『前夜祭』

灯りを落とした店の奥のキッチンで、俺はオーブンとにらめっこしている。
5、4、3、2、1…はい、焼き上がり。
銀色のミトンをはめてそっとオーブンから天板を取り出した。
辺りに広がる甘い香りと、焼き上がったジェノワーズのきれいなきつね色に思わず笑みがこぼれる。

ジェノワーズが冷めるまでの間、ちょっと一息入れよう。
明日のために早仕舞したけれど、肩の辺りが少しだるい。
ハンドミキサーも用意しておくんだったなぁ…泡立て器をシャカシャカやるのは疲れるわ、やっぱり。
自分用のアンティークのショットグラスにとっておきのバーボンを注ぎ、手近の椅子に腰をかけた。
グラスの中の琥珀色の液体は、喉に流し込んだときの灼熱感とは無縁のように静かに揺らめいている。

何か音楽が欲しくなってCDの棚を物色する。
『静かな時間』というタイトルが目にとまり、それをかけることにした。
オリジナルのピアノ曲が中心だけれど、バンドネオンや二胡、チェロなども加わった独特の
サウンドは夜が深まっていくこの時間帯にはぴったりだ。

音に身を委ね、バーボンを一口含む。
店の隅にはグランドピアノ。明日、あいつはどんな顔でこのピアノを弾くんだろう。
きっと少し照れたような、はにかんだような顔だろうな、きっと。
このピアノはあいつの代弁者みたいだった。
言葉よりも雄弁にあいつの気持ちを彼女に伝えてきた。
優しいけれど不器用で、生真面目すぎて誤解されやすい。
そんな零一が恋した彼女。

初めて店に連れてきたとき、あいつはいやに『生徒』ということを強調していたっけ。
困ったような顔でレモネードを飲んでいた顔は、今思い出しても可笑しい。
二回目はクリスマスの頃だったか…。
あのときの零一は本当に嬉しそうな顔でピアノを弾いた。
彼女は零一のピアノを聴くのは二回目だと言ってた。一度目は放課後の音楽室、二度目が俺の店。
いつものあいつの教師姿からは想像も出来ないほど優しい音色に驚いた風で…。
その時かな?なんとなくこの二人うまくいくんじゃないかなって思ったのは。

俺の物思いと耳に心地良い音楽を妨げるように携帯が鳴る。
一呼吸おいて、もしもし?と問う。

(…私だ)

「なんだお前か。今丁度お前のこと考えてたんだよ〜ん」

(や、やめろ。気持ち悪い)

「なんだよ〜、まあアタシもよ、くらい言え」

(言えるかそんなこと!…まあいい。今何してる?)

「明日のパーティーの準備中。誰かさんのね」

(今近くにいるんだが行っても構わないか?)

「いいけど…早く寝なくていいのか?お前」

子供じゃないんだから、と笑い含みに言って電話は切れた。
数分後、零一は現れた。
悪いな、とスツールに腰を下ろす。

「はいはい、いらっしゃいませ。俺と同じのでいいか?」

「いや、いい。何か手伝えることはないかと思ったんだが」

「大丈夫。あとはケーキだけ仕上げて帰るつもりだったし、他のはもう冷蔵庫に入ってる」

「すまないな…式にも出てもらうのに。疲れが残るだろう?」

「あらぁ、労ってくれるの?じゃ、肩でももんでもらおうかな」

二人で顔を見合わせてくっくっと笑う。
ピアノと二胡が甘美と郷愁をはらんだ澄明な旋律を奏でている。
時間が至極ゆっくりと流れていくような感じだ。

「…ありがとう」

「なんだよ急に」

「彼女から聞いた。クリスマスにこの店に連れてきたとき、私のことを不器用で…だけど
 とってもイイやつだからと、言ったそうだな」

「言ったっけ?そんなこと」

「ああ…それで私のことを深いところで理解してやってくれると嬉しいんだけど…
 と耳打ちされたと言っていたぞ」

「言ったかなあ、そんなこと。でも礼を言われるようなことでもない気がするけど」

「お前が私の性格をフォローしてくれなければ、どうなっていたか…」

「そんな大げさだなぁ。俺が言わなくてもあの子はお前を理解して、好きになったさ」

あのときからあの子は零一を優しい眼差しで見つめてた。
俺たちよりもずいぶん年下の筈なのに、包み込むような笑顔で…。

「いや…感謝してる。私も、彼女も…色々相談にも乗ってもらったからな」

「俺って相談されやすいタイプらしいぞ」

再び笑いあったところにまた携帯が鳴った。
出ろよ、と視線で零一が促す。

「はいはい?」

(マ、マスターさん?零一さんが、お家に帰ってないみたいなんです!)

「落ち着いて…。電話は?通じないの?」

(はい、お家の電話も携帯も通じなくって。じ、事故とかにあってたらどうしましょう〜)

半ベソをかきそうな彼女の声。零一は何事かというように俺を見ている。

「大丈夫。ここにいるからね。今代わるよ」

ほら、と携帯を差し出した。

「携帯くらい持って出かけな。心配で泣きそうだぞ、彼女」

俺の携帯を受け取って零一は店の隅で必死に謝り、心配しなくていいからと慰めている。
明日は結婚式だっていうのに二人ともなにやってるんだか。
零一の姿を笑いながら見ていると携帯を返された。

「お前に代わってくれと言っている」

「はいはい、ね?ちゃんといたでしょ。零一はどこにもいかないよ、君を残して」

(ごめんなさい、私どうしよう、どうしようってそればっかりで…)

「明日早いんでしょ?睡眠不足はお肌の敵だよ。零一もすぐ帰るって言ってるから安心してね」

(はい…あの、明日よろしくお願いします。色々とお願いしちゃってすみません)

「まかせて。腕によりをかけたから。いいパーティーにしようね?二次会だからわいわいやろう」

(ありがとうございます…あの、あの…ホントに…マスターさんにはずいぶん励ましてもらって…)

「いいよ。そんなこと…。さ、もうおやすみ?明日、きれいな花嫁姿見せてよね」

(はい…おやすみなさい…)

携帯を切って零一に向き直る。

「俺はケーキの準備もあるからもう帰りな。明日に備えろ」

「ああ…悪かった。私の不注意でバタバタとしてしまって…」

「とんだ独身最後の夜だな。あまり彼女に心配かけるなよ、これからも」

「気をつける…。では…ありがとう。また明日…」

「おう!明日な。頑張れよ、花婿さん」

律儀に一礼して出て行く姿がすごくあいつらしい。
飲みかけになっていたバーボンをぐっと空けると、灼熱感が喉を滑り降りていく。
さーて生クリームをシャカシャカやってデコレーションに取りかかるとしよう。
仕上げには真っ赤な苺と雪のような粉砂糖、シンプルな白と赤のコントラスト。
不器用な愛すべき俺の親友のために、もう一踏ん張りするか…。

明日はきっと…いい天気だ。
このうえもなく蒼い空の下で、教会の鐘が鳴る。
集う人みんなの上に祝福を投げかけるように、柔らかな日差しが降り注ぐ。
そんな気がする…。


fin.