コラム(その他)
ここのコラムは、資料なしで、経験と伝聞と憶測(?)によって作成されていますので、注意してくださいね。
なお、ここに書いてあるのは独断と偏見に基づかれて書いてあります。
反論は基本的に認めません。
なぜならそれが偏見というものだから。
抑え目に書いてはいるけれど、読む人にとっては、非常に気分を害すると思うので、「自分は寛大だ」と思う人だけ読んでください。
そうじゃない人は精神衛生上の健康を保つため、すぐ下をクリックして戻りましょう。
やっぱり、読むのをやめる
天才とは
天才というものは、身近にいるものではない。
ましてや、自分のクラスや職場にちょっと頭のいい人・運動が出来る人・仕事ができる人がいたとしても、その人が必ずしも「天才」とは限らない・・・というよりも、高い確率で「天才ではない」だろう。
但し、そういう一目置かれる人は「才能」はあると思いますよ。
天才というのは、「生まれもってある分野において優れた才能を持ち、さほど努力をしなくても、他人が追い付けないレベルまで到達することができる才能(を持つ人)」だと思っている。
一方、一般社会で「天才」と呼ばれている人達は「他人(ひと)よりも努力をして自分の才能を磨きあげた人」がほとんどだと思われるのだ。そういう点から言って、そういう人達は「天才」ではない。そのような努力をしてきた人達の半分以下の努力で倍以上の成果をあげられるのが、私のいう「天才」である。
他の人達に努力されたくらいで追いつかれるようでは「天才」ではないのである。
「努力にまさる天才なし」ということわざがあるが、私に言わせれば「天才に勝る努力なし」である。
結論としては
「天才は身近にいない。身近に天才と言われる人がいたとしても、それは(才能はあっても)凡人の域を出ない。自分が努力すれば必ずその人に追いつけるのだ。あの人は天才だからかなわない、というのは逃げ口上である。」
ということになる。
偉そうに言っている自分も「あの人にはかなわない」とはよく使う言葉なんですけれどね。
平等
「平等に」という言葉は使いどころが限られてくる、と思っている。
個人的・集団的レベルでは「当然平等でなくてはならない」ことは沢山ある。
しかし、個人的・集団的レベルではなく大きく社会を見つめた時に、本当に心の底から「人類は皆平等でなけらばならない」と思っている人はいるのだろうか。
まあ、正直なところ結構いると思う。しかし、私はそうは思わない。
なぜならば、自分は「他人(ひと)に差をつけるために仕事や勉強の努力をしているから」だ。
だから、何も努力をしていない人に「平等!平等!」と叫ばれても興醒めする。
大した努力もしないで人並みになろうとは、ムシがよすぎる、と。
そもそも、科学が発達したり生活が向上したのは、人間の「他人よりも〜〜したい」という欲求の産物だと思う。
このページを見ることができた人は一定水準以上の生活をしているはず。そして、その生活をするために、自分または両親がそれ相応の努力をしているはず。それなのに、それが「平等」という(表面上正義の)言葉で否定されてしまう気がするのです。
よく、宗教などで、「死後の世界はみんなが平等で・・・」とある。私自身は無宗教なので、死んでも死後の世界があるとは思えないが、もしその世界の住人になるのならば、「全員が平等」という世界は「あり」なのかもしれない。というのも、その世界はいわゆる「理想郷」で全てが揃っていて「もう誰が何をしても、何も発展しない、何も変わらない」という世界で、努力する意味のない世界だから。
しかし、実生活ではそういうことはありえないし、世界(社会)にも人間個人自身にも足りないものが沢山ある。
だから、人は他人と「違くなるために」平等から離れなければならない。
結論としては、
人は競いあってお互いに向上していくものだ。
それを「平等」という言葉で妨げてはならない。
だから、完全なる平等は求めない。
もちろん、最初に書いたように平等でなくてはならないものは沢山あって、それは平等にすべきですがね。
オタクとマニア
アニメやマンガの話をしている時(実際はあまりそういう機会がないのだが・・・)に、「声優の名前」や「登場人物(特に脇役)の名前」を知っていると、「オタク」とか「マニア」などと言われる事がある。
私の場合は、そんな事を言われようがあまり気にしないのだが、だからといって言われて気持ちのいい言葉なわけではない。
そもそも本当の「オタク」や「マニア」の方々は基本的に努力家であると思っている。並大抵の努力では、あのレベルにまでは到達できないであろうからである。
ある意味において完璧主義者とも言えるそんな方々に対して、(マンガやアニメが好きなだけの)私が「オタク」や「マニア」などと呼ばれるのは非常に申し訳なくさえ思える。
ところで、私はプロ野球にほとんど興味がない(ルールはまともにプレイできるくらいは分かる)。かの有名な巨人の選手さえ知らない(名前くらいは聞いたことがあるだろうが、ポジションなどは知らない)し、どのチームが、パ・リーグなのかも知らない(12球団は全て言える)。
好きなチームは西武だが、その理由が、ユニフォームの色が(自分の好きな)青だから、という理由であるところにも無関心ぶりが表れている。確かもう1チーム青いユニフォームのチームがあった気がするが、自分のイメージと違う青なので興味ない。
なぜ、ここでプロ野球の話が出てきたか、と言えば、野球に詳しい人はかなり野球にのめりこんでいても「野球オタク」とか「野球マニア」と呼ばれにくく、さらに「ファン」という(オタク・マニアよりも)非常にライトなイメージを持つ言葉でくくられる事に疑問をいだいているからである。
例えば、私が「声優の名前」や「登場人物の名前」を知っている、というのは野球を好きな人が、自分の好きなチームの選手(さらには他のチームの選手さえも)のポジションや打順を知っているようなものである。
仮に野球の話題をしている人に「よくそこまで覚えているね」と言ったとしたら(実際は言ったことがないし、これからも言わないだろうが・・・)、おそらく「好きだからね」という答か「基本だよ」というような答が返ってくるだろう。
そう、基本なのである。
それぞれが、それぞれの好きなものをより楽しむための「基礎知識」なのだ。
では、なぜ野球に詳しい人は「野球マニア」と呼ばれにくく、、マンガやアニメに詳しい人は「マニア」と呼ばれやすいのだろうか。
今即興で原稿を書いていても4つの理由が考えられる。
第一に、(汗を流す)スポーツは健全なもので、(家で1人で・・・という)「マンガ」や「アニメ」は不健全なものという固定観念があるからであろう。
第二に、1つ目と重なるが、集団行動であるスポーツと、個人で楽しむマンガ・アニメという差だろうか。
しかし、スポーツ観戦は個人で楽しむもので、その事自体、マンガ・アニメ・TVゲームと変わらない、と思うのだが・・・。
第三に、野球またはスポーツという文化に対して、マンガの文化がそれほど市民権を得ていない、ということであろうか。
しかし、マンガ・アニメという文化は充分に市民権を得ているとは個人的に思っている。
最後に、作品の数があまりにも多すぎて、それぞれの知名度がバラバラであるにも関わらず、それらについて広範囲を把握している事に対して「深い」=「オタク」という図式が成り立っている。
といったような考え方である。
個人的には1つ目と4つ目が有力だと思うのだが・・・。
こうして原稿を書いている私でさえ、公式の書類の「自分の趣味」の欄に「マンガやアニメを見ること」と書けない事が、マンガ・アニメに対する社会の風当たりの強さ・偏見を感じている結果だといえるだろう。
う〜ん・・。まとめられなくなってきた。
結局私の「オタク」と「マニア」の定義は
両者はほぼ同義。但し、「マニア」の方が深い。
普通一般の大人が興味を持たない分野に対して異常な執着心を持って、有形無形の情報を集め、その情報に基づいて自己の欲求を満たす
者
といったところだろうか。
という事で「普通一般の大人」の基準をどこにおくか、がオタクかそうでないかの判断基準だと思う。
自分を判断基準とするならば、野球が好きな人は私にとって全員が野球オタクである。しかし、一歩だけでも下がって見れば、多数決から言って私は「マンガ・アニメオタク」であって、野球の好きな人は普通の人だろう。
そして、ほぼ間違いなく後者が世間の考え方である。
しかし、最初にも書いたように、「オタク・マニア」は努力家である。差別用語、とまではいかないまでも変人のような意味で使うのはやめていただきたい。
趣味はそれぞれが違って当たり前。
自分の趣味と違うから、マイナーな趣味だから、といってその趣味やその人自体を否定してはならない。
これが結論(にしておく)。
ちなみに最初に書こうとしたテーマからずれてしまった。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
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