろう。
「君はいつも、十分すぎるほど頑張っている。少し休息も必要だと思うが?」
「そんなこと、ないです。」
彼女がふるふると首を振り、思い詰めたような瞳で私を見上げた。
「やっても、やっても、不安なんです・・・。ここはもっと深く考察した方がいいんじゃないか?
あの原理も暗記した方がいいんじゃないか?・・・って。」
必死に彼女は続けた。
「ベッドに入っても、ああ、友達はまだ起きて頑張っているかもしれない、
私は寝てるヒマなんてないんじゃないか、って思うと寝付けなくて。」
可哀相に、相当精神的に追いつめられているらしい。
適度な休息を入れなければ、効率のよい学習は出来ないのだと言ったところで
彼女のじりじりとした不安を取り除いてやることは難しいだろう。
「ごめんなさい、せっかく久しぶりに零一さんのおうちでデートなのに・・・。」
「かまわない。」
そう囁いて彼女を引き寄せる。
あっけなく私の腕に囚われた恋人は不安の色を宿した瞳をゆっくりと閉じた。
「このまま、抱いているから少し眠ったらどうだ・・・。」
微かに頷いた彼女は私の首筋にすがりつくように腕をまわし、
十分ほどたつと静かな寝息が聞こえてきた。
私の生徒だったときのあどけなさが残るその表情。
しかし確実に彼女は成長し、あと少しで社会人となり更に広い世界へと羽ばたいてゆく。
突然、言いようのない焦燥感が私を襲った。
そう、彼女が接する世界は加速度的に広がっているのだ。
新しい立場、環境、友人、・・・そして彼女に好意を抱くかもしれない輩。
その輩に私のこの愛しい恋人を奪われないという保証があるだろうか?
彼女が近い未来の卒試や国試に恐怖の念を抱くのと同様に、
私もまた、新たに彼女の前に現れる男に対して畏怖している。
かけがえのない存在をこの手に抱いたと思った瞬間から、
今度はそれを失うかもしれないという恐怖を身のうちに抱え込むのだ。
彼女を休ませるためにこの腕に抱いたのに、このざまはいったい何なのだ。
不安に苦しむ彼女の安らぎになるべきはずが、誰よりも私自身が安らぎを欲している。
知らず知らず、私は彼女の唇に自分の唇を重ねていた。
そう、最初は眠る彼女を起こさぬよう静かに・・・。
・・・誰にも、渡しはしない。・・・
焦燥感に煽られて自然と口づけは深く、荒々しくなってゆく。
やがて、彼女がまどろみの中で私の口づけに気づきうっすらと目を開けた。
渇きを埋めるように彼女も私に応じてくる。
どんなに愛していても私は彼女の不安を拭い去れないし、
彼女も私の愚かな焦燥を消し去ることは出来ない。
私たちの存在が交わり、ひとつになったときでも真の意味で私たちは孤独なのだ。
私自身はもっと冷静で、こんなに何かに執着するようなことはないだろうとたかをくくっていた。
愛する気持ちが深まるにつれ、私は自分の幼さ、愚かさに戸惑ってばかりいる。
「・・・零一・・・さん・・?少し・・・ちから・・・ゆる・・めて。」
苦しそうな彼女の声で我に返る。
己の感情にまかせて抱きすくめていたことに気づいた。
「す、すまない。私は、その・・・。」
私の慌てぶりが可笑しかったのか、彼女が柔らかく笑って首を振った。
「いいんです、零一さん。ちょっとびっくりしただけ。」
「君が、遠くに行ってしまうような気がして堪らなく、不安になったんだ。」
「私がどんなに遠くに行ったとしても、帰る場所はここでしょう?」
そう言って彼女は私の胸をツン、とつついた。
「気が狂いそうに試験のことが心配でも、ここに抱かれていると熔けていくんです。
少しずつだけど不安も、焦りも、戸惑いも・・・。今日は、良かった。逢えて・・。」
彼女の一言一言がちりちりとした私の焦燥をなだめていってくれる。
「ここが、私の、大好きな場所・・・。」
シャツ越しに彼女の唇が触れ、再び彼女はまどろみの中に落ちていった。
私はゆっくりと彼女を抱き上げ、寝室へと運ぶ。
愛しさ故に愚者となる。それも悪くない、そう、思いながら。
fin.