第1章 -Act.1-


 『ボヘミアの醜聞』

(冒頭部。ホームズの下宿先に久々に訪れたワトソン。そのワトソンを見てホームズが推理するシーン)

「結婚生活は君に向いているらしいね。この前会った時に比べて7ポンド半は太ったろう。」
「7ポンドだよ!」
と私は答えた。
「そうか。もう少し考えてから言うんだったな。ほんのちょっとね。それからまた医者を始めたんだね。そんなつもりだとは聞いてなかったが。」
「じゃあ、どうして分かったんだい?」
「推理したのさ。それだけじゃなくて、君が最近の雨でずぶ濡れになったことや、君の家にすごく不器用でうっかり者のメイドが居ることだって分かっているよ。どうだい?」
「おやおや、ホームズ。君にあっちゃ、かなわないな。君は何百年も前に生まれていたら、魔法使いだといわれて、きっと火あぶりにされていたろうね。
 たしかに私は、この間の木曜日に田舎道を歩いていて、雨でずぶ濡れになって帰ってきたよ。でも、服は着替えてるんだから、どうしてそんなことが推理できるのか見当もつかないな。
 メイドのメアリ=ジェーンは、どうしようもない奴でね。家内もたまりかねて、クビにすると本人に言い渡してある。けれどこれもどうして分かったのか不思議だよ。」
「なに、簡単なことさ。まず君の左足の靴の内側を見てごらん。ちょうど暖炉の火に照らされている所だ。そこの革に平行したすり傷が六本見えるね。それは靴底の縁にこびり付いた泥を落とそうとして、だれか、うっかり者が付けた傷だね。はっきり分かるよ。
 さて、ここから二つの推理ができる。一つは君がひどく天気の悪い日に外へ出たこと。もう一つは靴に傷を付けるような、出来の悪いロンドンのメイドの見本みたいなのが、君の家に居るということだ。それから、君がまた医者を始めたことも簡単さ。ヨードホルムの臭いをぷんぷんさせ、右手の人差し指に硝酸銀の黒い染みを付けている。おまけに、ここに聴診器を入れてます、と言わんばかりに、シルクハットの片端を膨らませてるね。こんな紳士が部屋に入ってきたんだよ。開業医と見抜けなかったら、僕の頭はよっぽど鈍いということになるじゃないか。」



  『踊る人形』

(冒頭部。下宿でのホームズとワトソン。ワトソンが株に投資したか否か、ホームズが推理するシーン)

「すると、ワトソン。君は南アフリカの株に投資するつもりはないんだね?」
  私はビックリした。ホームズの不思議な能力には慣れっこになっていた私だが、こう出し抜けに心の奥まで見通されては、全く何とも言いようがない。
「一体どうしてそんなことが分かるんだい?」と私は尋ねた。
「さあワトソン、完全に面食らったことを認めたまえ」とホームズは言った。
「ああ、その通りだ。」
「じゃあ、そのことを紙に書いて署名してもらわなけりゃならん。」
「どうしてだい?」
「五分も経つと、君は、何だ、そんな馬鹿馬鹿しい簡単なことか、と言うに決まっているからさ。」
「決して、そんなことは言わないよ。」
「それなら言うがね、ワトソン。一つ一つの推理が、すぐ前のものから引き出され、それ自体は簡単なものなら、そこから一繋がり推理を組み立てるのはそう難しいことではない。そうしておいて、中間の推理をそっくり抜き取り、出発点と結論だけを聞き手の前に持ち出せば、これはごまかしかもしれないが、相手を驚かす効果は大変なものだろう。だから今、君の左の人差し指と親指の間のくぼみを見て、君には自分のわずかな資金を金鉱に投資するつもりはないのだと判断することも、それほど難しくはなかったのさ。」
「そこのところが繋がりが、どうもよく分からない。」
「多分ね。だが密接な繋がりがあることはすぐに証明してみせる。このごく単純な鎖の抜けている輪は、次のようなものなんだ。一、君は夕べクラブから帰ってきた時、左手の人差し指と親指の間にチョークの跡を付けていた。二、そのチョークは、君が玉突きをした時、キューの滑りを留めるために塗ったのが付いたのだ。三、君はサーストン以外の人間とは玉突きをしない。四、君は四週間前に、サーストンがある南アフリカの資産にあと一ヶ月で期限の切れる買い付け選択権を持っていて、君に一口のせたがっているという話をした。五、君の小切手帳は僕の引き出しに入っているのに、君はまだ、その鍵を貸せとは言わない。六、従って君は、そういうものに金を投資するつもりはない。」
「なんだ、馬鹿馬鹿しい、そんな簡単なことか。」と、私は大声で言った。
「そうだとも、言ったね。」



  『青い紅玉』

(ホームズの下宿に遺留品の帽子が届けられた。帽子を観察することで、持ち主の像を浮き彫りにしていくシーン。)

 そのおんぼろ帽子を手にとって、私はいささかうんざりしながら、ひっくり返してみた。しごく平凡な黒い帽子で、形は普通の丸型である。固いフェルト製ですごぶん古くなっている。裏地の布は絹で、赤かったのだが、今ではひどく色あせていまっている。メーカーの名前は付いていない。けれどもホームズ言ったように、裏地の片側に<H・B>と、イニシャルがくねくねした字で書き込んである。つばに穴を空けて帽子が飛ばないようにする留め具が付けてあるが、留め具のゴムが取れてしまっている。そのうえひび割れし、ひどい汚れようで、四、五ヶ所に染みが付いているが、色あせてまだらになった所にインクを塗って、それを隠そうとした形跡がある。
「見ただけでは分からないなあ。」
「いや、ワトソン、そうじゃない。君は何もかも見ているんだよ。君は見ていても、自分が見たものから推理するのが苦手なんだ。大胆に推理しようとしないから駄目なんだよ。」
「それならこの帽子から、君がどんな風に推理できるのか、聞かせてもらえるかな?」
「帽子がこんなになる前ならともかく、今じゃあ、多分たいしたことは分からないだろうがね。この帽子の持ち主がとても知識の豊富な男なのは一目瞭然だ。それから少なくとも、過去三年間はかなり羽振りもよかったが、このところ落ち目になって、あまりいい暮らしはしていない。
  この男は慎重だった。しかしだんだんいい加減になってきて、今ではだらしないと言えるぐらいにまでなってきている。つまり落ちぶれてきて、何か悪いことでも覚えたようだな。多分酒を飲むようになったのだろう。それともう一つ、はっきりしている事実として、奥さんが夫への愛情を無くしてしまっていることが挙げられる。」
「まさか、そんな。」
「といっても、この男には、まだある程度の自尊心が残っている。現在の生活は、椅子に腰掛けていることが多くて、外へ出るのは稀だから体がすっかりなまっている。中年で髪は白髪まじり、それもここ二、三日の間に散髪をしたばかりで、髪にはライムクリームを付けている。それからついでに言っておくと、この男の家には、ガスは引いていないだろうね。」
「冗談だろう、ホームズ。」
「いや、冗談なものか。まさか、君、僕が推理で分かったことをこれだけ教えても、分からないわけじゃないだろう?」
「頭が悪いのは自分でも分かっているよ。だけど正直言って君の推理には着いていけないんだ。例えば、知識が豊富な男だっていうのは、どうして分かったんだい?」
 返事をするかわりに、ホームズは、その帽子を自分の頭にポンとのせた。額までスッポリ入ってしまい、帽子は眉間の辺りに止まっている。
「容積の問題さ。これほど大きな頭の男なら、中身も相当なものに違いない。」
「今は落ち目だっていうのは、どうなんだ?」
「この帽子は、三年前のものだ。平らなつばが縁の方へいって丸くなっている型が流行したのは、そのころだった。これは最高級の帽子だよ。三年前にはこんな高価な帽子が買えたが、それからは買えなくなったとあれば、この男が落ちぶれたことは確かだね。」
「まあ。そりゃ、確かにはっきりしているなあ。でも慎重だったとか、だらしなくなったとかは?」
 ホームズは笑って、帽子の留め具の小さな円盤と丸い輪に、指をのせた。
「ここに、慎重だったことが表れている。こうした帽子の留め具は、帽子に付けて売っているわけではない。もしもこの男が、留め具を別に注文したとしたら、そうとうに慎重だったわけだ。しかしその留め具のゴムが取れてしまっても、この男は面倒くさく取り替えなかった。つまり明らかにいい加減な男になってきている。これこそ無気力になりかけている確かな証拠さ。それとは別にフェルトに染みが付いたらインクを塗ってなんとか隠そうとしている。だからこの男も、自尊心を全く無くしてしまったわけではなさそうだ。」
「ホームズ、君が推理していくと、いかにもその通りらしく聞こえるなあ。」
「この他の点だがね、そら、この男が中年で、髪は白髪まじり、そしてライムクリームを塗っていて、しかも散髪したばかりというのは、どれも裏地の下の方を詳しく調べた結果なのだ。
  このほこり、これをよく見たまえ。道路で降りかかってくる砂ぼこりはねずみ色だが、これはそうじゃない。家の中のほこりで、茶色くてふわふわしている。だからこの帽子は、ほとんど家の中に掛けてあるわけだ。帽子の内側は濡れた跡が染みになっている。その染みを見れば、かぶっている人が、きっと非常に汗っかきなのだと分かる。」
「それもそうだが、ホームズ、奥さんのことね。夫への愛情を無くしてしまっているって言ったろ?」
「この帽子には数週間もブラシをかけていない。ワトソン、君に会った時、帽子にもし一週間分のほこりがたまっていたとしてみたまえ。君がそんな帽子で外出しても奥さんが平気だったら、僕も心配になるよ。可愛そうに、ワトソンも奥さんの愛情を失ったか、とね。」
「君にかかると、どんな問題でも答えが出てしまう。だがねホームズ、自分の家にガスを引いていないとは、どうやって推理したんだい?」
「獣脂の染みが付いていた。それが一つ二つなら、偶然に付いたものとも思えるが、ゆうに五つは付いている。そうなるとこの男は、きっと燃えている獣脂に近づく機会が多いとみえる。多分、夜にこの男は片手に帽子を持って、もう一方に炎のゆらゆらしているロウソクを持って、二階へ上がっていくとかね。ともかくガスの炎で獣脂の染みが付くわけがない。これで納得したかい?」
「いやはや、うまいもんだ。」



  『ギリシャ語通訳』

(ディオゲネスクラブでホームズとマイクロフトが人間観察の知恵比べをしている。マイクロフトはホームズの兄である。ワトソンがその様子を眺めているシーン。)

 二人は弓形の張り出し窓に、並んで腰を下ろした。
「人間を研究したいものにとって、このクラブは絶好の場所だよ。」マイクロフトは言った。
「いろいろのタイプの立派な見本がいる。例えばこっちに歩いてくる二人を見たまえ。」
「玉突きのゲームとりと、もう一人の男かい?」
「そうそう。もう一人の方は、何だと思う?」
その二人の男は、窓の正面に立ち止まった。一人が玉突きに関係があると思われる証拠は、私が見る限り、チョッキのポケットの上に付いたチョークの跡だけである。もう一人はとても小柄な、色の黒い男で、帽子をあみだにかぶり、いくつかの包みを小脇に抱えていた。
「軍人あがりだな。」とシャーロックが言った。
「除隊したばかりだな。」とマイクロフトが言った。
「インドに勤務していたんだろう。」
「下士官さ。」
「砲兵かな。」シャーロックは言った。
「そして、やもめ暮らしだ。」
「でも、子どもが一人いる。」
「一人じゃないよ、君、一人じゃない。」
「やれやれ。」私は笑いながら言った。「これは、少し分からなくなった。」
「いやいや。」ホームズは答えた。「あの身のこなしといい、いかつい顔つきといい、日焼けした皮膚といい、間違いなく軍人だ。それも、ただの兵卒ではない。またインドから帰ってきて間もないということが、一目で分かるよ。」
「除隊したばかりということは、靴で明白だ。まだ官給品の靴を履いているからな。」マイクロフトは言った。
「あの歩き方から見て、まず騎兵じゃない。でも帽子を横かぶりにしていたらしく、顔の片側の色が白い。あの体重では工兵じゃない。砲兵だよ。」
「それから無論、正式の喪服を着ているから、最近誰か近親者に死なれたのだろう。自分で買い物をしているから奥さんを亡くしたんだな。ほら、子どもたちの物を買っているだろう。ガラガラがあるから、一人はまだ赤ん坊だ。奥さんはお産の床で死んだのかな。それに絵本を抱えているから、もう一人子どもがいると考えられる。」



  『ノーウッドの建築業者』

(冤罪で逮捕されそうになるマクファーレンを救おうとする話。オールデカーが書いた遺言状の原稿を考察するシーン)

 ホームズは遺言状のもとの原稿という四、五枚のノートを取り上げ、熱心に見ていた。やがてそれを押しやると言った。
「レストレード君。この文章には二、三、面白い点がある。そう思わないかい?」
  レストレード警部はちょっと戸惑いながら、そのノートの切れ端を眺めていた。
「最初の二、三行は読めます。それに二ページ目の中程と、最後の一、二行も。この辺はまるで印刷したようにはっきり書いてありますが、他は読めない。特にこの三ヶ所は、まるっきり読めませんね。」
  ホームズは言った。
「それはどういうことを意味すると思う?」
「さあ、あなたはどう思うのです?」
「列車の中で書いたのさ。字のきれいに書いてある所は、列車が駅で停まっている時。読みにくいのは動いている時。ひどく読みにくいのはポイントを通過した時に書いていることが読みとれるからさ。科学的にものを見ることになれている人なら、たちどころ郊外線の列車で書いたものを決め付けるはずだ。大都市に近い所でなければ、こうもたくさんポイントがありっこないからね。
 列車に乗っている間ずっと書き続けたものとしてみよう。すると列車は急行ということになる。ノーウッドとロンドンブリッジ間の急行列車は、一回しか途中停車しないだろう。発車するまでと、途中の駅と、終着駅の所が印刷されたみたいにきれい書かれている文に当たる。」
  レストレードは、笑い出してしまった。
「あなたが推理を言い始めると、必要もないことたくさん並べたて、私を困らせる。それがこの事件とどう関係があるのです?」
「つまりね、この遺言状の原稿は、オールデカーが昨日列車の中で書いてものだという点までは、あの青年の話によって証明されたのだよ。そんな重要な書類が列車の中で書き上げられたなんて、おかしいと思わないかい?ということは、オールデカーはその遺言状を大事なものと考えていなかったことを意味している。初めからそうするつもりでない遺言状なら、列車の中で書くこともあろうというものさ。」





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