『逃避行動』


冬は日が陰るのが早い。
かさかさと枯れ葉を踊らせながら吹く風が、足早に帰宅する生徒達の間を通りすぎる。
明日が期末試験の最終日、それが終われば今年は後いくらも残されていない。
自分が年齢を重ねるに連れ、一年があっという間に過ぎゆくことに少し驚く。

薄暗くなり始めた校内には教室に居残る者、図書室で友人とテストの山かけをする者、
職員室に質問に来る者…教師の他にもこうした生徒達が幾人か居残っているようだった。

「音楽棟の戸締まりをしてきます」

隣の席の同僚にそう、言い置いて私は席を立った。
はばたき学園の音楽棟は二階建てのまだ新しい建物だ。
一階と二階にそれぞれグランドピアノのある音楽室があり、二階には更に音楽教師の部屋、
一階には楽器の倉庫と生徒が自由に使用できるピアノ室が六部屋ほどある。
ピアノ室はアップライトピアノが一台ずつ設置されており、狭い空間ではあったが
音大受験の生徒やピアノ好きの生徒達がよく利用していた。

試験期間中は部活動も休みのため、てっきり明かりが消えているだろうと思いながら
やってきてみれば驚いたことにピアノ室の一つに明かりが灯っている。
その蛍光灯の光は冷たい風が吹き抜ける冬の夕暮れの中で、一層白く、寒々しく見えた。
誰かの消し忘れだろうと思いながら、音楽室を通りピアノ室が並ぶ通路に出ると
微かにピアノを弾く音がする。
…弾く、という言葉はこの際適切ではないかもしれない。
それはあまりにたどたどしく、まるで鍵盤の上に撒き散らした豆を鳩がついばみながら
歩いている様な感じだった。
その音運びのたどたどしさには思わず微苦笑がこぼれるようだったけれども、
明日が試験の最終日であることを考えれば、早く帰宅して勉強するように厳しく指導しなくては…。

ピアノ室のドアの小さな窓から室内を覗き込む。
楽譜を前に眉間にしわを寄せて鍵盤と格闘しているのは『彼女』だった。
ドアを開けようとした手にためらいが生じる。
躊躇することなくドアを開けて叱りつければよさそうなものだったが、できなかった。

『生徒』を注意するのに何をためらう?
自分自身にそう問うて、私は息を吐く。ピアノ室のドアの窓が少し曇った。
軽く咳払いをすると彼女はびっくりした顔で私の姿を認め、悲鳴を上げた。

「しーっ!しーっ!頼むから静かにしてくれ。私だ、氷室だ!」

「び、びっくりした〜。お化けかと思うじゃないですか〜…そんなトコに立ってたら」

肩で息をしながら、彼女が抗議の声をあげた。
お化けと言われたことに少々傷ついたけれども、極めて冷静な声を出すよう努力する。

「ここで何をしている?と聞くべきだろうか。期末試験はまだ後一日残っているはずだが?」

「えーっと、その…あの…先生はやらなくちゃいけないことがあるのについ、他のことを
 しちゃうってことないですか?試験前とか特に…」

首をすくめた彼女の姿はいつもより小さく、頼りなげに見えた。

「ない」

きっぱり言い切ると、そうですよねぇ…と言いながらため息をつく。

「ごめんなさい、もう帰ります」

彼女は楽譜に手を伸ばし、それをさも大事なものであるように抱え込んだ。

「待ちなさい。私の質問に答えるように。その楽譜を弾いていたんだな?見せなさい」

彼女がおずおずと楽譜を差し出す。

『Un Sospiro』(F.Liszt)

「…これは…君はピアノを習っているのか?」

「とんでもない!私、一度もありません」

さっきの鳩の散歩のような指使いでは当然と言うべき答えだが。

「…ただ…」

そう呟くと彼女は俯いてしまった。

「…先生がこの曲を弾いてらっしゃるのを偶然聴いて、いいなあって…」

ある日、なんとなく音楽室のピアノに向かいこの『ため息』を弾いていた。
学校でピアノを弾くことはまれだったから生徒に聴かれることは初めてだった。
その時のことを言っているのだろう。

「今は試験期間中だ。他にやるべきことがあるだろう」

「…その通りなんですけど、でもあの日の先生が忘れられないんです…」

とくん、と胸の鼓動を感じる。

「自分じゃ弾けるはずないの分かってるけど、試験前なのも分かってるけど…
 どうしても、鍵盤に触れてみたくって…こういうの逃避行動っていうんですね、きっと」

困ったように笑う顔が少し寂しげだった。

「先生はあの時どういう想いで弾いてらしたんですか?」

「どういう…と言われても…、なにか変だったか?」

あの時私は彼女のことを考えていた。
気がつくと彼女の姿を目で追っている自分、不思議な暖かい感情。
教師として、努力家の彼女を気にかけているだけだと言い聞かせながら。
そして現れたのが彼女だった。
心の中を見透かされたようで至極きまりが悪く、恥ずかしかった。

「先生のピアノ…とっても優しい音でした。いつもの先生じゃない、
 みんなが知らない先生を見ることが出来たみたいでちょっと嬉しかった…」

私は再びふっと息を吐いた。
そのため息を私の不快感と取ったのか、彼女が申し訳なさそうに呟く。

「帰って勉強します。もう暗くなっちゃったし…すみませんでした」

楽譜を彼女に渡しながら口をついて出た言葉は自分でも驚く台詞だった。

「待ちなさい…もう一度…弾こう」

「えっ?でも…」

「なにか気にかかることを残したままでは勉強に集中できないだろうからな」

ピアノの前に座り、深く息を吸う。背後の彼女の視線を痛いほど感じながら。

「私はあの時…何も考えてはいなかった…ただ、部屋に差し込む夕日が綺麗だと…」

精一杯の下手な嘘。
君のことを考えていたなどと口が裂けても言えない、そう、今の私では。
静かに曲を奏で始める。
心を込めて、今このひとときだけ教師ではない、ただの臆病な男になって…。

演奏が終わるとしばしの沈黙の後、彼女が口を開く。

「…やっぱりすごく好き。先生のピアノ…」

「試験勉強には集中出来そうか?」

「はい!頑張ります。すごくパワーもらっちゃったみたい。徹夜だって出来そうなくらい」

「適度な睡眠は取りなさい、試験中に居眠りなどされては困るからな」

「う〜〜…はい…」

クルクル変わる表情が微笑ましくて、思わず彼女の頭を幼子にするようにくしゃくしゃっと撫でた。

「もう遅い、家まで送ろう」

「はい!」

照れくささから早足で歩く私の後ろを小走りについてくる彼女。
明かりを消した音楽棟の屋根の傍には細く蒼白い月が出て、私たちを照らしていた。


fin.