「櫻の木の下で」vol.2(後編)

噂が流れ始めてからも先生と彼女はごく冷静で、
肯定も否定もせずに普段通りの態度を崩さなかった。
それがとても大人の余裕のように感じられて、自分の弱さや幼さをもどかしく思った。

滝櫻の下でいつものように個人練習をみてもらっていると、不意に質問された。

「最近、音もあなたの表情もすごく元気がないみたい。どうしたの?」

「別に・・なんでもありません」(自分でも驚くような沈んだ声・・)

「ううん、嘘ね。あなた、あの噂が気になっているんじゃなくて?」
ズバリと指摘されて言葉を失う。

「私ね、結婚するのよ。」

「氷室先生とですか!?」
私は持っているフルートを落としそうになるほど慌てて彼女に聞き返した。

「アハハ、ほらやっぱり気になってるんじゃない。でも安心して、相手は大学の同期よ。
ヴァイオリン専攻だけど・・来月結婚式を済ませたら、すぐにイタリアへ発つわ。」

「そう、なんですか・・・」凍り付きそうだった心がゆっくりと元に戻ってくる。

「ごめんなさい、噂が立っているときに当人が何を言っても余計な尾ひれがつくだけだから、
無視してましょうねって先生とも申し合わせていたんだけど・・・心配したでしょ?」

こっくりと頷いた私の手を彼女がギュッと握る。

「あなた、とても氷室先生のことが好きなのね。みてるこっちの胸が痛くなるくらいそう感じるわ。
合奏の時の先生を見つめるあなたの瞳・・・」彼女は言葉を切り、一瞬沈黙した。
「まるで高校時代の自分をみてるみたいよ・・・」

「あの、あなたも先生のことが?」

「ええ、好きだったと思うわ。無防備なくらいストレートにね。
先生の声が聞きたくて、先生の姿が見たくって毎日がとても切なかった。」
・・・ホント、今の自分のようだ。

「もちろん結婚する彼はとても大切な人よ。
お互いに支え合い理解し合える、かけがえのないパートナーだわ。胸が締め付けられるほどの
切なさではなく、暖かい日だまりのような愛情で結ばれていると思う。」
いつの間にか、静かに彼女は泣いていた・・・。

「でも、結婚して日本を離れる前にもう一度先生に会いたくなったの。ズルイでしょ?私って。」
私は黙って首を振った。

「ううん、狡いのよ。私どうしても自分が結婚すること先生に言えなかったの。
なぜだかわからないけど・・イヤね。こんな大人になるつもりじゃなかったんだけど。」

あたりは少し風が出てきたようで、滝櫻からもひらひらと薄紅色の雪のように花びらが舞い始めた。

「先生には気持ちを伝えたんですか?」私はかろうじて聞いた。

「ううん、高校生の時の私すごく意地っ張りの割りに口下手だったから、
とてもとても好きなんて言えなかったわ。」泣き笑いのような顔で彼女が答えた。

「でも卒業式の日にね、真っ白なブーケを贈ったの。バラ、スイトピー、ガーベラ、マーガレット、
チューリップ・・いろんな種類の花を全部白で統一してね・・・。
”ありがとうございました。”って言ったら先生なんて言ったと思う?
”何もしてやれなかったな。すまない・・”ですって。もう完璧私の負けよ・・・。
先生ったら私の気持ち気づいてたのね。受け入れてはもらえなかったけど。」

私はなぜか涙が止まらなかった。
舞い散る花びらにせかされるようにほろほろと頬を伝う。

「マリッジブルー、なのかしらね?何の不安もないはずなのに、高校時代がすごく懐かしくなったの。
櫻に守られるように無邪気に日々を過ごしていたあの頃に、もう一度戻れたらって思った。
あの頃は一日でも早く大人になりたかったはずなのに、こんなにも懐かしくなるなんてね。」

「あなたは気持ち、伝えたの?」彼女が問う。

「いいえ、まだです。」私の声は涙声だ。

「じゃあ、頑張って。後悔しないように。今のあなたの気持ちを、計算も駆け引きもない
純粋な、好きって想いを伝えるべきよ。」

「でも、先生は・・・」

「大丈夫、自信を持って。先生のあなたを見つめる瞳、他の誰を見つめるときよりも優しげだわ。
私が高校生のときなんか見たことがなかったわ。あんな表情。」

そんなこと、気づかなかった。私が一方的に見つめてるだけだと思ってた。

すっかり泣きやんでいつもの優しい微笑に戻った彼女は、まるで姉のように涙に濡れた
私の頬を両手で包み込みながら続けた。

「まずは一歩踏み出しましょ。全てはそこからよ。私がいつか帰国したとき、
先生の傍らにいるのがあなたであるよう祈ってる。」

数日後、彼女は部活のみんなに別れの挨拶をして去り、流れていた噂も自然と消えた。

滝櫻の花びらが全て散り葉櫻になったある日、偶然先生が独りで駐車場に向かうのを見つけた。
トクン、トクンと胸が鳴り、顔が上気するのがわかる。

「氷室先生!」

「奇遇だな、私も今から帰るところだ。」

「一緒に帰りませんか?」
谷底に飛び降りるような勇気を持って発した一言。
先生はちょっと驚いたようだったけど、すぐに少し照れたように笑いながら答えてくれた。

「そうだな、それもいいだろう。」

小さな一歩だけど、少しずつでいいから私の気持ちを伝えていこう。
彼女が私の背中をトンッと押して微笑んでくれたような気がした。


fin.