透明な何かが俺の横を優しくすり抜けていった。
残り香に似た物に誘われ振り返る。
それは全く何気ないものだった。
俺にはそこに何もないことは分かっていた。
さっきのあれは透明なだけでなく、
俺の目には映り得ないものだったのだ。
きっとそれは、一枚の桜の花びらをともなった暖かい春の薫風。
そっと風が撫でた俺の頬には、目を閉じなければ分からないような
微かな匂いが残されていた。
その頬に手を添え、目元を緩ませる。
そうすれば、何だか風が見えそうな気がした。
風の通り抜けた先に広がる街はいつもよりいくぶん穏やかに見える。
これも春という季節の特徴であり、俺の好きな部分でもあった。
手を顔から下げて脚の横でそっと空気を掴む。
優しく気体の感触が広がりそして散った。
そして、また前を向いた。
そこに広がるはいつか見た景色。
昔歩いた道、以前立ち寄った商店。
完全に変わり果ててしまったが余す所なく覚えている。
俺の道に沿って、左側に広がる神社の石垣も。
その横に天にも昇る階段も。
その周りを取り囲む林も。
これらのもの一つ一つを見る度に
それぞれ違った思い出がありありと思い出される。
全てが懐かしさと嬉しさを兼ね備え、俺を包んでいく。
干したばかりのシーツのような優しい暖かさ。
ふとすれば眠ってしまうほど微睡んでいた。
目を細めてまた前を向いた。
そして、脚をゆっくりと動かしていく。
清々しい空気に満たされた街はどこか穏やかで、優しい。
背伸びをして空気の粒を身体に取り入れて歩みを進める。
天に伸ばした手から光になって消えてしまいそうだ。
あまりの心地よさに思わず目を閉じる。
そして、神社の角を左折しようとした。
その時だった。
目をあまり開けていなかったせいだろうか?
かなり遭遇しにくい事態に言葉通りぶつかってしまった。
ドン!
軽い衝撃が俺の身体に響き渡っていく。
それは俺の意識を現実に引き戻すには申し分ないものだった。
その負荷に気づくのが少しばかり遅かったせいか、
俺の身体は後ろに多少よろけた。
何が起こったのか分からず、状況判断に数秒を要した。
頭を自分の前に向けたのはその少し後のことだった。
「何が...?」
前を見るが障害になりそうなものはない。
それどころか道が広がっているばかりだ。
「いたた...。」
そんな声に気づいた。
俺は、はっとして下を向く。
...そこには女の子がいた。
縫い目を外に出したスカートに白の開襟ブラウスという私服を着た女の子。
同い年くらいの髪の長い娘。
既に地面に髪がかなりついてしまっている。
地面に座り込んでお尻の辺りを手でさすっていた。
慌ててそのすぐ側に座り込む。
「ごめん。大丈夫?よそ見してて..。」
その娘は慌てた様子で顔を上げた。
こんな近くで見るとかなり可愛い。
「あ、はい。大丈夫です。...あれ?バッグが...。」
「バッグ?」
どうやらどこかにいってしまったらしい。
俺は頭を回して辺りを探した。
といっても、少しぶつかっただけ。
そんなに遠くにいくはずはなかった。
予想通りバッグは彼女のすぐ後ろの所に落ちていた。
それに手を伸ばし、拾い上げる。
女性が好んで使うかなり軽いものだ。
俺はそれをキョロキョロしている彼女に手渡そうとした。
でも、顔の横側に差し出されているバッグに気づかない。
俺はもう一度、今度は顔の前にぶら下げてみた。
「はい。」
「あ、ありがとうございます。」
彼女の細い指が俺の手から離れるバッグのストラップを握る。
手が一瞬触れて俺は何だかどぎまぎしてしまった。
そして、彼女が立てるように脚を直しながら上目づかいにはにかんだ。
穏やかな二重が綺麗に緩み、小さなえくぼが出る。
(...あれ?何処かで...。)
その顔に見覚えがあった気がした。
俺の心の一番奥に少しだけ残っているようなそんな小さなもの。
失いたくないと思いながら少しずつ薄れていった想い。
川の水のように色づいているか分からないような薄いブルー。
そんな感じがして俺は彼女を見ていた。
どうしてもその記憶が姿を現さない。
ただ、心に直接触れるような優しい微笑み...。
(昔...?....まさか!)
彼女はバッグを持って立ち上がる。
俺もそれに合わせて立ち上がった。
彼女はお尻の辺りの砂を払っている。
そして、俺より視線の低い彼女がこっちを見上げてニコッと笑った。
「本当にすみませんでした。それじゃあ...。」
彼女の髪が優雅に躍る。
この陽射しの綺麗な舞台の主人公のように。
彼女は俺の横をそのまま通り過ぎた。
そこには微動だにできない俺がいた。
通り過ぎる彼女が残したのは優しく広がり包んでくれるコロンの香り。
先の風のような気分が胸に満ちていく。
少しずつ心に満ちていく希望と期待。
彼女が彼女であることへの切望。
俺は振り向いてその娘を見た。
カーテンのようになびく髪が光を反射して輝いている。
髪の表す光の筋がゆっくりと上下している。
俺はその後ろ姿に向けて声をかけた。
確信のない想いで、俺は口から言葉を出した。
それは、遠く懐かしい記憶。
数年前の過去の思い出。
セピア色のように感じながらも
カラーで思い出せる、写真よりも綺麗な景色、彼女。
その中にいつもいた俺のお姫様のような存在の名前だった。
「カナタ...?」
彼女の方がピクッと本当に小さく上下する。
そして、次の脚で歩みを止めた。
くるっと彼女は振り向いた。
驚きを顔と身体で表現しながらも、先とは違った表情を見せている。
先よりも幾分昔に近づいたような顔つき。
「コガミ...カナタ?」
もう一度。
そして、その言葉に彼女はゆっくりと頷いた。
できる限りゆっくりと。
時間の流れが遅くなったのではないかと疑いたくなるほどに。
そして、状況は一転した。
もっと明るく優しい顔。
硬さは微塵もなく、緩んだ目で俺を見ている。
「ソウ...君?」
彼女の柔らかそうな唇から漏れた可愛い声。
俺も先の彼女のようにゆっくりと頷いた。
彼女の顔が今以上にほころぶ。
俺もその表情に心から嬉しくなった。
そして、香菜多が走り寄ってくる。
俺も前に進んだ。
俺たちはとうとう出逢った。
この春の陽射しのもとで。
数万年前から決まっていたであろう出逢いを果たしたのだ。
予め決められた運命に抗うことなく。
幾千の時を超えてこの場所から始まるのだ。
「また」ではなく「とうとう」。
「会った」ではなく「出逢った」。
別れからの脱出を経て俺たちの人生が大きく交錯したのだ。
春の桜が優しく舞い散り、二人の間の境界線を消していく。
俺と香菜多の距離はほとんどない。
手を伸ばせば香菜多の身体に触れることが出来る。
そんな距離で見詰め合っていた。
言葉などいらない。
コミュニケーションさえも逸脱した世界に俺たちはいた。
何もない静寂の中でずっとお互いの目に映る
様々なる感情を感じ合っていた。
一枚の桜の花びらの舞う穏やかな光の中で...。

  ◇ ◇ ◇  黄金の湖で...  ◇ ◇ ◇

 <B> forever parting
       and destined reunion

俺、霧島蒼真(キリシマ ソウシン)は今日から高校生になった。
小学2年のときに引っ越すことになりこの街を出た。
そして、9年の年を経て帰ってきたのだ。
ここにある県立天川高校に通うために一人暮らしを始めた。
今は学校への道を歩いている。
家から歩いて2分のバス停からバスで7分。
そこから歩いて10分の道のりだ。
俺が今住んでいるマンションは良い所ではない。
でも、リーズナブルさを一番に考えると、ここだったのだ。
たいして広いわけではない。
バス・トイレつきの1ルーム。
そして、敷金・礼金なしの月々5万円で共益費込み。
これならば何とかなる。
親は今も引っ越し先だが俺だけ無理を言って戻ってきたのだ。
まぁ、今考えれば最初に無理を言い出したのは親なのだから
俺が無理を言ってもさほど文句は言わなかった。
月8万の仕送りでやっていかなければならない。
(まぁ、家賃を抜いて3万もあれば何とかなる...かな?)
そんなことを考えながらに道を歩いていた。
陽射しがアスファルトを照らしてかなり眩しい。
今日も快晴と言えるいい天気だった。
空を仰ぐ俺の視界に誰かが入り込んだ。
俺は彼女に出会った。
数日前に出逢った彼女...。
彼女−湖上香菜多の家は学校から歩いても近い駅前から少しの所にあった。
長くなびく髪を優雅に揺らしながら歩いている。
桜の中を歩く彼女の後ろ姿は何処か平安時代の人を思わせる。
現代には失われてしまった優雅の心。
そんなものを連想させる雰囲気があった。
香菜多は引っ越しをしてきた俺にとって唯一の知人でもあり、
とても大切な人だった。
「香菜多!」
彼女の名を呼んでから俺は小走りで追いかけた。
俺の声に応えてその見をひるがえす香菜多。
「あ、おはよ。ソウ君。」
「おはよ。間に合うか?」
「うん。大丈夫だよ。」
俺は時計を見た。
時計の針が示すのは8:10。
入学式は8:30からだから...。
(これなら余裕だな。)
香菜多に時間を聞いた意味が特になくなってしまった。
何となく香菜多に悪い気がする。
俺は時計を腕にしまって前を向いた。
この高校の制服はブレザーだった。
中学は詰め襟だったのでこれは助かった。
あんな暑いし着にくいものはもう御免だ。
それに、こっちの方が新鮮でいい感じしないか?
(って、俺は一体誰に同意を求めてるんだ?)
紺色のズボンに薄いブルーのシャツ。
そして、その上から紺色の上着を着て、
濃い赤色のネクタイをしなければならなかった。
(こいつか毎朝面倒なんだよ...。)
でも、デザインは本当にシンプルで校章の刺繍以外は特に見当たらない。
香菜多はやはり紺色のスカートに紺色の上着。
中にはきっと薄いブルーのシャツを着ているのだろう。
それは今は見ることが出来ない。
そして、上着の前部分に赤いリボンをしていた。
俺は香菜多を見ていて思った。
(昔は背の高さなんてほとんど一緒だったのに...。)
俺は気づけば香菜多を少し見下ろしている。
並んで歩かずともその差は歴然だった。
「?..どうかしたの?」
香菜多が俺を少し見上げる。
顔は昔から可愛かったけど今はもっと可愛い。
いや、可愛いというよりも綺麗だった。
その澄んだ瞳に見詰められて俺は少しだけ舌が回らなかった。
「あ、いや、背の高さがさ..。」
彼女はそれを聞いて「くすっ」と笑う。
「当たり前だよ。ソウ君9年もいなかったんだから。
 ...昔は全然かわらなかったのにね。」
香菜多の声には懐かしみがこもっていた。
俺の今の心境を汲み取ったかのように...。
「この街は...全然変わらない。」
俺は前を向いてそう呟いた。
この街全体にそう告げたかったのかもしれない。
そして、香菜多が先以上に穏やかな声で言った。
「うん。これからさ、楽しくなるといいね。」
「ああ。」
その言葉の言い終わりと同時に香菜多は前を向いた。
俺も、もう一度視線を前向ける。
学校がだんだんと近づき、今は少しだけその校舎が見えている。
いつの間にか人通りも増えてきていた。
俺たちと同じ紺色の制服に身を包んだ人々。
同じ中学で固まっているのか、数人で騒いでいる人もいる。
一人で歩く人もいる。
(楽しくなると..いいな。)
俺は簡単な希望を胸に抱いた。
教師が左右に立って色々見ていたが、今はあまり気にならない。
そして、新鮮さを感じながら赤いレンガの校門をくぐり抜ける。
微笑みながらこっちを見てくれている香菜多と、
春全盛を告げるピンクの桜の花びらとともに。

入学式の無駄に長い式辞がやっと終わった。
校長だかPTA会長だか何だか知らないが、
全員が同じ事を、手を替え品を替え話しているだけ。
「えー、君たちはこの天川高校で切磋琢磨して勉学にスポーツに
 精を出し悔いのないように健全に頑張っていただきたく存じ...。」
とか何とか言う。
今のは俺が即興で考えた。
ほら、俺でも言えるのだからそんなに有り難いはずがない。
きっと、それ用のマニュアルかなんかがあるのだ。
きっとそうだ。
解散を告げられ、俺たちはホームルームへと移動した。
体育館前に張り出された新クラスへと。
運よく香菜多と同じクラスだった。
これはかなり嬉しい。
先の見えない高校生活に差す光みたいだ。
そして、もう一人知り合いがいた。
香菜多と同じく幼なじみの広田大樹(ヒロタ ダイキ)という男が..。
「蒼、久しぶりだな。何年ぶりだ?」
「お、大樹。9年ぶりだよ。」
香菜多と話をしていた所に大樹が現れた。
こいつは今見れば反則なほどかっこいい。
少し長くしている髪が目に掛かりかけていた。
それがまたこいつの顔を引き立てている。
「何とか同じクラスだな。仲良くやろうぜ。」
俺は大樹に言った。
大樹も少し嬉しそうに頷く。
「それなりにな。」
「ねぇ、二人はクラブ、入らないの?」
香菜多が横槍を入れた。
それにつられて二人は同時に香菜多を見る。
「俺はテニス部。」「俺はテニス部。」
二人が同時に答えて、言葉は完全に重なっていた。
口裏を合わせてもこんなに上手くは重ならない。
「大樹もかよ。」
「蒼と一緒かよ。..まぁ、いいか。」
二人で顔を見合って、その後少し笑った。
9年も離れていたなんて信じられない。
昨日まで一緒にいた友達でもこうも息の合った奴はいないだろう。
やはり、人間関係に年月は関係ないのだ。
長くいても好きにならない奴もいれば、
一日で仲良くなる奴だって山ほどいる。
それはやはり、相性とか個性とかいったものなのだろう。
「二人とも頑張ってね。」
香菜多の優しい声。
嫌でもやる気が沸いてくる。
(別に嫌なわけではないけど。...ん?)
「そう言えば、香菜多は何も入らないのか?」
俺は気づいて香菜多の方を向いて尋ねた。
それと同時に香菜多がちょっと俯く。
そして、すぐにこっちを見て微笑んだ。
「うん、ちょっとね。やるよりも見てる方が好きだから。」
「そうか..。」
俺は何だか気の抜けた声で答えた。
大樹は何も言わない。
まぁ、香菜多がそうしたいのならば俺は強要はしない。
...9年前とは違う。
似ているように感じても確実に無くなったものと
新しく出来たものがある。
俺の知らない時間の流れの中で、だ。
俺と大樹の後ろからひょこひょこついてきていた香菜多とは
同一人物でありつつも、別人に他ならない。
もう、小さい娘ではないのだ。
何でも自分で出来るのだと。
キーンコーン...キーンコーン...
「げっ、チャイムだ。」
「蒼真、担任ってさ、どんなの?」
大樹が机に戻る生徒たちを横目に尋ねてきた。
「えーっと...。」
そんなことを言いながらいかにも考えているポーズをとる。
そして、頭を総動員させて入学式の担任紹介を思い出した。
「あ〜、確かフライパンみたいな顔の女教師。
 かなり年がいってるオバさんだったはず。」
「げ、最悪。若い新任女教師なら良かったのに..。
 うわっ、もう来やがった。」
大樹がそうぶつぶつ言いながら席へと戻っていく。
いつの間にか香菜多も席へと戻っていた。
フライパンが教卓に手をついて、良く分からない、
語尾に「ね」と言いたがる話し方で自己紹介らしきものを始めた。
それと同時に俺は外に視線を落とした。
風に乗って桜が幾千も舞う。
透明な風に色をつけて、その身を委ねて、永い旅をするのだろうか?
頬杖をついて窓ガラスを通して見る空はとても綺麗だった。
いや、綺麗と言う言葉さえもどこか適当でない気がする。
そもそもこの景色を人間の言葉に置き換えるのが間違いなのだ。
この景色から感じ取ったものをわざわざ言葉にする必要など何処にある?
俺はぼーっと空を見詰めた。
色々な考えが頭に浮かび、消えていく。
それは言葉になる暇さえなかった。
グラウンドと体育館が目に入る。
これからここで何が起こるかなど予想もつかない。
(きっと...いろんなことが起こるさ。)
新入生にありがちな期待と不安で胸がいっぱいというやつだ。
トントン
「ん?」
俺の机が叩かれる音。
見れば香菜多が俺の机の端を軽く指で叩いている。
「なんだ?」
何のことを差しているのか分からずに俺は彼女に尋ねた。
でも、彼女は何も言わない。
そして、困った顔をして香菜多が次に指し示したのは...。
(フライパン...。)
そちらには俺の方をまっすぐと見詰める女教師がいた。
とりあえず俺の担任。
そして、とりあえず何か言いたそうだ。
「えーと、霧島さん?最初ぐらい私の話を聞いてくださいね。」
「あ、はい。...すみません。」
俺は適当に頭を下げた。
フライパンもそののっぺりとした顔を元に戻して話を続けた。
この女の話し方はかなり癪に触る。
直接聞かせてあげられないのが残念だ。
(って、誰に?)
そんなことはどうでもいい。
とにかく、語尾の調子が下がっていって「ね」と強く来るのだ。
その度に何だか気分が悪い。
何回「ね」と言うか数えてやろうか?
そんなことをつらつら考えていたら横から小さな声が聞こえた。
その方向に頭を向ける。
そしたら、香菜多が手で口を押さえながらくすくす笑っている。
その顔は「初日からしょうがないなぁ」と目で言っているようだ。
俺は香菜多に軽く笑いかける。
そして、また視線を空に移した。
先よりも少しばかり強い風が吹き通った。
桜の花びらを全て奪い去ろうとしているかのように...。