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『まだらの紐』
(下宿に怯えている依頼人が来た。些細な点からホームズは、この女性がどのようにしてここへやって来たか推理する。)
ホームズは、ちらっとその女性を見て、上から下まで視線を走らせた。それだけでホームズには、いろいろなことが分かってしまうのである。
「怖がることなど、ありません。」
そして体を屈め、女性の手首の辺りを軽く叩いて、ホームズはいたわるように言った。
「すぐに心配ごとを解決してあげますよ。今朝、汽車でおいでになったのですね。」
「私のこと、ご存じですの?」
「いいえ。でも、往復切符の半券が見えるもので。そら、手袋をされた、その左手に持っていらっしゃる。きっと、朝早く、出かけられたのですね。しかも駅までは、かなり時間が掛かった。二輪馬車で、泥道を走らせてこられたのでしょう。」
その女性は、ぎょっとして、ホームズを見つめたまま、戸惑っている。ホームズは微笑んで話を続けた。
「ちっとも不思議じゃありませんよ。あなたの上着の左腕に、七ヶ所ぐらい、泥のはねが付いている。それも、古いものじゃない。乗り物に乗って、そういう風に泥のはねが付いたとしたら、二輪馬車で、しかも、御者の左側に座っていた時だけでしょう。」
「理由はともかく、ホームズさんのお話は、どれも本当ですわ。家を出ましたのが六時前で、六時二十分過ぎにはレザーヘッドに着き、始発の汽車でウォータルーへ参ったのです。」 |
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『唇のねじれた男』
(夫が失踪したという依頼を受けたホームズ。「もう生きてはいない」とホームズは推理したが、本人からの手紙が届いた。その手紙を基に、どのような状況下で書かれたものか推理するシーン。)
夫人は尋ねた。
「とすると、いつ死んだのでしょう?」
「月曜日です。」ホームズは答えた。
「そうしますと、ホームズ様、今日こんな手紙が夫から届きましたが、どういうわけでしょうか?」
ホームズは、電気にでも打たれたかのように、椅子から飛び上がった。
「な、なんですって?」
「ええ、今日参りました。」
夫人は、小さな紙切れを高くさし上げ、微笑みながら立っていた。
「見せて頂けますか。」
ホームズは、その手紙を夫人から、引ったくるようにすると、テーブルの上でシワを伸ばし、ランプを引き寄せて熱心に調べた。私も椅子から立ち上がり、ホームズの肩越しに覗き込んだ。封筒はひどく粗末なもので、グレーブスエンド局の消印があって、日付はその日のもの、いや真夜中をだいぶ過ぎているから、前日と言っていいだろう。
ホームズは小声で言った。
「ひどい字だな。これは、ご主人がお書きになったものではないでしょう、奥さん。」
「ええ、でも中身は主人が書いたものです。」
「封筒の宛名は、誰が書いたか知りませんが、書きかけて、住所を尋ねに行かなければなりませんでしたね。」
「そんなことが、どうして分かります?」
「ほら、名前は、完全に黒インクの文字ですが、これは自然に乾いたもの。その他は灰色になっていますが、これは吸い取り紙を使ったことを示しています。もし、全部続けて書いてから吸い取り紙を当てたものなら、真っ黒い字は一つも残らないでしょう。これを書いた男は、名前を書いてから、ちょっとペンを置き、それから住所を書いたのです。住所を知らなかったとしか考えられません。勿論これは細かいことですが、おや!この手紙に何か同封されていましたね。」
「ええ、主人の指輪が入っておりました。」
「そして、この手紙は、ご主人の筆跡に違いありませんか?」
「夫の筆跡です。」
「八つ折り判の本の見返しの白いページに、鉛筆で書いたものですね。すかしは、入っていない。今日、グレーブスエンドで、親指の汚れた男が出したものです。ふむ、封筒の折り返しをなめて、貼り付けたのは、僕の考え違いでなければ、かみタバコをかんでいた男だ。奥さん、これがご主人の筆跡であることは、間違いないですね。」
「間違いありません。」
「それが、グレーブスエンドで投函された。奥さん、どうやら見通しが明るくなってきました。」 |
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『ボスコム谷の謎』
(冒頭部。現場に向かう途中でのホームズとワトソンの会話より。)
「明白な事実ほど、偽りに満ちたものはないよ。それに僕たちは、レストレードには分からなかった明白な新事実にぶつかるチャンスがあるかもしれないんだ。君は僕のことをよく知っているから、僕がほらをふくとは思うまい。
手近な例を挙げれば、君の寝室は右側に窓があることが、僕にははっきり分かるんだが、レストレードにはこんな明白な事実さえ気付けるかどうか、疑わしいよ。」
「どうして、そんなことが…」
「君、僕は、君をよく知っている。君の特性になりきった、軍隊仕込みの身だしなみの良さを、よく知っている。
君は毎日髭を剃る。それもこの季節には、日光で剃るのだが、顔の左側へ行くにしたがって、剃り方がぞんざいになり、顎の辺りなんか、全くいいかげんだ。それは、つまり、顔の左側が右側に比べて、光線不足だということを、はっきり物語っている。君のように、きちんとした習慣をもつ男が、左右同じ明るさの所で髭を剃ったら、そんな剃り跡で満足できるはずがない。
僕は、観察と推理のほんの一例として、このことを挙げたにすぎないよ。でも、そこに僕の職業的な熟練があり、僕たちの前に横たわる捜査にも、役立つことがあるだろう。」 |
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