そして、唐突に8日の日々が流れた。
気づけば辺りに満ちている空気に張り詰めた感じはなくなっていて、
夏を迎える準備とでも言うような解放感が漂っていた。
俺のテスト期間はやっと終わりを告げた。
授業も何だか適当さをかもし出している。
あと数日で待ちに待った夏休みが到来する。
勉強などとは少しの間おさらばして、
クラブ漬けの日々を送ろうと思っている。
というわけで、俺はまた部室にいた。
どうも気づけば部室にいる気がするのは俺だけだろうか?
授業が終わるといの一番にここに飛んでくる。
そして、ここで着替えてラケットを持ってコートへと行くのだが、
今日は何だかいつもよりやる気がいま一つ出ない。
と言うよりも、何に対してもだるさを感じている、と言った方が適当だろう。
これは何故か?
おそらく気温の影響が大きい。
なんたって暑い。
この一言を今日だけで何回クラスメイトに愚痴ったことか。
その友達も最後の方は「はいはい」って感じだった。
それでも愚痴り足りないほどに暑いのだ。
外は絵に描いたような炎天下。
いや、絵に描くならもう少しはましな炎天下を描くはずだ。
つまり、絵よりもさらに辛いということだ。
「で、テストはどうだったんだ?」
どうでもいいことを本気で考えていた俺。
その真剣さのあまりに自分にかけられた言葉に少々戸惑ってしまった。
その質問を発したのは正。
この狭い部室の中には俺、正、白井マネージャーがいた。
あとの奴はコートか私用か公用かさぼりか...。
「追試が1つ。俺にしたら万歳ものの上出来だ。
 ....正は?」
「俺は2つ。ちっ、勉強したのに、何で霧島より多いんだ?」
いささか悔しそうな正。
勉強したかいもあったのか、俺の追試は英語のみ。
数学は白井さんのおかげで追試の点数を3点クリア。
(彼女がいなかったらどうなってたことか...。
 追試なんてまっぴらだ。本当に助かった。)
俺はせっせとボールの数を数えている白井さんに礼を言おうと思った。
そういえばまだちゃんとお礼を言ったことがない。
「白井さん?」
「はい?」
後ろを向かず背中で言葉を発した彼女。
かなり一心不乱にボールを数えている。
数を数えているときに横から数字を滅茶苦茶に言われると
数えていた数が分からなくなる。
きっと、それを防止するために本気で数えているのだろう。
「テストが上手くいったのもほとんど白井さんのおかげだから、
 その...ありがとう。」
「え?私何にもしてないのに....。
 そういうのって、言われると嬉しいけど、何か照れるね。」
数え終わったのか、立ち上がって恥ずかしそうな笑みを浮かべる白井さん。
そのままの顔でショートカットに手櫛をかけていた。
「本当に追試が1つなんて中間のことを考えたら夢みたいだ。
 もう、何かお礼がしたいと思うくらいなんだ。」
「じゃあさ...どこかで二人っきりでデートしてくれない?」
「え?!」
ニコニコと問題発言すれすれの事をサラッと言ってのけるマネージャー。
(そんなことはそんな顔で言うことなのか?)
そんなことというのはデートの約束ということ。
ただの部員とマネージャーだぞ?
何処か、って何処だ?
そもそも彼女は何でそんなことを言ってきたんだ?
俺をからかっているのか?
それとも本気で本気なのだろうか?
その一様な顔からはどちらともとれる優しい笑みが零れている。
馬鹿みたいな自問自答を俺はさらに繰り返した。
そのせいで、俺は何も言わなかった。
「冗談ですよ、冗談。おーい、霧島さん?聞いてます〜?
 もしかして本気にしちゃいましたか?」
固まった俺の顔の前に手を振る彼女。
マンガのように本当にそれで気がついた。
「冗...談?」
声にならない声で尋ねる俺。
白井さんはやはりそのままの顔で笑ったまま。
「そうですってば。そんなことしたら湖上さんに恨まれちゃう。」
「な...香菜多はそんなんじゃないって。」
思わず立ち上がり必死に否定する俺。
でも、彼女は何も聞いてはいない。
「隠さなくてもいいですよ。じゃあ、私、先にコートに行きますね。」
「あ、おい!ちょっと!」
カゴを持つとすぐに白井さんは飛び出していく。
ドアが開きそして閉まっても俺はそのままだった。
手を少し伸ばしたかなりかっこ悪いポーズのまま。
(なんだそりゃ?香菜多に恨まれる....か。)
俺は何だか釈然としない感情を抱いたまま、後ろを見た。
視界がグルッと一回転して見覚えのある顔を捉える、と言うか、正を。
そいつは俺の予想通りのニヤニヤした顔でそこに座っていた。
口元が妙に緩んでいて、いかにも何か言いたそうだ。
「なんだよ?」
何も言わないために俺から切り出してしまった。
「別に〜。何か青春だなぁ、って思ってさ。」
ゴツッ!!
俺は手に持っていたラケットのエッジを
正の頭に一直線を描くように振り降ろした。
いい感じの音が響く。
あまり強くしたつもりはないがきっと、痛い。
「いって〜。冗談だってば。」
「これからは冗談にも気をつけるんだな。」
俺はその言葉を発して言葉を失った。
自分が何か変なことに気づいたのだ。
正を叩いたこと?
それは結構日常茶飯事のことであって取り立てて珍しいことではない。
ちょっとばかりきつい口調だったこと?
そんなの男子にならいつものことだ。
(俺は....腹を立てている?)
何かに対して怒りを感じている?
いや、怒り、立腹というのは適当ではない。
(そんなにはっきりとしたものではなくて、もっと抽象的な何か...。)
白井さんが言ったことを気にしているのか?
”湖上さんに恨まれちゃう”
”香菜多はそんなんじゃないって”
香菜多が”そんなの”でないのなら、俺は何故気が晴れない?
俺の本当の気持ちは何処に?
人に言ってたつもりが実は自分に言ってたのか?
俺はドアを荒々しく押し開けた。
太陽の方を向いて激しく深呼吸をした。
自分のモヤモヤしたものを取り去るために。
熱い空気は俺の体に浸入して肺の奥までも焼いていく。
少しだけ、ほんの少しだけだが整理もついた。
何も気にすることはない。
俺は首をコートの方に向けた。
誰がいるのかここからでは把握できない。
走り出した。
よく見れば白井さんはまだコートについてはいない。
俺はその背中に追いつこうとして、さらに足を速めた。

        ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

景色と光は目に映りきることなく走り去っていく。
視界は俺に見られることを拒むかのように猛スピードで流れていく。
四角い枠で切り取られた緑が左から右へと。
ずっと、一様に見えて同じ物などない空間が、
断続的に続き、途切れることを知らない。
外界と隔離された俺の空間にはヒンヤリとした空気が満ちている。
耳を澄まさずとも聞こえてくるのは、
女の子たちの話し声と大樹の寝息。
俺の横で幸せそうに眠り続けるこの男は
昨日の夜、自分の部屋の模様替えを深夜までやっていたらしい。
模様替えを夜にやる奴なんて初めて聞いた。
それに夜では埃を取るために掃除機をかけることもできないのでは?
そんな状態でどうやってそれをしたのか教えて欲しいところだ。
俺の前に並んで座る娘たちは、今から行く海の話で盛り上がっている。
一定の決まった感覚でやってくる電車の小刻みな揺れが
俺も眠りまでも誘っていた。
これから行く海は何てことのない普通の海だ。
空は青々とした快晴。
気持ちいいほどの空で、今日はいつもより30分早く目覚めた。
これほどのいい天気だときっと親子連れとかがかなり多いはずだ。
(混んでいるとちょっと気がひけるな...。
 平日を選びはしたけど...夏休みだし...。)
「大ちゃん、気持ち良さそうに寝てるね。」
香菜多が唐突に大樹を見てつぶやく。
北浦さんもどこか穏やかな顔をしていた。
まぁ、大樹の顔は、これほど緩んだ顔を”気持ち良さそう”と言わないで、
どんな顔が”気持ち良さそう”なのか聞きたくなるほどだ。
たびたび寝返りを打って俺にもたれてくるために
大樹を何度反対側へと押しやったことか。
その度に香菜多と北浦さんは笑っていた気がする。
このメンバーで出かけるのは5月の初め以来だった。
あのときの買い物は楽しかった。
(きっと、今日もあの日以上に楽しくなるさ。)
そう思いつつ俺は顔を外に向ける。
それと同時に外は暗くなった。
どうもトンネルに入ったらしい。
暗い空間に光るランプが幾つとなく光りそして、流れ消えていく。
やがて、暗い空間に差してきた光は闇を押しのけていく。
その漆黒から出た俺たちの眼前に広がるは、
紺碧の海原と水色の空。
二つの境界線は定かではなく遠く遥かで一つに交わる。
そのただ綺麗としか表現できない空間は
視線が届かない、霞が浮かぶほど果てしなく広がっていた。

「早く!私もう行くからね。」
「あ、香菜ちゃん。ちょっと待って。」
香菜多は光を浴びて嬉しそうに海へと走っていく。
その砂浜に残った足跡を辿るように、
北浦さんが少しばかり転びそうになりながら香菜多を追いかけた。
「俺たちはおいてけぼりかよ...。」
大樹が海の家で借りてきたシートを引きながら愚痴る。
「仕方ないって。」
俺はやはりこれも借りてきたパラソルを砂浜に立てようと頑張っていた。
人は思いのほか少なかった。
やはり、平日万歳だ。
俺はやはり正しかった。
「立てられるか?」
「そっち側を固定してくれ。」
俺と大樹は汗だくになりながらパラソルを立てた。
そして、敷いたばかりのシートに腰をおろす。
パラソルがそれなりの日光を取り去ってくれている。
「ふぅ...。」
二人は同時にため息にも似たものを吐いた。
そして、眺めるのは海と戯れている女の子たち。
香菜多の長い髪は首もとでバンダナがまかれていた。
黒い髪にその黄色いバンダナが良く似合っている。
二人が二人とも何も言わず、ずっと無言で見入っていたのかもしれない。
太陽が惜しみなく降り注がれる、風は惜しんでそよ風も吹かない。
波はこちらに寄せるときに一瞬だけ白く光り、そして砕けていく。
幾万回も繰り返されてきた営みでさえも、
俺にはただの背景にすぎないと思っていた。
白く輝く彼女を前にした状態では...。

「なぁ....。」
「あん?」
俺の横で寝転んでいた大樹が俺の言葉に応えて体を起こした。
俺がいかにも意味ありげな声をかけたためだ。
既に体は疲れきってしまった。
何時間か泳いで俺と大樹だけが体を休めるためにここに戻ってきた。
ここに来てすぐに苦労して立てたパラソルだ。
「何だよ?」
少し沈黙。
実は声にはしたものの、本当に聞いて良いものかどうか迷っていた。
それは、聞いても何も変わらないことが分かっていたからかもしれない。
俺はそれを心のどこかで、しかし確実に感じていた。
「香菜多ってさぁ....。」
「ああ。」
大樹は少しの表情も変えようとはしない。
それが逆に意識しているように見えて仕方なかった。
それがたとえ思い過ごしでも、
俺にそう見えたのだからどちらでもたいした差はないが...。
「本当に...目が悪いのか...?」
「......どういう意味だ?」
少しの間を取ってから大樹は質問で返してきた。
きっと、意味は分かっているはずなのに...。
その言葉が凄く重い。
俺なんかだったらすぐにでも潰してしまいそうなほど...。
かなりの重量を持った質問。
俺の言葉が何かしらの核心を突いたことは間違いない気がした。
「.......。」
「それは、どういう意味なんだ?」
「そのままさ。あんなに物に当たったりするのは目が悪いからなのか?」
大樹はこちらに向けていた顔を俯ける。
そして、何も言わない。
心の中で何かを模索しているようだ。
何を元にしてそれを考えているのかは知る由もないが...。
「違うんだろ?」
「....香菜多には聞いたのか?」
「え....?」
大樹は俺の質問に答えようとはしない。
”答えたくない”ではなくて、”答えられない”と言った様子だ。
まるで、何かを必死で避けようとしているかのように.,..。
そして、それを、その仕草をも隠そうとしている。
「どうして俺に聞くんだ?香菜多に聞いてみろよ。」
「聞いたさ...。」
「香菜多は何て言ったんだ?」
俺は答えを口にするのをためらっていた。
大樹のペースにはまってしまっている気がしていたから。
「何て言ったんだ?香菜多は。」
もう一度語調を強めて聞いてくる大樹。
「......”大丈夫、目が悪いだけだから...。”
 って、笑ってた...。」
「信じてないのか?」
俺は”やっぱり...”と心の中で毒づいた。
俺は前代未聞なほどの馬鹿だ。
こんな分かりきった所にはめられるなんて...。
予想通りの大樹の返答が返ってきたのだ。
それでは結局何も聞くことはできない。
何も...知ることはできない。
「...信じてるさ。信じたいんだ、でも...。」
「信じてないんだろ?」
「信じてる。」
「本当は信じてないんだろ。」
「信じてる!」
「信じてない!」
「俺は香菜多を信じる!」
俺たちは息を荒げてにらみあっていた。
視線はまっすぐ進み、お互いの瞳の中で激しく交差する。
周りの数人がこっちを見ているが、そんなことは気にしない。
大樹はこちらを見たまま、全く視線をはずそうとしない。
そして....大樹の目が緩んだ。
優しい瞳が現れてじっと俺を見ている。
「.....。」
「大丈夫だ。本当に何もない。香菜多が妙にトロイだけさ。」
大樹は俺から視線をはずしてそのまま海へと投げた。
その先では北浦さんの像が結ばれているはずだ。
その、彼女たちを見詰める大樹の横顔が少し大人びて見える。
「でも...。」
「ストップ。」
俺の手を大樹が急に手で制した。
「これ以上はなしだ。楽しみにきたんだぜ。
 香菜多の顔が曇ったら何の意味もないだろ?
 ほら、そんな顔してないで、笑え。」
そして、大樹は声を出さずに笑った。
いや、微笑んだと言うべきか。
何故か分からないが、大樹はかなり良い奴だと思った。
結局分かったような分からなかったようななのにすっきりとした気がする。
俺の心のつっかえを外した、というような感じ。
俺も大樹の視線に自分のそれを重ねた。
香菜多のブルーの水着姿がくっきりと映り出す。
白い肌は陽射しがいっそう白く映えらせている。
青い空、青い海、青い香菜多、まぶしいぐらいに輝いている。
香菜多の笑顔を曇らせるわけにはいかない。
「ソウくーん!大ちゃーん!何やってるの!?早く来て!」
「ほら、お呼びだ。」
大樹が俺の肩を二回ポンポンと叩いた。
そして、立ち上がって砂の上へと進む大樹。
「砂が熱いな。」
そう言って両足を上げたり下げたりしている。
大樹の顔は全体で屈託なく笑っていた。
俺も立ち上がって砂に足をつける。
焼きつくような暑さが逆に心地よさを誘う。
少しずつ体が燃えて、不要なもの全て焼いてくれそうだ。
(香菜多を信じてやればいいんだ。俺には、それしか出来ない。)
俺の中の漆黒の闇がちょっとずつ照らされていく。
香菜多はまだ膝までを水に浸けたまま、こちらに手招きをしていた。
俺は手を振って砂の上を走った。
砂浜にはつま先だけの足跡がずっと、ずっと続いている。

今、来たときと逆にルートを辿っている。
景色は逆に流れていき、海は少しずつ遠ざかっていく。
「気持ち良さそうに寝てるな...。」
「そうだな...。」
俺と大樹は気をできる限り払って呟いていた。
俺たちの前では二人の娘が完全に眠りこけている。
目を閉じて白い歯が少しだけ覗いている。
二人が寄り添うようにお互いにもたれて眠っていた。
耳を澄ましても聞こえないような、穏やかな寝息を立てながら..。
本当に幸せそうな寝顔。
見ているこっちまで何だか和やかな気分になってくる。
本当に可愛いの一言に尽きる。
「楽しかったよな...。」
「ああ..。」
夕日が窓から差し込み、彼女たちの顔を赤く染める。
そして、たまに寝返りを打って何か聞き取れない寝言を言う。
俺と大樹はその度に必死で笑いを堪えた。
「明日から、またクラブだな。」
大樹が呟く。
「いいじゃないか。もうすぐ試合だ。」
「試合か。新人戦だな。9月の....いつ?」
「中頃。ダブルスは誰と組むんだ?」
「俺は正か蒼が良いと思うけどな。」
「そう..か。また6人で決めようぜ。」
俺はその時に目を外へやった。
ちょうどトンネルを抜ける時。
光が突然に溢れて、何度か見たことのある景色が流れてきた。
後十数分もすれば天川駅に到着。
家に帰って、ゆっくりと骨休めをしようと思う。
今日はバイトもないし、明日はテニスは9時からだから、
少しくらいなら寝坊をしても大丈夫だ。
俺はまた目を戻した。
見慣れた電車が何も変わることなく走っている。
そして、俺が見たのは香菜多の寝顔。
夕日を一身に浴びて、赤く輝く白い肌は
「可愛い」よりも「綺麗」が適当だと、今感じた。
無意識のうちに見惚れる俺。
でも、大樹は何も言わない。
気づいていないのか、あえてのことなのか。
いつもならヤジってきそうな所なのに。
大樹は大樹で北浦さんを見ているようだ。
俺は窓枠に肘をついて、
夕日に眠り続ける香菜多を、俺の大切な人を見ていた。