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目の前には薄暗い空間が広がっている。 ログハウスの中は静まり返っていた。 春奈の穏やかな寝息だけが聞こえる。 こんなに視界が悪いのは小さい電球を付けているだけだからだ。 枕元の時計をつかむ。 8月8日、午前3時。 俺は何故またここにいるのだろう? 小声で疑問を呈したが答えは返ってこない。 答えられる者もこの空間の中には存在しない。 すべてはすでに10日も前に始まったのだから...。 本当は「今」なんて存在しないのだ。 そんな極論が頭に浮かぶ。 時はいつも止まることがある。 そんな可能性があるということだ。 時が止まるということは、この世界に生きるすべてのものが止まる。 だから、人々の記憶には残らない。 その瞬間を感じることができない。 ただそれだけなのだ。 だが、ごくたまにその時を感じることのできる人間がいる。 そして、時は止まるだけとは限らない。 そう...止まるだけとは...。 あれは、去年の春だった。 「はぁ...。」 電車を待つプラットホーム。 その雑踏の中に俺のため息は空しく消えていった。 周りの人々はいかにも春だ。 新しい制服を着た女子高生。 新品スーツの社会人。 俺はこの有彩色の軍団に乗り遅れてしまった。 それなりに勉強もした。 でも、結局大学からの招待状を一通ももらえなかった。 つまり、浪人だ。良く言えば予備校生。 そう、今年一年を棒に振らないため予備校に行くことにした。 今からその申し込みなのだ。 電車がホームに吸い込まれてくる。 春の陽射しのもとに。 思ったより人はすいていた。 適当な席に座り窓の外を見る。 (俺だけが完全に取り残されている。) そう思わずにはいられなかった。 でも少し前までは一日に何回ため息をついていたか分からない。 そんなことを考えれば少しは立ち直ってきたのかも。 人間は自分が思っていたよりよっぽど強かったのだ。 左肩越しに外を見て考え事をしていた。 ....フワッ そんな感覚とともに右肩に少しの重みを感じた。 その方向を見る。 ..女の子がもたれてきていたのだ。 もちろん知っている娘ではない。 眠っているようだ。 髪からのいい匂いで少し胸がつまる。 起こそうかどうか迷ったが、迷っている時間はなかった。 彼女はすぐ気がついて起きてしまったのだ。 あわててこっちを向く。 「すみませんでした。眠ってしまいまして。」 「あ、うん。いいよ、気にしないで。」 「本当にすみませんでした。」 そう言って彼女は前に向き直す。 少しだけ惜しい気がしていた。 彼女はと言えば、肩で切りそろえられた髪、形のいい耳、 白い肌、等よく見てみるとかなりかわいい。 それから間もなくだった。 俺の降りる一つ前の駅に止まったのは。 「本当にすみませんでした。じゃあ..。」 彼女は立ち上がって既に3回目の台詞を口にした。 そして、ペコリと小さく礼をして降りていく。 扉が閉まってもずっと、あの香りが忘れられなかった。 予備校の申し込みも完了。 ここでこの一年がんばらなければ。 二回も落ちるわけにはいかない。 そう気合を入れ直して帰ろうとしていたときだった。 「優人、おまえも来てたのか。」 振り向きはしたが、大体の予想はついている。 やはりな...。 「なんだよ、潤。おまえもここかよ。」 「まぁな。二人して落ちて、しかも同じ予備校とはな。」 「はぁ...。」 こいつは野崎潤。中学からの友達だ。 勉強、スポーツともに俺と大差なし。 なのにこいつはもてるんだよな。 ちゃっかり隣に彼女連れてるし。 「平山もここに入るのか?」 その彼女に言ってやる。 「優人君ひっどーい。私はちゃんと大学受かってるんだよ。」 「分かってるよ。言ってみただけさ。」 少しだけふくれている平山。 彼女は平山綾。勉強ができて家が結構金持ち。 どうして潤にほれたのやら。 容姿は長いめの髪を色々な髪形にしている。 ポニーテールだったり、ツインテールだったり、三つ編みだったり。 まぁ、彼女も高校からの友達ってとこだな。 「で、潤ももう申し込んだのか?」 「まぁな、もう一年浪人したら「家業を継げ」だってさ。 どうしても落ちるわけにはいかないからな。」 こいつの家はパン屋だったか。 そんなのやっていられない気持ちも分からないでもないがな。 「いいじゃないか。おじさんの夢をかなえてあげるのも。」 「絶対嫌だね。何なら優人にくれてやってもいいぜ。」 「俺も遠慮しておくよ。」 会話はそこで途切れてしまった。 「あーーーっ、やってられねぇ。」 どうして勉強っていうのはこんなに続かないのだろうか? ゲームだったらいつまででもやっていられるのに。 窓を開けて桟にひじをつく。 まだ風は少し冷たい。 「ふぅ...。」 風のおかげで少し頭が冷えた。 何を言っても今はやるしかないのだ。 そう思って向きを直したときだった。 彼女の顔が浮かんできた。 電車であったあの娘...。 (もう一度会えないだろうか.....。) 会ったからどうなるわけでもなかったのだが...。 あの顔を忘れることができなかった。 安らかな寝顔を...。 あの残り香を...。 少し強い風がアスファルトの上を吹く。 その砂ぼこりに目を閉じた。 予備校に通い初めて2週間。 特に変哲のない日常が過ぎていった。 勉強、勉強、勉強...。 そんな日常だった...のだが、 「優人ってさこの予備校で誰が好み?」 「はぁ?」 潤がこっちを向いて尋ねてくる。 たった2週間で全員を見るなんて不可能だ。 しかも予備校..。 「優人の趣味っていまいちわからないんだよな。」 「別におまえに分かってもらうつもりはない。」 「せっかく俺が誰か紹介してやろうって言ってるのに。 ねぇ、寂しい優人君?」 「やかましい。大きなお世話だ。」 そう言って顔を横向けたその時だった。 心臓がおかしな脈を打つのが分かった。 見覚えのある娘が歩いている。 (あの娘だ...この予備校だったのか...。) そう、電車であったあの娘だった。 「ん、なんだ?あの娘がいいのか?彼女なら綾の友達だぞ。」 「なに?」 こいつの知り合いだったとは..。 これは知り合うチャンス。 「まぁ、大きなお世話だったな。」 嫌な感じで攻めてくる潤。 (仕方がないか..。) 「...悪かったよ。」 「優人のそういう所初めて見た。 ちょっと呼んできてやるよ。」 そう言って彼女の所へ行く潤。 俺があの娘にほれたのかと言えば正直な所わからない。 だが、とにかくもう一度会いたかったのだ。 少し口で抵抗しているのが分かる。 その度に髪が優しく揺れていた。 潤が彼女を連れてやってくる。 いかにも嫌そうな顔をしている彼女。 だが、こっちに気づいて少し表情が穏やかになった。 「あ...あの時の..。」 「覚えててくれたんだね。」 何とも言えない恥ずかしさが広がる。 「あの時は本当にすみませんでした。」 「いいよ、別に。」 「あ..私、凪原春奈っていいます。」 「俺は葉霧優人。」 「これからよろしくお願いします。」 「ああ、呼び止めてごめん。」 「いえ、それでは。」 彼女を見送ると、完全に忘れていた潤の方を向いた。 妙ににやにやしている。 「貸しが一つできたな、優人。」 「わかったよ..。」 「で..あの時っていつ?」 「おまえに話す気はない。」 「まぁ、いいけどな。」 二人でそろって道をまた歩き出す。 心のつっかえが取れた気がした。 彼女の名前が分かった。もう一度会えた。 (凪原春奈か...。) 彼女と出会ってから1カ月が過ぎようとしていた。 凪原さんとも話ができるようになった。 5月も中頃。 暖かいという時期は過ぎようとしている。 段々と暑いという時期が迫っているを感じずにはいられなかった。 木々も緑を濃くしている。 そんな中でも俺の生活パターンは変わらなかった。 勉強と少しのバイト。 もうこの頃になるとそれも慣れてきた。 むしろ一浪してよかったと思うときもある。 その理由は2つあった。 1つ目は自分への慰め的なもの。 2つ目は彼女と出会えたこと。 (1つ目は少し寂しいが...。) そして、そんなことを思って過ごしていたある雨の日のことだった。 「凪原さんってどこの高校行ってたの?」 「え?」 彼女の顔には驚きやその他のあまりよくない表情が見え隠れしていた。 (何か悪いことを聞いただろうか?) その理由が自分には全く分からなかった。 お昼時の喫茶店。 思い切って彼女をランチへ誘った。 雨が降っているため景色はあまりよくない。 街がみんな灰色になっている。 ここは予備校の近くの店。 窓際の席だがどこでも一緒のようなものだ。 そう、さっきの質問は何気ないものだった。 誘ったはいいが何を話せばいいのか分からなくて聞いてみたのだ。 だが、予想外の反応が返ってきていた。 彼女はうつむいて何かを考えている。 「凪原さん?」 「あ、ごめん..。私、言ってなかったっけ?」 「何を?」 「私、18才なの。」 「えっ?まだ高校生?」 「そうじゃなくって。私、高校行ってないんだ。 もろもろの事情でね。」 彼女は少し笑って答えた。 でも、その笑顔の奥には「これ以上入ってこないで。」 という色が隠れている気がして、それ以上聞けなかった。 人それぞれの思いがあるのだと分かった。 そして、俺はまだ彼女にとってただの友達でしかない。 いや、それ以下かもしれない。 だから、いつか話してくれる日まで待とうと思った。 正午の町の様子を見る。 空は黒く重そうな雲を支えている。 雨はまだ上がりそうになかった。 月日がたつほど二人の間の会話は増えていった。 そして仲良くなっていった。 それにともなって、気づいたこともあった。 あれは夏期講習で一日中予備校にいたときのこと。 その休み時間のことだった。 彼女の教室の前を通る。 ふと覗いてみた。 一人でいる凪原さんを見つけた。 誰とも話そうとせず本を開いている。 少しも笑おうとしない。 俺と話しているときも大差ないがそれでも雰囲気は全然違った。 俺といるときは少しずつでも いろんな所で打ち解けてきた気がしている。 それが今の彼女は別人ではないだろうかと疑いたくなる。 どうしてこんなに周りを寄せ付けようとしないのだろうか? そして、そのことを聞いてみたことがあった。 「え..?」 彼女は少し困った顔をしていた。 「いや、どうして一人でいるのかなぁ、って思っただけで..。」 「....。」 沈黙。 聞いてはまずかったのだろうか? 窓の外を向いたまま黙りこくってしまった。 前のときと同じ感覚に襲われる。 <これ以上入ってこないで。> そのうつむいた顔がそう言っているように見えた。 そして、突然まっすぐこっちを向いて彼女が尋ねてきた。 「...聞きたい?」「え?」 「やっぱり今は言えない。」「....。」 「でも...。」「でも..?」 「..どうしてあなたは私に構うの? 他の人みたいに離れていけばいいじゃない。」 少しだけきつい顔をしている凪原さん。 何か言えない理由。 しかも、かなり重い理由があるみたいだ。 「...ごめん。私、何で怒ってるんだろうね。 葉霧君心配してくれたのに...。」 そう言って凪原さんは立ち上がって行ってしまった。 俺が何も言えぬ間に...窓を開けたまま..。 だが、この次の日からの凪原さんの対応は今まで通りだった。 まるで何事もなかったのように...。 夏は終わりに近づいていた。 昼間は暑くても夜の暑さは緩んできた。 もうすぐ秋が来る。 彼女と出会って4カ月が経とうしていた。 受験勉強の合間をぬってどこかへ遊びに行くようにもなった。 彼女は笑うようになってきている。 そして、俺の彼女に対する感情も変わってきた。 「好き」から「愛しい」へと。 彼女が...どう思っていようとも。 だが、ある秋の日の事だった。 少し風が寒くなった公園のベンチでお昼を食べていたときの事だった。 俺が自分の気持ちを告げると彼女はあっさりOKしてくれた。 「嫌いじゃないから。これからもっと好きになるかもしれないし。 だから、OK。」だそうだ。 そして、月日は流れ秋風もやみ冬が来た。 2月、受験勉強も大詰め。 凪原とは電話で話す事が多くなった。 遊びに行っている暇はなかった。 凪原と同じ大学にどうしても行きたかったから。 そこは偶然にも平山のいる大学だった。 そんな日々が嫌になるほど続いた。 たまに無性に会いたくなるのだが..今はそうもいかない。 夜になっても朝が来ても勉強しかやることはないのだ。 それから...3月が来た。 既にあの頃から1年。 あの頃の願いはかなった。 大学に合格したのだ。3人そろって。 そして...隣に凪原がいる。 何も言うことはない大学生活が始まった。 だが、それもまた大変だった。 大学生になったからといって 4月1日からいきなり頭がよくなるわけではないのだ。 最低限の事をするだけでも時間が足りない。 慣れるまでにまた時間がかかった。 そして...4カ月近くが流れた。 |