「雪衣」
舞台の上は一面の蒼白い雪景色。
そこに、白い衣を纏った娘がたたずんでいる。
彼女は鷺の化身。一生一対を守るといわれている雪のような翼を持つ鳥。
私の傍らでは、彼女が食い入るように舞台を見つめている。
今日は「社会見学」と称して私の贔屓の女形の舞台を見に連れてきていた。
・・・妄執の雲晴れやらぬ朧夜に 君に迷いしわが心 忍ぶ山口舌の種の恋風が
吹けども傘に雪もって 積もる思いは淡雪の消えて儚き恋路とや・・・
綿帽子をかぶった白無垢姿から、一転衣装を引き抜いて
江戸の町娘の姿になり、恋の楽しさを幸せそうに踊る。
彼女は華やかな恋心を踊る娘に自分の心を重ねるように、目を大きく見開いて輝かせている。
やがて恋の楽しさは過ぎ去り、鷺を表す衣装にぶっかえった女形は地獄の責め苦にあう様を
髪を振り乱し狂おしく舞う。身悶えし必死に羽ばたこうとする。
恋故に落ちた地獄。空を掴むように、恋した男の面影を追うように手が宙を切る。
いつしか舞台には雪が降りしきる。
白銀の吹雪。雪は蒼白い炎のように苦しむ娘の体にまとわりつきやむことはない。
その雪はただの紙であるはずなのに、しんと凍るような空気が劇場全体を包んでいるように
感じさせるのはこの女形の力量の故だろう。
見つめる彼女の顔からも笑みは消え、舞台に同化したような蒼ざめた頬をして口を結んでいる。
雪が舞い散る中、ゆっくりと娘は崩れ落ち羽ばたく腕がほとりと雪に降ろされ永遠に停止する。
最後にその瞳に映ったのは無慈悲な天か、恋しい男の顔か。
動かなくなった娘の体にも雪は降り続き、割れるような拍手とともに幕が静かに引かれた。
ふと彼女を見ると、彼女は静かに泣いていた。
雪が熔けた水滴のようにはらはらと頬を伝い、瞬きをすると更に雫がこぼれ落ちた。
劇場全体が明るくなり、客が席を立ち始めても彼女の涙は止まらなかった。
そっとハンカチをわたし、静かに席から立ち上がらせる。
すみません、と小さく答えて彼女はハンカチを目頭に押し当てた。
少し離れた場所に止めた車につくまでの間、それきり彼女は口をつぐみ、私もまた黙って歩いた。
街を歩く多くの恋人たちのように、彼女の肩を引き寄せて慰めの言葉をかけてやればよいのだろうが
己が教師であるということが重い足枷のように私の行動を妨げた。
彼女に触れてしまえば自分の秘めた想いを押し殺すことは出来なくなりそうで怖い。
「あの、すみませんでした。こんなに泣いてしまって・・・。」
車の窓硝子を街の灯りがゆっくりと流れていく様を見つめながらようやく彼女が口を開く。
「あの役者の演技に、君が何かを感じ取ってくれたなら私は嬉しいが。」
「役者に・・というか舞台の上のあの鷺娘の気持ちを想像するとどうしようもなく泣けて・・。」
「それはいったいどのような?」
私が問いかけると彼女はゆっくりと、言葉を慎重に選ぶように話し始めた。
「恋しいと想う気持ちを引きずることは、罪なのでしょうか?
死んでもなお、恋しい相手に心を乱されることは罰せられるべき罪だったのでしょうか?
恋をするということは、ある種の苦しみを伴い・・・堪え忍ばなくては・・・。」
言葉がとぎれた。
「すみません、うまく言葉に出てこないんです。何かこの辺に重苦しいものがあるみたいで。
無理に言葉を探すと涙腺が、その・・・。ダメだ・・・。氷室学級の生徒失格ですね。
せっかくいい舞台を見せて頂いたのに、レポート書けるかな・・・。」
伏し目がちにつぶやくその姿に、私の心が泡立つようにさざめく。
・・・・・・妄執の雲晴れやらぬ朧夜に 君に迷いしわが心・・・・・・
長唄の一節が脳裏によみがえる。
朧夜の月のように、はっきりと表せないこの想い。
君への想いが許されないものではないかという恐れ。
踏み出してしまえば一層苦しくなるだけかもしれない恋。
「この世に許されない恋などというものは存在しないと思っている。
地獄のような苦しみを伴ってもなお、止められないのが恋心というものであると。
恋故の罪ならば、甘んじて受けようと私は考える。君は、今、誰か・・・。」
「先生・・?」
「い、いや、何でもない。」
私はいったい何を口走ったのだ!?彼女に何を聞こうとした?あれではまるで・・・。
「先生は、どなたか好きな人がいらっしゃるんですか?」
「君は、苦しみ堪え忍ばなければいけない恋をしているのか?」
ほとんど同時にお互いに問うたとき、車は彼女の家についた。
一瞬視線が絡み、その瞳の奥に映る自分の戸惑った顔を探り当てるように深く見つめ合った。
「ありがとうございます。わざわざ家まで。」
「問題ない。 私の帰路に君の家があるだけだ。」
いつの間にか夜気は冷気を伴って私たちを取り囲んでいた。吐く息が白い。
「……それでは。」
いつもと同じ挨拶を交わし、彼女が家にはいるのを見届けた。
今はまだ、何も言葉に出すべきではないのかもしれない。
彼女の涙の真意はいったい何であったのか。
その想いが誰に向けられているのか。
私の恋は迷いの雲を払うことが出来るのか。
心に去来する幾多の問いは、降りしきる雪のように積もり果てることはない。
fin.
★今回、雪の描写がある切なめの雰囲気・・を目指したのですが。(滝汗)
SS中に登場するお話しは『鷺娘』という踊りです。以前坂東玉三郎さんの舞台を拝見したのですが
この世のものとは思えないくらいに幻想的で凄みがある美しさでした。
恋故の地獄・・・。落ちる勇気はありますか・・・?