鬱陶しい季節になった。
俺がかなり苦手としている時期だ。
それは...梅雨。
毎日毎日空は飽きることなく雨を滴らせる。
ジメジメとした日々がいつまでとなく続いていた。
登校もいつもの倍くらい大変だ。
学校に着いたら靴下が濡れ切っているなんてしょっちゅうだ。
そして、テニスもままならない。
雨が降っている日は筋トレか帰宅。
そのどちらかしか選択肢がなくなってしまう。
でも、自然は俺たちとは一風違った影響を受けているようだ。
この雨を恩恵として受け取り、日に日に蒼さを増していく。
春のイメージ、優しく美しい感じは何処へともなく消えうせ、
夏の形象、生き生きとした緑を全面に押し出した状態へと
刻々と変化を遂げている。
そういえば、たまの晴れの日も輪をかけて暑くなってきた。
太陽も今までよりもっと空高く登るようになった。
もうすぐ夏が来る。
人々が憧れ、一年間待ちわびた季節が到来する。
そんな感触が濃くなってきたある暑い日の事だった。

「あの〜....。」
そんな声とともに俺たちの部室のドアがひとりでに開いていく。
俺たちテニス部員6人が一斉にそちらを向いた。
突然のことに驚きを隠せない様子だ。
そして、全員の目に映り込んだもの。
それはドアの間から頭を覗かせる女の子だった。
「あ、ごめんなさい!」
女の子の顔が豹変したかと思ったら、いきなり大声で謝って、
その女の子はドアを勢いよく閉めてしまった。
それは多分俺たちの姿を見たから、だろう。
というのも、俺たちは着替えの途中だったのだ。
「なんだったんだ?」
新木が不満と不思議に勝てずに呟く。
それは俺たちの心の言葉と完全に一致していた。
「何か用ですか?」
大樹がドア越しに声をかけた。
その娘がまだドアのすぐ外にいることは、影で分かっていた。
ドアに小さくついている安っぽいスリガラスに映った影で。
とりあえず部室を間違えた、ということではないらしい。
「あ、はい。えーと....着替えの後でいいです。」
女の子の声。
どうやら俺たちに用があるようだ。
全員が急いで着替えを済ませる。
みんな何のことだか、少なからず気になっていた。
ラケットとボールの入ったかごを持って外へと出る。
やはり女の子がそこには立っていた。
目がぱっちりと大きくショートカットの少し背の小さい娘。
整った顔だちをしていてなかなかに可愛い。
「で、何の用?」
今度の言葉は正。
少しだけ怯えたような彼女。
当たり前だ。
自分より何pか大きい男子6人に一斉に見られれば怯えもする。
「あ...あの..。」
「?」
「テニス部のマネージャーをやりたいんですけど...。」
全員が一瞬固まった。
いや、一瞬ではなくて数秒だったか、数分だったかもしれない。
「ダメ」とか「いい」とかではなくて
予想外の展開に対する対応が遅れているのだ。
「ダメ...ですか?」
その娘は心持ち後ろに下がったような気がする。
全員が何も言わないこの異様な空間の中で、
最初の言葉を発したのは秋斗だった。
「...。ダメなわけないって。ほら、嬉しくて全員固まってるぜ。」
「本当ですか?」
「........。」
やはり何も言わない。
金縛りは解けてきたみたいだけど何を言っていいのやら..。
秋斗みたく女の子の扱いに慣れているわけではないのだ。
「....ほら....拍手しろよ...。」
秋斗が一番近くにいた俺の横腹を肘で押す。
俺たちははっとして手を叩いた。
そして、部室前で男子6人が女子1人を拍手をしているという
かなり変で怪しく異様な光景が出来あがっいていた。
そして、その事実に気づいた奴から手を止めていく。
一番遅かったのが正。
それに乗じて彼女がニッコリと笑って口を開いた。
「あの、白井陽子(シライ ヨウコ)です。
 どうぞ、よろしくお願いします。」
そう言って小さな頭を可愛くペコリと下げる。
そして、こちらを見渡した。
いきなりの出来事にあまりついていけない部員たち。
その雰囲気をあまり読めていなさそうな白井さん。
こんな風にしてマネージャーが
とうとうこのテニス部にも入ることになったのだ。

「あ、ソウ君。」
「あ、香菜多。」
随分珍しい所で彼女と出会った。
今までなかった場所だ。
俺が「いらっしゃいませ」と言った相手が香菜多だったのだ。
つまり俺は今バイト中ということになる。
「へぇ、ソウ君のバイトしてる店、ここだったんだ。」
「ああ、まぁね。ビデオ、借りに来たの?」
香菜多は軽く首を横に振る。
その仕草に合わせて髪が優しく優雅に揺れていた。
「ううん、ちょっと暇だったんだ。
 でも、何か借りていこうかな?じゃあね。」
「あ..うん。」
香菜多はすっと棚の方へと姿を消した。
今この店には俺と店長ともう一人のバイト、二人の客と香菜多がいる。
その中でカウンターで接客をするのが俺だったのだ。
なんとも運のない役回りだ。
接客よりも棚出しの方が楽に決まっている。
俺はいつもそんな不満を抱えていたが、
やっと見つけたちょうどいいバイトだ。
そんなことでこれを不意にしたくはない。
そうこうしているうちに香菜多が一本のビデオテープを持ってきた。
「これ、貸して。」
そう言って彼女が差し出したのは去年流行ったラブロマンスの洋画。
”空前絶後の大ヒット”とか言ってたわりには
そこまでは流行らなかったそこそこの作品だ。
俺としては、5段階評価で3.5ってところだな。
「一週間レンタルで200円です。」
いくら友達でも仕事中は敬語。
常識ぐらいはちゃんとわきまえているつもりだ。
「えーと..はい。」
彼女が財布から取り出した百円玉二枚を
その細い指で摘んで俺の前に差し出す。
俺はそれを手のひらで受けた。
金属の冷たい感覚。
二枚がぶつかってキン!という甲高い音を立てる。
「はい。ちょうどお預かりします。」
「ねぇ..いつまでバイト?」
香菜多がテープの入ったカバンを受け取りながら聞いてきた。
「ん?ああ、後10分くらいかな。」
俺は後ろにある時計を見て答えた。
7時50分過ぎを差している。
「うーんと...じゃあ、待ってる。」
「え...ありがと。」
俺がそう言うと彼女は嬉しそうに少し笑ってまた、
ビデオの棚の方へ戻っていった。
でも、後の10分間は何もなかった。
客も来なければ戻すビデオもなく、俺のバイトは終わった。
「先に上がります。お疲れさまでした。」
俺は店長とバイトの人に軽く礼をすると中へ。
いまのはほとんど形式的なものだ。
服を着替えてタイムカードに時間を記入する。
そして、裏口から外へと出た。
そこには既にこっちを向いた香菜多が立っていた。
「お疲れさま。」
「ありがと。さ、帰るか。」
「うん。きゃっ。」
香菜多の短すぎる悲鳴。
俺は振り向いて手を伸ばしたが間に合わなかった。
香菜多は足元のブロックにつまずいたらしい。
少しバランスを失ってから倒れて手をついた。
特に大きな傷はなさそうだが、それでもかなり心配になる。
「おい、大丈夫かよ?」
「うん...ごめん。」
体の隅々をパンパンはたきながら彼女はふらふらと立ち上がる。
そして「私ってドジね」とでも言いたげに苦笑した。
そして、俺も笑い返して歩き出した。
「一応女なんだから気をつけろよ。」
「一応ってなによ〜?私はれっきとした幼気な少女なんですからね。」
俺はその反論に何も答えなかった。
ただ、ただ少しはにかんだだけ。
それは気になることがあったから。
俺はいつの間にかぶっきらぼうな言い方をしていた。
そんな言い方がしたいわけじゃない。
そんなことをしたって香菜多が喜ばないのは分かってる。
香菜多の俺への印象が悪くなるということはないだろうが、
どうしてもそんな言い方しかできない自分を咎めたかった。
どうして、どうして?
どうして俺がそんな言い方をしたのか?
それはきっと何か心に引っかかるものがあったから。
何の感触も音も色も形も匂いもない、
ただただ俺の心に引っかかるだけのための何か。
それは俺が一番聞きたいことであり、一番聞けないこと。
(何か...隠してる事があるんじゃないか?
 香菜多は本当に大丈夫なのか?
 普通の女子高生がこんなにも頻繁にものにけつまずくのか?
 どこか病気なんじゃないか?
 ただトロイだけでこんなにも転ばないだろ?
 ドジなだけで....。)
そんな言葉の羅列がノドをしきりに通りたがっているのに
どうしても声にすることが出来ない。
こんなに近くにいる香菜多に告げることが限りなく難しい。
”聞いてはいけない”
何の根拠に基づくこともなく俺の心はそんな言葉を信じ込んでいた。
いや、もしかしたら盲信したかっただけかもしれない。
でも、ついに...思いは言葉へと変化を遂げてしまった。
「なぁ、香菜多さぁ...。」
「ごめんね、心配しないで。」
俺の言葉は夜の闇へと葬られた。
香菜多の突然の言葉にかき消された。
その早い言葉で。
何か必死にも見える香菜多は前を見て続け続けた。
まるで、俺の言葉が次に続くのを拒むように。
俺の次の言葉を聞きたくないかのように。
「私さ、凄く目が悪くて今もコンタクト入れてるの。
 だけど夜とか暗い所はちょっときつくて...。
 ごめんね。」
「ああ...ならいいんだ。」
それ以上言葉の続きはなかった。
俺にも香菜多にも。
何も言えない、何も言わない。
(香菜多がそう言ってるんだから....。)
と、勝手に自分を言い聞かせた。
言い聞かせようと試みて、ほとんどそれに成功しかかっていた。
成功とほぼ同じだ。
.........と、思っていた。

        ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

日々太陽が高く昇っていくのを実感する。
夏の到来を間接的に伝えている。
窓から差し込む光は少しばかり暑い。
期末テストを2週間ぐらい後に控えた午後の授業。
少しの身も入ってはいない。
銀色に光る窓枠にひじを突いてボーッと外を見ていた。
黒板に向かってチョークが激しく打ちつけられる音と、
教師の良く分からない京都と大阪の方言が混じったような
数学の説明が教室全員に催眠効果を施していた。
公式は覚えろ、この問題はやっておけ、ここまで宿題だ。
きっとそんな類の言葉だろう。
何も心も打ちやしない。
こいつらの言葉が心の琴線に触れたことなど一度もない。
はっきりと断言できる。
一度もない。
ただ、俺たちのためという建前で自分の立場を保守したいだけなのだ。
俺はそう考えていた。
全てが全てその通りだとは思っていない。
中にはとてもいい教師もいれば、もっと悪い奴もいる。
でも、平均値は俺の予想と少しの誤差だろう。
そんなくだらないことを考えて数学の授業をやり過ごしていた。
時間など何もしなくても過ぎ去っていく。
その証明を身をはって証明しているみたいだ。
クラスでは夏服になった生徒たちが適当に板書を写している。
その中には香菜多も大樹も秋斗もいた。
みんながみんな適当に聞いている。
それほど面白みのない授業展開をする教師なのだ。
一回でいいからこいつに自分の授業の風景を
ビデオに収めて見せてやりたい。
それで”素晴らしい授業だ”なんてほざいたら張り倒してやる。
(黒板は後で香菜多に写させてもらおう...。)
そう思って俺はより一層の気合を抜き、香菜多に目くばせした。
香菜多は色付きのペンをペンケースから取り出した所。
きっと香菜多のことだから可愛いノートとか書いているのだろう。
そんな風に思って微笑する俺。
(クラブのために元気を溜めておかなくては....。)
そんなわけの分からない理由で俺は授業を放棄した。
そして、腕を組んで机に頭を伏したのだ。
目を閉じると同時に俺を誘いに来たのは暗い闇。
遠く安らかな気分が俺を余す所なく包み込んでいく。
静寂はないが暗闇があれば十分だ。
その次の瞬間、俺の意識は体から逸脱する。
完全に現世界から離脱していった。

暗い闇にこだまする一つの声。
懐かしい気持ちを誘うその声は俺の意識をさらに和らげていく。
母親に優しく抱かれているみたいだ。
今はそんなことを望んだりはしないが、
昔は凄くそれが好きだったような気がする。
「ほら、起きて。」
先と同じ声が俺にまた話しかける。
意識が朦朧としているために意味が良く取れない。
「ん....。」
「もう授業、終わったよ。ほら、目を開けて。」
やっと分かってきた。
俺は今寝ているのだ。
そして、この声の持ち主、彼女が俺を起こそうとしているのだ。
(今起きろだと....。そんな殺生な...。)
「ああ.....もう少しだけ...。」
バコッ!!
「いてぇ....。」
「バカ蒼真、起きろ!」
頭を何かで思いっきり叩かれた。
しぶしぶ眠い頭にエネルギーを送り込む。
そして、出来るだけゆっくりと頭を上げた。
見た所、俺の周りには香菜多、大樹、秋斗がいた。
「やっと起きたな。」
そう秋斗が言う。
どうもこいつが握っている丸めた本で殴ったらしい。
「痛いっつーの。」
「寝るなっつーの。」
俺の言葉を難なく軽くかわす秋斗。
ちっ、こいつはかなり手強い。
俺が何か言い返す言葉を模索していると...
「起こしてやるだけありがたいと思え、この野郎。」
俺を指差しながらこう言ってきたのは大樹。
こいつはこいつでマイペースに言いたいことを言ってくれる。
それもほとんど無表情で。
そして秋斗が「じゃあ、俺たち行くから。」とカバンを持ち上げる。
大樹も何も言わずにカバンを背負い直した。
二人ともクラブに行く気満々だ。
俺をこの場に置き去りにして。
香菜多は全部お見通しなのか少しだけ笑っていた。
(くそっ、こいつらにコケにされてる...。)
そう気づいていながらも俺は言うことにした。
「待てって、すぐに用意するから。」
俺のその言葉に反応して大樹と秋斗がくくくと笑う。
やはりコケにされていたようだ。
「さっさとしろよ。」
と言って大樹と秋斗の二人は歩くのをやめてこっちを向いた。
どうやら待っていてくれるらしい。
ここでなんだかんだ言っても待っててくれるからこいつらはいい奴だ。
俺はカバンに教科書をかなり無理やりに詰め込む。
何とか全部の本を飲み込んだカバンは何か言いたげに見えた。
立ち上がって首を振る。
頭がボーッとしていまいちはっきりしない。
それを何とか我慢して香菜多にあいさつすると、
二人に合流してまだ生徒の残る教室を後にした。