「櫻の木の下で」 vol.3


私は滝櫻の幹にそっと手を当てる。
この花を見るのは今年でもう三回目。とうとう最終学年になってしまった。

今日のクラス発表の時、先生は言った。「運命」だと。
「この中には三年間私の受け持ちだった者もいるようだが・・・」と。
私は運命によって三年間先生のクラスになれたのだろうか?

新しい学年が始まる前、私はいつも祈っていた。
「一緒にいたい。今年も先生のクラスになりたいと・・・。」
神様?ううん、少し違う。なにかもっとちがうものに祈っていた。

先生のクラスになれた喜びと同時に去来するのは、そこはかとない寂寥感。
期限付きのシアワセ。一年だけの限られた時間。

でもそうして限られた時間だからこそ勉強にも、部活にも、スポーツにも
必死で打ち込めたような気がする。
先生がくれるほめ言葉を聞きたい一心で・・・。

生徒である限り、この想いは伝えちゃいけない。
「好き」なんて口が裂けても言えない。
先生の眼差しが優しいのは、頑張る「生徒」に対してのものだから。
伝えてしまって先生の瞳から、優しさの色が消えたら・・・。
もう、どうしたらいいかわからない。

最近の私は、自分の内側からあふれ出そうな想いをもてあましかねている。
優しくされたら、言葉がとめどなく口から出てきそうで・・・。
社会見学、もう二回も断っちゃった。バカみたい、私。

「何をしている。」

背後からの声に飛び上がりそうになるほど驚く。
先生・・・。ダメ。今の私の顔を見ないで・・・。

「別に・・。櫻を見ていただけです。では、失礼します。」

顔を伏せてきびすを返した私の手首が強くとらえられ、グイと引き寄せられた。

「顔を上げて、こちらを見るんだ。」強いけれど、暖かな口調。

声が冷たさを含まないことに少し安堵した私は、おずおずと顔を上げる。
視線が絡む。・・・やはり見るべきではなかった。
心配そうな、優しい光を宿した瞳。

「最近はどうしたんだ。真剣に授業を聞いているかと思えば、窓の外をぼんやりと見てる。
 以前のように質問にもこない。合奏中も私と目を合わせようとしない。
 その・・社会見学にも参加しようとはしない。本来の君らしい快活さが影を潜めている。
 私には相談できない悩みなのだろうか?
 それとも私は気づかないうちに君の信頼を損ねるようなことをしたのだろうか?」

違う、違う、そうじゃない。
先生のせいじゃない。私の胸の底から今にも飛び出してきそうな想いのせい。
先生の優しさに甘えて、自分の想いが走り出すのを止められなかった私のせい。

ふるふるとかぶりを振るしかない。

「すみません、心配をかけて。明日・・そう明日からは大丈夫ですから。
 今年も先生の自慢のエースになれるよう頑張りますから・・。
 だから、離して、ください・・・。」

自分の声が震えているのがわかる。涙の一歩手前にいるような声。
お願い、先生。早く私の手を離して。私のそばから立ち去って。
その瞳で、私を見ないで・・・。

私の手首をとらえた手が、一瞬力を緩めたときに捻るように振りほどく。
小走りに走り出そうとしたそのとき、さっきよりも数段強い力で引き戻された。
滝櫻の幹を背に当てるような格好で、私は先生の腕の中にとらえられる。

「逃げるな・・・。」

低い声、吐息がかかるほど近くにある先生の顔。
怖さと恥ずかしさで戸惑う私の頬を暖かいものが伝い始めた。

「離してっていってるじゃないですか・・!見ないでください、こんな顔。
 優しくされたら期待しちゃう。もしかしたら私の想いに気づいてくれたのかなって・・。
 生徒としてじゃなく、私のこと考えてくれるんじゃないかなって。
 先生の優しさが優秀なエースに向けられる教師としての賛辞だとわかっていても、
 でもっ・・・。私は、私はっ!・・・もう先生の生徒でなんかいたくない!」

叫んでしまってからハッとする。私は混乱して、何を・・・。
感情の高ぶりが、涙の量を一気に増やし、止めどなく頬を濡らす。

次の瞬間柔らかい感触を目尻に感じた。
先生の唇が、涙を吸い取るように何度も何度も私の頬に降りてくる。
やがてそれは、小さく声をあげようとした私の唇に重ねられた。

「私が、どんなに君に惹かれていたか・・。
 どんなに自分を殺そうと務めていたか、君は知るまい。
 君の教師・氷室零一への信頼を失うことがどれほど怖かったか。
 しかし、もう遅い。君の涙が私の枷を取り払ってしまった。」

息も出来ないほどきつく抱きしめられる、私の体。

「多分、初めてこの櫻の下で君にあったときから惹かれていたんだと思う。
 もう、離したくはない。私の、私だけの君でいて欲しい・・・。」

めまいがするような幸福感が私を襲う。

「私、ずっと先生のそばにいたいです。卒業してもずっと・・・。」

ああ、私が何に祈っていたのか初めてわかった。
私たちが最初に出逢ったこの櫻の木。
日ごとに募る私の想いのつぶやきを、先生を想って奏でた音色を、
いつも吸い上げてくれたこの櫻に、私は祈っていたんだ。

いくつもの薄紅色の花をつけた細い枝は、私たちを守るように風にそよいでいた。





fin.