『招月』

気がつくともう夜中の二時を回っていた。
引率日誌をパタリと閉じて軽くため息をつく。

今日は何度声を荒げただろう。
時間を守れ、私語は慎め、きちんと整列しなさい・・・
挙げ句の果てには「早く寝なさい!」
集団での旅行という特殊な状況であるのはわかるが
夜遅くなるにつれて生徒達はハイテンションになっていく。
各部屋を見回り、やっと静かになったことを確認したらもうこんな時刻。

シャワーを浴びて寝間着に着替え、枕元に外した眼鏡を置こうとした時
かすかにカラカラというベランダに面したサッシが開く音がした。
まだ誰かが起きているのか・・・と再びため息をついて自室のベランダへ出る。

隣の部屋のベランダに人影が見えた。

「誰だ。何をしている」

ビクッと驚いたようにこちらを振り向いたのは、明日自由行動を共にする予定の彼女だった。

「・・・先生・・・」

「消灯時間はとっくに過ぎていると思うが?」

「すみません、明日も先生と自由行動だから早く寝なくちゃいけないのに・・・」

「眠れないのか?」

「目が冴えちゃって・・・緊張してるのかなぁ」

首をかしげて夜空を見つめる彼女の頬に月の光が優しく差し込む。
友人は多いはずなのに自由行動の予定表を提出していなかった。
なんとなく放っておけない気がして私が一度目の自由行動を引率し
二度目も一緒にまわることにしたのだった。

「遅刻は厳禁だ。君に見せたい場所はたくさんある」

彼女は驚いたように私を見て、小さく笑った。

「先生って・・・優しいんですね」

不意打ちのようにそう言われて自分でもおかしいほど狼狽した。

「ひ、一人にしておくと君は何をしでかすかわからない、と言ったと思うが?」

「ありがとうございます。でも・・・私ってそんなに危なっかしく見えます?」

危なっかしいという言い方は適当ではない、ような気がする。
放っておけない気がする、そんなところだ。

「そうではない」

じゃあなんだ?と彼女が聞き返したらいったい何と答えよう。
少しの沈黙が私と彼女の間に流れた。

「あの、先生に誘って頂いて本当に嬉しかったんです」

また不意打ちだ。今度は驚いたことに自分の頬に朱がさす感覚が走る。
何も答えられずにいると彼女の細い指が天空の月を示した。

「月、綺麗ですね。寝ちゃうのがもったいない感じ」

彼女は私の内心の動揺など知らぬげにクルクルと話題を変えた。

「確かに綺麗だが・・・睡眠を取らなければ明日に差し支える。もう休みなさい」

一瞬瞼を伏せて、再び私を見た彼女の瞳はほんの少し寂しげだった。

「五分、いえ三分でも良いです。一緒にお月見しません?」

「・・・五分だけだぞ」

ほっとしたように彼女が笑う。

「・・・月は、これから先何百回も、ううん、何千回も見るだろうけど
 京都で、先生と一緒に月を見ることなんて二度とないと思うから・・・」

「そう、だな・・・」

なぜだかちくりと胸のとても深いところが痛む気がした。

哀しいほど澄んだ夜の静謐な空気の中で、私たちは蒼白い月をただ黙って見上げていた。
やがて彼女が口を開く。

「おやすみなさい。明日はよろしくお願いします」

クルリと私に背を向けて、彼女は部屋の中へと姿を消した。
あっけないような去り方に、またちくりと痛みを覚える。

(おやすみ・・・)

心の中でつぶやいて、煌々と輝く月を仰ぐ。
彼女と再び月を愛でる機会はあるのだろうか・・・?
そんなことをぼんやり考えながら私は部屋へと帰った。





fin.