『緑の日々』


桜の季節は瞬く間に過ぎて、緑が目立つ時期になってきた。
夏のむせ返るような濃さの緑とは少し違う優しい色。
初夏を前にした、思わず深々と息を吸い込みたくなるような緑。

今度の休日に森林公園に行こうと誘ったのは私だった。
卒業式の日に彼女に自分の想いを告げて以来、何となく面はゆい。
博物館や水族館に赴くと、在学時の課外授業と大差ない口調で
彼女に接する自分が滑稽だった。

肩の力が抜けていないのは彼女も同様で、いまだに私のことを『先生』と呼ぶ。
卒業してからまだ2ヶ月足らずしかたっていないのだから無理からぬ事なのだろうが。

「私はもう、君の担任ではないのだから『先生』という呼び方は如何なものだろうか?。」

「はい?じゃ、じゃあなんてお呼びしたらいいんでしょうー。
 れ、零一さんなんてとてもだめですよ!
 恥ずかしくって、私おしゃべりできなくなっちゃいますから・・・。」

こんなやりとりを交わしたのはつい先日のことだ。
私たちの時間は始まったばかりなのだから、そう焦ることもないだろう。
私自身が彼女の名前ではなくて、名字を呼んでしまうことも多いのだから。

公園の中ならば、そんな些細なことに気を取られずにゆったり出来るだろうと考えて
やってきたまではよかったのだが・・・。

(・・・休日の公園にはこれほど人が多いのか!?・・・)

天気に恵まれたせいもあるだろうが、親子連れ、カップル、賑やかなグループ。
休息を取る木陰を探すのも一苦労しそうだ。

「わー、すごい人ですねえ。・・・何しましょうか?」

のんきそうな声で彼女が私を見上げながら尋ねる。
何を?と聞かれても特に思い浮かばないのが情けない。

「ボートでも乗ります?」

「君はボートを漕げるのか?」

「いいえ。先生は?」

「私も未経験だが。」

「ん〜、じゃあ危ないからやめましょう。」

沈黙が気まずい。
彼女は人差し指を唇に当てながら、なにやらじっと考えている。

「じゃあ、お昼寝しましょう!」

「全く君は・・・。まだ来たばかりで疲れているわけでも、ましてや眠いわけでもないだろう。」

「だって・・・ボールも持ってこなかったし、鬼ごっこ・・っていう年でもないし。
 ほらあそこ!ちょうど木陰が今空いたみたいだし。・・・ダメ、ですか?」

彼女が指さす先には柔らかそうな芝生があり、家族連れが席を立ったばかりのようだった。

「いいだろう。戸外で昼寝をしたことはないが・・・」

と、私が言い終わらないうちに彼女が風のように駆け出した。

「競争ですよ!」

速い。みるみる私から離れてゆく。

「待ちなさい!そんなに急いだら危ないだろう!!」

私の声が届いたのか振り向いて一瞬笑顔を見せる。
弾かれたように私も走り出した。久しぶりの全力疾走。
忘れかけていた地を蹴る感触。顔の横を通り過ぎてゆく風の音。

風の先には、君がいる。

木陰をつくっている大きな木まで後一歩、というところで君の腕を捉えた。
そのまま二人で芝生に座り込む。息が弾んで言葉が出てこない。

二、三度大きく深呼吸をした彼女が私の瞳を覗き込む。

「先生、眼鏡ずれてますよ・・・」

私は笑って眼鏡を外し、額の汗を拭って前髪をかきあげた。
木々の隙間から差し込む光が少しだけ眩しい。

「先生の走るところ、初めて見ちゃいました。」

「久しぶりだ・・・。本当に、まだ少し息が、整わない・・・。」

クスクスと笑いながら彼女がバッグの中からチェックのレジャーシートを取りだした。

「いいですよ。ゆっくりしましょ?」

片肘をついて横になった私の傍に彼女が座る。

「・・・あのー・・・。」

「なんだ?」

「ここってやっぱりはば学の生徒も来ますよね。」

「???」

「あちこちから視線を感じるんですけど。」

さりげなく見渡せば、確かにこちらに視線を投げかけている者たちが何組かいる。
驚いた顔のような者もいれば、忍び笑いを漏らしながら内緒話をしている者もいるようだ。
その中には、校内で見たことがあるような顔の者も・・・。

「確かに生徒らしき者もいるようだが、気にしなくてもよろしい。」

「先生、学校でからかわれたりしちゃいません?」

心配そうに小声で尋ねる彼女が、とてもいとおしく感じた。

「本当に気にしなくてもいい。今は・・・」

「今は?」

急に体を起こした私に少し驚いたような風に彼女が聞き返した。

「教師としての時間ではなく、俺個人の休日だからいいんだ。」

肩を引き寄せて両腕の中に彼女を閉じこめた。

「せ、先生!あの、その・・・みんながっ!みんながっ!!」

みるみるうちに頬を朱に染めて、慌てる彼女が微笑ましい。

「今は、教師ではない。と言ったはずだが?」

「はいっ!でも、えっと・・・あ!俺っていいましたね?さっき。」

「そうだったか?」

「ちょっとびっくりしちゃいました。・・先生じゃないみたいで。
 あ、また『先生』って言っちゃった・・・。」

困ったように見上げた彼女の額にそっと自分の額を寄せた。

「・・・無理しなくてもいい。」

自分でも少し驚いた。幼なじみの彼奴以外の前で『俺』と言うことは滅多にないから。
素の自分が、一番自然体でいられる自分が出てきたということか。

「俺たちは、これからなのだから。」

彼女の頬の朱が一層濃くなる。
まだ始まったばかり。まだ知らないことばかり。
腕の中のかけがえのないぬくもりが花のように笑う。
二人の緑の日々は歩き出したばかり。



fin.