第参拾壱回〜第四拾回


2003年02月24日
  第参拾壱回 日本神話」
 歴史の点数が良い子はどんな子か。歴史が好きな子である。そういう子は小学生の頃から「マンガでみる歴史 徳川家康」のような本を読んでいる。マンガはストーリー状になっているし、「織田信長」の巻だと、それは単に「バイオグラフィー(人物史)」ではなく「サーガ(戦記)」である。男の子が歴史に興味をもつ要素は十分にある。
 先日の杉並太郎氏のカキコに「つくる会の教科書は神話を載せたぐらいだよ」というのがあった。その掲載された神話の中に「天の岩屋戸の物語」がある。岩屋戸に隠れてしまった天照大神を外に出そうと、大勢の神様が岩屋戸の前でドンチャン騒ぎをする。外の様子が気になった天照が岩屋戸の扉を少し開けた隙に、タヂカラオが一気に扉を開けて世の中に陽の光が戻るという内容だ。教科書には「アメノウズメ」についても書かれている。ドンチャン騒ぎの最中にストリップをした神様だ。その描写を原文通りに載せてるわけだが、その中に「陰(ほと)」というのが出てくる。これは女性の性器のことだ。これを載せることはある意味冒険であった気もするが、思春期を迎える中学生がこの記述を見たらどうだろうか。入口は良からぬモノかもしれないが、日本神話というものに興味をもたせるのには十分な要素ではないかと思う。「つくる会問題」が盛んな時、この描写にクレームを付ける「左っ派」がいたそうだが、当然この人らは「従軍慰安婦を記述しろ」と言っている人らである。「陰」が駄目で「従軍慰安婦」は良し。どちらが思春期の中学生に対して健康的で文学的であるか。ちなみに日本神話は千年前の人も知っているが、従軍慰安婦は40年前には存在もしなかった言葉である。
 日本の子ども達に「神様ってどんなの?」と絵を描かせると、どんな絵を描くだろう?髭モジャで白の聖衣を着て、頭上には金の輪っか付いてそうだ。ゼウス・アポロン・ミカエルは知ってても、イサナギ・イザナミは知らないというのが現状ではないだろうか。「日本人なのに…何故?」と思ってしまう一例である。

※文脈から「つくる会」を肯定しているようにみえるが、そうではない。私は中学1年の歴史の時間に、「先生の雑談」としてこの岩屋戸の物語を聞いた。「ストリップ」の語句も聴いた。この話を教えるのに教科書などいらない。必要なのは教える側が、教える機会と知識、そしてこれを切っ掛けに神話に興味をもってもらいたいという意志であるをもつことである。
2003年02月25日
  第参拾弐回 我が国防論(上) 言霊呪縛
 「国防論」を扱うに、結論をいきなり述べてしまうと「頭がおかしいのか?」と思われてしまうので、順をおって説明するため3段にした。初の試みである。

 明日は待ちに待った修学旅行。唯一の心配は天気のみ。学校の先生、児童皆が「晴れ」を望んでいる。そんな雰囲気の中、私がボソリ「明日は雨だな…」。周りの人にも聞こえてしまった。翌朝、見事に雨が降った。すると周りからこう言われる。「お前が昨日あんなことを言ったから雨が降っちゃったんだ!!」と。
 雨が降ったのは誰のせいか。それは「雨を降らした雲」のせいである。科学的に考えて「明日は雨が降る」と言った私のせいではない。この、「発言」と「結果」に何らかの因果関係を求めてしまうことが「言霊」なのだ。こんなことを考えてしまうのは日本人だけである。「雨」の例は日常でもよく見られ、その典型とも言える。結婚式で「切れる」などの言葉はタブーになっていることもそうである。
 このように「発言」することによって何らかの「結果」をもたらされると日本人は考えてしまうため、「悪い結果」を起こさないようにするため「言葉」を選んでしまうのだ。しかしこの逆のパターンもある。「悪い結果」ではなく「良い結果」を望む場合だ。その時は良い結果を生む言葉、そうなってほしいと願う「言葉」を発言すればいいわけである。「祝詞」などがその例である。だがもっと良い例が存在する。私たちがよく知っており、すべての人々が望む「あの言葉」である。(次回へ) 
2003年02月26日
  第参拾参回 我が国防論(中) 歴史を振り返る
 専門が社会科なので、ここでまた歴史の話。今回は「刀伊の入寇」である。1019年女真人なる者どもが北九州を襲い、十六日間侵略された。その後大宰権帥である藤原隆家がこれを撃退したという内容だ。原典は「小右記」であり、上記は高校日本史の必修内容でもある。教科書に載ってるのはここまでのことで、「小右記」には続きがあるのだ。それは外敵を撃退した功労者、藤原隆家がどうなったかということである。
 恩賞が出たわけではない。「余計なことをしてくれたな!!」という具合に叱責されたのだ。何故これが「余計なこと」なのか。「お前(隆家)がそんなことをしなくても、うちら(中央)でしっかり対処した」ということだから「余計」なのだ。しかし「第八回 検非違使」で述べた通り、当時の中央には軍隊は無い、警察も無いに等しい状態である。では中央の対処はどんなものだったか。それは「平和を願った」ことである。実現してほしいことを「歌」にして、それを発言することが当時の「政治」だったのである。この時代に数多くの「和歌集」が登場していることも、それに結びつく。つまり彼らは「平和」と口にして「平和」を望めば、国は平和になると考えていたのである。(次回へ)
2003年02月27日
  第参拾四回 我が国防論(下) What should we do?
 「刀伊の入寇」では、中央の人間は「平和」を口にしてれば平和になると信じており、実際そんなことが有事の際に何の役にも立たないということは、例え言霊に拘束されている日本人でも分かることだろう。ではこれを「歴史人の愚行」として現代人は笑えるだろうか。
 とある「左っ派」の党首の言葉「戦争の話をすれば戦争になる。平和を願えば平和になる」。私も戦争は嫌だし、この言葉は正に理想である。だが理想すぎる。もし日本にミサイルが飛んできた際、「どっか他へ飛んでけ!!」と願えば本当にそうなるのか?平安貴族と同じく「平和」と口にすれば本当に「平和」になるのか?これは「麻原の言葉(マントラ)を口にすれば悟りが開ける」と信じるオウム信者と同レベルに思える。言霊は日本にしかない。日本国内のみに通じるものなのだ。私には今の日本の国防衛スタンスが、平安時代のそれに思えてならない。
 「お前は、武器を持たせて、戦争を煽る気か?」と思われそうであるが、そうではない。上記の理想に従うなら、それは理想の平和国家になるであろう。しかし「ここほど攻めやすい国はない」とも認識されるのである。武力ゼロなのだからだ。10年前にこのような発言をすれば反論を食らうだろうが、今、ご承知のように「鞘から刀を抜こうとしてる狂国」が隣にいるのである。我々もそれに対抗する「刀」を持つべきか?そうは言わない。少なくとも「振り下ろされる刀を受け止められる盾」ぐらいは持つべきなのでは、と言いたいのだ。社会専攻っぽく言うと、「豊臣秀吉ではなく藤原隆家になれ」ということだ。
 もし隣の狂国が日本を攻めてきたらどうなるか?理想に従うなら、非武装なので簡単に侵略されてしまう。10年後、我々は…あの口調で、言葉を喋ってるかもしれない。

※少し過激で、しかも「刀伊の入寇」の記載については曖昧な内容ではあるが、まあ何を言いたいのかは分かってくれたことかと…「これはおかしいだろ?」とお思いの方、是非一筆を(簡潔に)。
2003年02月28日
  第参拾伍回 トリプルクラウン」
 またプロレスの話で申し訳ないが、先日またも全日本プロレスの「三冠ベルト」が他団体に流出するという出来事が起きた。「またも」と書いたのは、1度目は新日本にいた武藤敬司が奪取したもので、今回クレート・ムタを破った橋本真也が奪取したのが2度目になる。かつての三冠戦とは、三沢や小橋の40分以上の激闘など、時にはあの馬場をも泣かせたほどの試合があったという、まさに名勝負の数え歌である。今の全日本プロレスに、あの当時の三冠戦が出来るレスラーはいない。「力道山・猪木・馬場」の流れを受け継ぐ三冠というプロレス界の至宝。その光がだんだん弱くなっていく様を見るのは「純プロファン」の私にはたいへん複雑な思いである。
2003年03月03日
  第参拾六回 クロスオーバー」
 2つの異なるものが1つの場所でぶつかり合う。最近では格闘技においてその流れがある。また「そっち」の話か、と思われるかもしれないがそうではない。今年1月10日にノアのリングで「三沢・蝶野VS小橋・田上」という越境タッグマッチが実現した。今後こういうドリームマッチが増えもらいたい。ゲームではどうか?数年前日本のメーカー「カプコン」とアメリカのコミック会社「マーブル社」が手を組んで、「マーブルVSカプコン」なるゲームを出した。「波動拳」でお馴染みのリュウと、最近映画化されたスパイダーマンが同じ画面内で動くのである。これもドリームマッチだ。ではこのようなクロスオーバーの最古の例は何であろうか?正確には分からないが、恐らくモーリス・ルブランが書いた「ルパン対ホームズ」ではないだろうか。ルブランはルパン3世の祖父にあたる「アルセーヌ・ルパン」の生みの親である。アルセーヌも孫に負けないくらいのフランスの大泥棒だ。その相手に、イギリスの名探偵「シャーロック・ホームズ」をあてたのである。まさに夢の対決である。が、シャーロック・ホームズといえば今や聖書に継ぐベストセラーとされている。作者コナン・ドイルが「ホームズを使ってもいいよ」と言ったかは定かではない。
2003年03月04日
  第参拾七回 オンラインRPG」
 先日、「オンラインRPG内の家の売買においてトラブルが発生し、詐欺の疑いで逮捕」なる記事が新聞に掲載されていた。オンラインRPG内の家と言われて、ピンと来る人は通な人である。オンラインRPGのタイトルは数種類ある。元祖的なものに「ディアブロ」があり、最近では「FF11」「信長の野望オンライン」などがある。ネット内のフィールドに自分の分身を作り出し、その中で様々な職業になれたり、いろいろな人と交流できるものである。今回問題になったゲームは「ウルティマ・オンライン」というもの。これは更に進んで仮想フィールド内で結婚もでき、土地も買え、家も建てられるのだ。しかもこのゲームが大ブレイクした最大の理由は、フィールド内におけるデータを実際に売買できることである。つまりフィールド内で建てた家を「1軒=10000円」、フィールド内での通貨を「1ドル(正式名は知らない)=1円」みたいな感じで個人取引ができるのだ。私の知り合いもこれをやっており、「いい小遣い稼ぎ」だと言っていた。ちなみにこのゲームのメーカーは、このような実際の取引を認めてはおらず、「黙認している」スタンスをとっている。この情報を補えば、上記の問題もすんなり頭に入ってくるだろう。非常にディープな世界である。だが自分の別な人生を体験できるという点では、非常に興味があり、やってみたいと思うものである。
2003年03月05日
  「第参拾八回 ゲーセン裏話 其の弐
 第2段として採り上げる今回、その題材は「ゲーセンの淘汰」である。1年前の今頃が最も深刻な時期であった。ゲーセンにはゲーム筐体が設置していないと商売にならない。それも注目度のある最新作がないと客は来ないのだ。まあそんなことはゲーセンに限ったことではないが、ゲーセンの場合、その筐体の単価が半端ではない。ゲーム好きでなくても「バーチャ・ファイター」の名前ぐらいは知っているであろう。ちょうど1年前にその4段目の最新作が登場した。この筐体は他の筐体と変わっており、カード挿入口が付いている。これは「VF4 専用カード」を挿入するもので、そのカードに対戦成績・戦利品・技の使用度などが記憶されるものである。つまり「VF2からVF3へ」筐体の中身を替える時は、ソフトの入れ替えのみで済んだためコストもそれほど掛からなかったのだが、VF4はカード挿入口が必要なため、筐体ごと購入しないといけなかったのである。およそ1台200万円。しかしVFシリーズはいわゆる「金の成る樹」なのである。対戦ゲーム、しかも1回が短時間なので、約4分に1回の割合で100円のインカムがあるのだ。だからこのゲームが置いてあるか否かは、死活問題につながるのである。
 もう1つ、死活問題につながるビックゲームを挙げると「ダービーズ・オーナークラブ(だったような?)」というのがある。競馬のゲームだがメダルのゲームではない。1ゲーム1000円。高いようだが、これで40分は座っていられる。これもVF4と一緒で専用カードが必要。そのカードには「自分の持ち馬1頭分」のデータが入っており、自分は馬主兼調教師になり、他のプレーヤーと競馬で競い合うのである。爆発的な人気が出て、2時間待ちなる状況が現れるほどだ。だが問題はそのお値段。なんと新築の家が土地付きで買えるぐらいのものなのだ。昨年にはワールドカップにあやかり、カードゲーム第2段として上記のような感じのサッカーゲームが登場した。資金力の無いゲーセンには別次元の話のように聞こえてくる。これらの言ってみれば「ハイリスク・ハイリターン」のゲームを購入できないゲーセンは次々に潰れていく。私が住んでいる所の隣町に、いつ潰れてもおかしくないゲーセンがあるのだが、そこがいまだに生き残っているのは、上記の競馬ゲームが置いてあるかではないかと思われる。
2003年03月06日
  「第参拾九回 河原者」
 私が修士論文で何を書いたかは、このページにも掲載してあることもありご存じかと思うが、では卒業論文は何を書いたかというと、我が部員たちも知らず、あまり知られていない。「中世非人論」である。私が口頭で言うと「中世避妊論か?」とよく言われるがそうではない。当時人から忌避される職業に就いていたため、その影響で忌む存在に扱われた人々のことである。一言で「非人」と言ってもその形態は様々で、「散所・河原者・遊女」などがある。ここでは「河原者(かわらもの)」について採り上げてみようと思う。河原者はその名の通り「河原」に住んでいる人のことである。中世当時の河原の認識は、「誰のものでもない場所」というものだ。誰かの土地でもない、役所が管理している土地でもない場所なのだ。世間から忌避される人々がそのような場所に集まりだしたのは、ごく自然な流れと考えられるだろう。ではそのような人々が「河原」に於いて寂しい生活を過ごしていたかというとそうではない。「花の慶次」が手元にある人は第四巻を見てもらいたい。河原の「揚屋」で力強く、且つ誇りをもって生きている女たちの姿が描かれている。河原者に限らず「中世の非人」とは、差別を受けている寂しい人たちではなく、専門的職業集団なのである。ただ、していることが揚屋・皮剥ぎ・処刑など、その職業性に問題があるだけなのである。河原が処刑場であるという例は、織豊時代の「四条河原」が有名であろう。
 現代の世の中でも、河原者のように「束縛されない土地」へ流れている人たちがいる。ホームレスだ。彼らの流れる先は「公園・橋の下・高速道路の下」など、「公」の場所であることが多い。「私」の場所より束縛が弱いからだろう。しかし彼らに「河原者」と同じような誇りがあるかというと、決してそうではないだろう。
2003年03月07日
  「第四拾回 プロの選手」
 職員室での会話。「夢について書かせたら、いろいろな答えが返ってきた」。6年生に将来の夢について書かせたらしい。「プロ野球選手」「サッカー選手」と小学生らしい答えだ。その中に「ゲーム王」なる答えが聞こえた。プロのゲーマーになるということか。日本だと「プロのゲーマーになる」などと口にすると、「何を寝ぼけたことを…」と言われるだろう。しかしお隣の韓国では「プロゲーマー」なる職業がちゃんとした社会的地位を得ているのである。昨年とあるゲーム雑誌に載っていたのだが、「免許」まで存在しているそうだ。
 ゲーム業界全般をみると、波に乗っているのは日本より韓国だ。大阪の大会社「SNK」も韓国の「イオリス社」に身売りしてしまったし、先に挙げたオンラインRPGに関しても、その人口は日本よりはるかに多い。韓国で展開しているオンラインRPGが日本に入ってくるぐらいである。
 「ゲームをプレーして稼ぐ」という変わった職種。日本に入ってくるのは、そう遠くないことなのかもしれない。が、夢に「ゲーム王」と書いた子には、あくまで「夢」のみにとどまってほしいものである。


トップへ
戻る