コラム(命編)
ドナーカード(臓器提供意思表示カード)
私はドナーカード(臓器提供意思表示カード)で、全ての臓器を提供する選択をしています。
とはいえ、
『私が死んでも私の体の一部が誰かの中で生き続ける・・・』
というような感傷的な理由で持っているのではありません。
死後の世界を信じていなく、死んだら魂が残る、とすら思っていない私としては、ただ死ぬのはもったいないな、といったところです。
とはいえ、私が50歳になったら、臓器提供の意思を撤回するかもしれません。
なんか自分が50年も使った臓器を提供するのは失礼な気がして・・・。
いや、酒はほとんど飲まないし、タバコは全く吸わないので、健康な臓器である事に自信はあるんですよ。でも、やはり提供を受ける側を考えると、50年も使った中古品じゃね・・・。
・・・と思っていたのですが、どうやら、実際には、50歳以上は臓器提供の対象外のようです。ま、ごもっとも。
ところで、私はドナーカードをサイフの中に入れて持ち歩いています。サイフを開けるたびにドナーカードの黄色が目立ちます。
どこで瀕死の状態になるかわからないのに、家になんかしまっていたら、せっかくイキのいい臓器が提供される機会を失ってしまうから。
私がサイフを開くたびにドナーカードが見られる、という事に対しては、周りに対する自慢でも、自己顕示でもなく、
『あの人はドナーカードを持っている』
と印象づけ、提供の機会を失わないことと、実際に、誰も知人がいないところで(臓器提供をする条件に当てはまるほどの)瀕死になった時にでも、携行品をちょっと調べるだけでドナーカードを持っていることが分かり、臓器提供の機会を失わないようにするためなのです。
誰に言われたわけでもないのですが、こういう気遣いこそが本当の意思表示なのではないでしょうか。
せっかく臓器提供の意思表示をしても、それが公開されずに家や会社の引出しの中では意味がなくなると思います。
遺品整理をしていて、その人のドナーカードが出てきたら、もう手遅れ。
臓器提供の意思表示をしているからこそ、臓器抵抗の機会を失って欲しくないのです。
話はちょっとだけずれます。
脳死状態で全臓器を提供する意思を持っている私ですが、生きているうちの肝臓や腎臓の一部を提供するのは嫌だなぁ。
もし自分に子供がいて、その子供に提供する、となれば、また話は別なのかもしれませんが、今の状況では考えられません。
人の役に立ちたいと言う気持ちは、『他人に喜んで欲しいから』という気持ち以上に、『助けてあげた』という自分の喜びの気持ちの方が強いように思えます。そういう意味では人助けは基本的に自己満足。自分の快楽(?)のために、人を助ける・・・。
そういう喜びの気持ちがあるからこそ、社会は発展してきたし、人間関係も良好に保たれているのだと思います。
・・・という話をしたら、私の兄が、
『喜びの気持ちが社会を発展させたのではなく、社会や経済が発展したからその余裕が臓器提供のような感覚に喜びを与えているんだ』と反論してきました。
ふむふむ・・・、確かにそういう面はありますね。
心に余裕の無い人は人助けなんてしないでしょうし(他人の事よりも、まず自分の事で精一杯)。
でも、社会が発展するには、多くの人が、他人のために有形無形の犠牲を払っているのではないか、と思います。
自己犠牲の精神が、社会を発展させ、社会が発展したからこそ、他人のために役に立つ事に喜びをおぼえる・・・。
結局は『鶏が先か、卵が先か』という話になってしまうのでしょうか。
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