8月11日(Tue) 6:30
あまり眠ることができなかった。
今日は最終日。
今日が終わったら明日は帰るだけ。
今日が終わったら....だ。
春名は隣でまだ寝ている。
その唇から漏れる息が聞こえる。
どうしようもない想いが込み上げてきた。
春奈を抱きしめてどこにも行かないようにしたかった。
こんな気持ちになったことは今までにもあった。
しかし、5日前の比ではない。
胸が張り裂けそうとはこのことを言うのだ。
彼女がこのまま目覚めなくて、
時が止まってしまえばいいと思った。
一度失いかけた人...。
一度消えかけた想い...。
俺はゆっくりとベッドから出る。
服を着替え、できる限り音を立てないように部屋から出た。

リビングには誰もいない。
潤たちも起きてはいないのだ。
お湯を沸かしてコーヒーを入れる。
カップを持ってベランダへ。
外の空気は澄んでいた。
青い...海も空も。
すべてに薄青いフィルターをかけたようだ。
日は既に昇っているが、今はまだ少し薄暗い。
椅子に座って水平線を見ていた。
右から左まで途切れることのない一本の筋。
何をするでもなく見つめていた。
不意に後ろの物音に気づいた。
振り向くと、春奈が立っていた。
「優人、おはよ。早いね。」
「ああ、春奈。おはよう。..コーヒー飲む?」
「うん、もらおうかな。」
「了解。ベランダで待ってて。」
立ち上がってキッチンへ向かう。
春奈はベランダで座って外を見ている。
コーヒーをいれて持っていった。
少しだけ苦い目のやつを。
「あ、ありがと。」
5日前と同じことをしている。
「おいしい...。」
春奈がつぶやく。
「よかった。」
「私の好みにぴったり。」
「光栄だな。」
春奈は空を見ている。
「天気が崩れなくてよかったね。」
「ああ、そうだな。」
「今日も暑くなりそう。」
春奈は立ち上がって大きく背のびをする。
とても気持ち良さそうだった。

「優人、あっちの沖まで競争しよ。」
「ああ、いいよ。」
「いくぞ..よーい、スタート!」
潤の合図で一斉に泳ぎ出す
こういう乗りのいい所も潤のいい所だ。
前と同じ3時間泳いでいた。
尽きることのない考えと共に...。

最終日も暮れてしまった。
特にやることがない。
トランプくらいはあったのだが..。
夜が近づくにつれて...
明日8月12日が近づくにつれて...
春奈の顔を見る回数が多くなっていく。
今までも俺の予想...通りのことが起こっている。
(じゃあ..春奈もまた...。)
「ん?どうしたの?優人。
 ...もう眠くなってきちゃった?」
笑顔で聞いてくる春奈。
目を背けたりはしない。
「ああ、そうなんだ。」
春奈がくすっと笑う。
「まだ9時半なのに。」
「疲れたみたいでさ。」
そこに潤が入ってきた。
「じゃあ...寝るか。」
そこで、最終日も解散。
だが、俺は眠る気などなかった。

10時45分。
春奈が起きていくのが分かった。
やはり春奈は自分で出ていったのだ。
実は俺は一睡もしていない。
彼女が何のために起きていくのか知りたくて。
待っていたのだ。
俺はそのまま彼女の後を追う。
リビングに春奈はいない。
外だ...。
ドアを押し開けサンダルで外に出る。
砂浜には一つの人影。
その白い肌が照らし出されいっそう輝いている。
水着になっているのだ。
昼間はその上から着ていたシャツさえ脱いで。
...何て形容すればいいのか分からない。
白く輝いてそのまま透き通ってしまいそうだった。
おれは、ドアの所から見ていた。
見とれていた。
春奈は靴を脱いで海へと歩いていく。
波が少しづつ春奈の体を濡らしながら、
自分の中へと彼女をいざなう。
春奈は海に潜った。
今まで見たことのないほどの自然な笑顔。
..春奈は泳ぎたかっただけなのだ。
この月の下で。
俺は階段を降りて浜辺へと降りる。
足の下に砂を感じた。
「春奈。」
パッと春奈がこっちを向く。
既に浜から結構離れている。
「あ..優人。」
「俺も泳いでもいいよな?」
「うん..。」
風が強かったのだ。
少しずつ強くなってきていたのだ。
次の瞬間....俺は猛烈に後悔した。
「つっ...。」
彼女の顔が苦痛で少し歪む。
足をつかんでいる。
右足がつってしまったようだ。
そして、春奈の後ろに少し大きい波が迫っていた。
「春奈!」
俺は海の方へ走り出した。
だが...次の瞬間、彼女は海の中だった。
つった足では泳ぐこともできない。
俺はすぐに走り出した。
砂に足をとられて思うように走ることができない。
足がもつれてこけてしまった。
(くそっ..どうしてサンダルなんか履いたんだ...。)
「つっ...。」
液体が足を伝っているのが分かる。
砂の中にあったガラスで膝を切ったらしい。
足から流れ出る血までもが熱い。
激しい痛みが右足に駆け巡る。
だが、座っているわけにはいかない。
彼女を守るって誓ったんだ。
痛みは忘れろ。
こんなものはすぐに治る。
でも、彼女はもう帰ってこないかもしれない。
なんとか立ち上がってまた走り出す。
さっきよりかなり遅い。
でも、足を止めるわけにはいかない。
海に入る。
海水が傷にしみる。
傷口に塩を塗られたようなものだ。
一瞬ひるんだが、すぐに海に潜った。
でも、彼女の手を握ることができなかった。
海の中は真っ黒で潜れば何も見えない。
息が切れそうになっていったん戻る。
やはり海面にも彼女の姿は見えない。
「春奈!春奈!」
必死で彼女の名前を叫ぶ。
帰ってきたのは潮騒の音だけ。
他の何の音も聞き取れない。
でも、俺はあきらめずに探し続けた。
春奈を飲み込んだ、黒い海の中を。
無限に広がる漆黒の闇の内を....。

今回こそは、って思ったんだ。
今回こそは戻れる、って思ってたんだ。
でも、叶わなかった。
でも、戻れなかった。
そして、また此処にいる。
そして、また君の寝息が聞こえている。
どうすれば帰れるの?
どうすれば君に会えるの?
どうすれば8月12日の君に...。
もう、何が何だか分からない。
もう、何が何でもどうでもいい。
そう割り切ってしまいたかった。
そうだと思い込んで、そうだとしか思わなくて、
そして、永遠の日々を過ごせば楽かもしれない。
きっと帰れる、って信じて、きっと戻れる、って願って、
そして、辛い想いと共に生きるよりも。
どれだけ君を想っても、どれだけ君が愛しくても、
どれだけ信じても叶わない。
いつも君は俺の前から消える。
君はいつでも俺に残り香しか残さない。
地面に降った雪のように...。
一瞬の風のように...。
あの日の電車のように...。
そして、また戻ってくるんだ。
そして、ここで天井を見つめるんだ。
そして、また君は何も覚えてはいない。
無限に繰り返すんだ。
限りなく繰り返すんだ。
俺の日々は。
俺のEtarnal Daysは...。

「はぁ..はぁ..はぁ...。」
自分の荒い息づかいが聞こえる。
落ち着いて呼吸を整えた。
目の前には薄暗い空間が広がっている。
ログハウスの中は静まり返っていた。
汗でくっつくパジャマが邪魔だ。
べとべとして気持ち悪い。
落ち着いて天井を見た。
春奈の穏やかな寝息だけが聞こえる。
こんなに視界が悪いのは小さい電球を付けているだけだからだ。
枕元の時計をつかむ。
8月8日、午前3時。
俺は何故またここにいるのだろう?
小声で疑問を呈したが答えは返ってこない。
答えられる者もこの空間の中には存在しない。
すべてはすでに10日も前に始まったのだから...。

8月8日(Sat) AM 7:00
天井をずっと見つめていた。
途絶えることのない波音と共に...。
安らいだ気持ちで夜は明けた。
だが、眠ることなどできやしない。
こんな状況で誰が眠っていられるんだ?
(つっ..。)
右足に少しの痛みを感じた。
昨日の夜に切った所だと思った。
だが、そこに傷などなかった。
そして、分かった。
俺の体さえも繰り返している。
つまり、今の俺の体は8月8日の体なのだ。
8月12日のものではない。
ということは俺が老衰で死ぬことはない。
この日々から抜け出せなければ。
自殺か事故でしか死ぬこともできない。
俺がずっと今まで通りに過ごせば永遠に続くのだ。
こんな、残酷な日々は..。
(どうしてここにいるのだろう...。)
何百回目か分からない疑問が浮かぶ。
俺は既にここで10日を過ごした。
(ずっと...このままなのだろうか....。)
8月11日午後11時59分59秒。
俺はこの一秒先を垣間見ることさえできないのだろうか?
横には春奈が眠っている。
二度失ったはずの愛しい人が....。
ずっと見つめていた。
ずっと....。
そして窓からの風にカーテンが揺れる。
それに呼応するように春奈は目を覚ました。
「おはよう...優人。」
「おはよ、春奈。」
少しはにかんで笑う春奈。
「なぁ、春奈。」
「..何?」
「今日って8月12日だよな?」
言ってはいけないことを言ってしまった。
でも、無意識のことだった。
頭の中では俺が「止めろ」と叫んでいる。
でも、何の効果もなかった。
今まで溜めていたものが一斉に出ていく。
そう簡単には止めることはかなわなかった。
春奈が驚いた顔をしている。
自分の口調が少し強いのにも気づいていた。
「えっ?今日は8日でしょ。」
「うそだろ?...だって昨日は11日だったじゃないか。」
「え..?..どうしたの?..優人?」
「どうもしてなんかない。どうして俺だけなんだよ。」
春奈に言っても仕方のないことは分かっていた。
でも、誰かに言わずにはいられなかった。
「何言ってるの?昨日着いたばっかりじゃない。」
「.......。」
「...優..人?」
「...そう..だよな.。」
少しだけ頭が冷めた。
「..大丈夫?..優人、何か変だよ?」
春奈は覗き込むようにしてこっちを見ていた。
春奈のその言葉が頭の中でリピートされる。
(ヘン?オカシイ?ドウカシテイル?
 俺が変なのか?おかしいのか?どうかしているのか?)
春奈が心配と少しおかしなものを見るような目をしている。
当然かもしれない。
俺がいきなりそう言われてもきっと同じ反応を返す。
いくら気づいていないだけだとしても...。
そう考えてみると自分のしたことをひどく後悔した。
春奈にこんな顔をさせてどういうつもりなんだ?
俺は彼女を困らせたいのか?
(ちがう。彼女を守りたいんだ。)
しかし俺のやったことは何だ?
(彼女に分かってほしかったんだ。)
結果はどうだった?
(彼女を混乱させただけ。
 結局、自分の問題は自分で解決するしかないんだ。)
ゆっくりと冷静に考えた。
「..ごめん。何でもないんだ、忘れて。」
「...うん。」
何かを考えている表情の春奈。
俺のしたことは彼女を混乱させただけ。
俺の問題に巻き込んではいけないのだと分かった。
彼女にとって「今日」は8月8日。
彼女にとって「今日」は2日目。
初めて二人で寝て起きた朝。
そう、俺だけなのだ...。
「どうかしたの?」
「あ、いや、本当にごめん。..先に行ってるから。」
「うん、すぐに行く。」
服を着替えて外に出る。
廊下にまでも光が溢れている。
やっぱり、8月8日なのだ。

リビングには先客がいた。
潤だ。どうも視線が定まっていない。
ぼーっとソファに座っている。
起きてきたばかりのようだ。
「おう、優人。おはよう。」
潤が俺に気づいてあいさつしてくる。
「優人君、おはよう。」
後ろから声をかけられた。
キッチンの方を向くと平山もいた。
同じようにお湯を沸かしている。
すべてが同じ。
すべてが非現実的。
すべてが実感を持たず、夢と大差がない。
しかし、すべて現実なのだった。
俺は強く願った。
いっそのこと、時が止まればいいのにと。
そうすれば俺を含め全員が止まってしまう。
生きることができないが、生きなくてもいい。
春奈と話すことはできないが、春奈はいなくならない。
そっちの方がよっぽどましだと思った。
繰り返すくらいなら....。

何も話したくなかった。
完全に、誰とも。
...もう、どうでもよかった。
(いっそ死んでしまえば....。)
本気でそう思ったりもした。
死ねば楽になれる。
よく聞く台詞だが、誰が調べたのだろう?
この世に「既に死んだ人」などいない。
だから、保証などどこにもない。
苦しいかもしれない。
そう思うと死ぬなんてできなかった。
10日前、5日前と同じ。
ベランダで3人を見ている。
そのうち春奈が来る。
「来るはず」ではない「来る」のだ。
「優人、大丈夫?」(来た...。)
「ああ、心配かけてごめん。」
目の前に立っている春奈を見上げる。
彼女の後ろから日がさして、俺がちょうど影になった。
ずっと、その目を見ていた。
「優...人?」
「..ん?」
「もしかして...見とれてる?」
春奈がのぞき込むように聞いてくる。
「え..?」
彼女がくすくす笑った。
その顔を見ていると自然に微笑んでくる。
「冗談よ。..泳ご?」
「あ..ああ。」
春奈がそっと俺の手をつかむ。
くすぐったいような感覚が全身に広がった。
その柔らかい手をそっと握り返す。
砂浜へと降りていた。
俺はこの時に決めた。
何も考えないでおこう、と....。

日が暮れた。
少しずつ暗くなっていき、先ほど真っ暗になった。
水泳は楽しかった。
いくら、今までと同じだとしても。
ソファに座って春奈を待っている。
シャワーを浴びに行っているのだ。
潤が隣にいるが何を話していいものか分からない。
少しの沈黙が続いた。
ドアがゆっくりと開く。
春奈と平山が入ってきた。
さっそうと立ち上がる。
まだ湯気の立ち上る春奈に言った。
「散歩でもしないか?」
「え、うん。いいよ。」
「よし、行こう。」
「あっ、ちょっと...。」
春奈が何か言っている。
でも、気にしてはいられなかった。
春奈の手をつかんで外へと出た。

「優人、強引なんだから。」
「ごめん..。」
砂浜を歩きながら話していた。
春奈からほのかに薫るセッケンの匂いに胸がつまる。
手にはまだ少しの濡れた感じが残っていた。
「でも...嬉しかった..。」
「え?」
「私も、散歩しない?って言おうと思ってたの。
 だから、少し嬉しかった。」
こっちを見て微笑む春奈。
この笑顔を見ていたら俺の問題も消えていきそうだった。
「春奈...。」
「ん..なに?」
前を向いて歩いていた春奈がこっちを向く。
「......。」
「どうしたの?」
「...なんでもないよ。」
「なにそれ?」
「何でもないんだって。」
彼女は少し不思議そうな顔をしている。
こっちをしばらく見ていたがまた前を向いて歩き出した。
もう少しで朝のことを持ち出してしまう所だった。
極力この話題には触れてはならない。
そう、彼女まで巻き込むことははない。
本当のことを言っても困らせるだけ。
(しかし、俺のいた時間はどうなったのだろう?)
気になってもその答えをうかがい知る事はできない。
限りなく続く浜辺を二人で歩き続ける。
紺色の海と金色の星々。
星は空で永遠に輝いている。
海は永遠に波音だけを響かせていた。

8月9日(Sun) AM10:00
また同じ時間に目が覚めた。
結局人間は時間に支配されているのだと思い知らされる。
自分たちのために作り出した区切り。
それなのに、逆に支配されてしまった。
そして、支配されていることにも気づいていない。
だから、反乱を起こそうとも思わない。
もしかしたら、今なんて存在しないのかも。
繰り返す事も往々にして起こっているのだ。
おそらく、記憶が無くなったりしているのだろう。
だが、どう間違ったのか、俺は記憶を無くさなかった。
その重さが俺にのしかかっているのだ。
「春奈、起きてるんだろう?」
寝ている春奈に言った。すると、
「...どうして分かったの?」
目を閉じたまま笑っている。
「なんとなくさ。」
「優人こそ、考え事?」
「ああ、まぁな。...起きよっか。」
「そうだね、先に行ってて。」
「わかった、下で待ってる。」
春奈はまだ布団の中にいる。
俺は起き上がってカーテンを開けた。
光の束が体に突き刺さる。
俺の心の中のマイナスな部分を全部取り除いてくれるようだった。
体がずっと軽くなる気がする。
何も変わってはいないのだが...。
今日も海は透き通っている。
空には二匹の鳥が飛んでいた。
ダンスでも踊っているかのように舞っている。
空を泳ぐように。
限りなく優雅に。
雲間を飛び回っていた。

「ほら、行ったよ。優人。」
「まかせろ。」
帰ってきたバレーボールを慎重にあっちに返す。
太陽がまっすぐ目に入ってかなりまぶしい。
夏の砂浜は焼けるように熱い。
潤が追いついてこっちに返してきた。
「優人。」
「分かってる。」
春奈の声に答える。
陽射しの中、タイミングを合わせて飛んだ。
この瞬間が気持ちいい。
自分が解き放たれた気がする。
(同じミスを二度はしない。)
しっかりとボールをとらえた手を思いっきり振った。
今度はばっちりボールの感覚もあった。でも..
「どこやってんだよ、優人。」
潤の罵声が聞こえる。
着地して相手コートを見た。
その向こう側にボールを取りに走る平山の後ろ姿が見えた。
ボールははるか遠くへと飛んでいたらしい。
文句なしのアウト。
同じミスを二度はしなかった。
でも、別のミスをやってしまった。
「優人、かっこ悪い。」
そう言ってくすくす笑う春奈。
ふぅ....。

3度目の潤の言葉。
3度目の炎。
3度目の夜。
けど、何度目だろうと関係ない。
こうして春奈と炎を囲んでいると安らぐ。
もう2回も見たことがあるなんて、どうしても考えられない。
不意に木がパチッと音をたてた。
火の粉が空を舞う。
全員がその方向を見上げた。
赤い光が夜空を照らし、そして消えていくまで。
夜の闇に紅い風は吸い込まれていった。
「きれいだね...。」
「ああ...。」
月並みな言葉の飛び交う空間。
でも、それがつまらないなんて思わない。
本当は別に今、言葉など必要なかった。
完全な静寂でも構わなかった。
炎を見ている間だけ忘れることができたから。
今までの10日間。
これからの無限...。

8月10日(Mon) AM 5:35
今まではまだ寝ていた時間。
俺は砂浜に座っている。
昼間のあの暑さを作り出す太陽、日の出を待っていた。
まだその姿を見ることはできない。
辺りは少し暗さが漂っている。
青白い光がそのうちにオレンジ色へと染まる。
そして、昼間の無色透明な光になるのだ。
ここに座っているとあの日を思い出す。
初めてここで春奈の靴を見た日。
絶望と驚愕と狂気と混沌の入り交じった空間だった。
その次の日、つまり2回目の8月8日の朝、
あの時と比べれば俺もかなり落ち着いている。
人間の環境適応能力を少し恐ろしく思った。
こうやってどんな狂ったことにも
対応していけるのかと思うと...。
(そろそろだな....。)
もうすぐ春奈のやってくるはずだった。
....来た。
「おはよ、早いね。」
「おはよう。春奈こそ..。」
くすっと春奈が笑う。
「優人も朝日を見に来たの?」
「ああ、まぁな。」
「起きたらいないんだもの。びっくりしちゃった。
 ...となり、いい?」
「ああ、どうぞ。」
俺が言い終わる前に彼女はもう座っていた。
切りそろえられた綺麗な髪が風になびく。
「もうちょっとだね...。」
少しだけ明るくなり始めた。
水平線を見ながら彼女がつぶやく。
もう少しで旅行が終わるのか。
もう少しで日の出なのか。
どっちが「もうちょっと」なのだろうか?
どうでもいいことを考えていた。
おそらくその両方なのだろう。
そして、次の瞬間だった。
彼女の表情が変わったのは...。
「あ....。」
嘆息を彼女が漏らす。
「......。」
俺は何も言わなかった。
3度目だから、そういうわけではなかったと思う。
自分でも分からない。
でも、何も言えなかったのだ。
水平線が赤色になっていくのが明らかに分かる。
また「今日」が始まるのだ。
厳密に言えば「明日」はとっくに「今日」になっている。
でも、本当の始まりは今なのだ。
起きて12時を越えたって「明日」という実感など沸かない。
寝て目が覚めて、やっと「今日」になるのだ。
「綺麗...早起きしてよかった....。」
「.....。」
彼女の小さすぎる声は波の中に消えた。
紅く揺れる無限の波の中に...。

ログハウスに戻った。
二人はまだ寝ているようだ。
何の物音も聞こえなかった。
「私たちも、もうちょっとだけ寝よ。」
「ああ、そのつもり。」
そう言って部屋に戻る。
それぞれのベッドに入った。
「おやすみ。」
「ああ、おやすみ。」
俺はそうは言ってもすぐに眠る気はなかった。
春奈が寝るのを待っている。
彼女が寝つくまでそう時間はかからなかった。
春奈が完全に寝ついたことを確認してから、
カーテンを少しだけ開ける。
窓からの溢れている光が筋となって部屋に注ぎ込まれる。
一定のリズムで揺れながら春奈の顔まで照らしている。
ずっとそのままだった。
揺れ続ける一本の光。
部屋の中を安らげる世界に変える。
少しの間その光と照らされている春奈を見ていた。

目が覚めた。
いつしか眠っていたらしい。
布団の上で一本の輝く筋が揺れている。
11時...ではなかった。まだ9時。
微妙なズレが働いたらしい。
春奈はさっきと変わらず眠っている。
俺は少し春奈を見ていてから起き上がり完全にカーテンを開けた。
赤かった太陽は白く辺りを照らしている。
少し日を浴びてから、服を着替えた。
音を極力立てないように努める。
ドアをゆっくりと開けてキッチンへと向かった。

階段を一段ずつゆっくりと降りた。
その度に小さなきしむような音が聞こえる。
一階も既に温かかった。
これだけ日が差し込んでいれば当然だ。
リビングへのガラス張りのドアに手をかける。
手前に押し出してそのまま吸い込まれるように中へと入った。
ソファを見る。
そこには誰もいなかった。
だが、後ろに人がいるのにも気づいていた。
その方向に振り返る。
そこには平山がいた。
台所の流しの方を向いて外を見ている。
コーヒーでも飲んでいるようだ。
後ろから近づいて声をかける。
「おはよ、平山。」
「きゃっ...優人君、びっくりするよ。」
「悪い、早いんだね。」
「目が覚めちゃって...。」
そういって平山はもう一口コーヒーを飲んだ。
「春奈ちゃんは?」
「まだ寝てる。...キッチン借りるよ。」
「どうぞ。」
許可を得たため俺は冷蔵庫から、
卵とハム、ウインナー、牛乳を取り出した。
フライパンを出して熱する。
そこに卵を割ってフタをする。
ウインナーを炒め、ハムにマヨネーズを塗る。
パンをトースターに入れて牛乳をくんだ。
少し待つとすべてがほぼ同時にできあがる。
「優人君、かなり慣れてるね。」
平山が感心したような顔で見ている。
「でも、ちょっと多くない?」
「ああ、春奈の分。」
「優人君、優しい。...あ、起きてきたみたい。」
そう言われたので耳を澄ます。
二人分の階段を降りる足音。
潤と春奈だ。
その数秒後ドアが開くと、眠そうな顔が現れた。
「おはよう...。」
いかにも朝って感じのあいさつ。
「おはよう、春奈。朝ごはん出来てるから座って。」
「ホント、いいにおい。優人すごいね。」
春奈がそう言って嬉しそうに座る。
そこに出来たばかりの朝食を並べてやる。
その時、後ろにいた潤が...。
「優人、俺の分は?」
「ない。」
「何て奴だ...。」
その時座っていた平山が立ち上がった。
「潤の分は私が作るから、優人君座ってて。」
そう言ってガス台へ。
俺は言葉に甘えて春奈と向かい合って座った。
春奈はまだ髪を触ったりしている。
いまいち頭がはっきりしないらしい。
少しずつ食べてはいるのだが、どうも遅い。
何秒かに一度あくびをしている。
そんな仕草、すべてがかわいい。
俺はずっと春奈を見ていた。

空の色が今日もまた変わっていく。
一日の仕事を終え太陽が西へと沈み始めた。
今までの碧をすべて赤へと塗り替えながら。
波、空、砂、風、すべてが染まっている。
単色色調で統一された世界。
この時間帯を越えると「今日」という一日は終わるのだ。
そんな中バーベキューの用意も終了。
潤がいてもいなくても何の心配もいらなかった。
それほど慣れてしまっていた。
潤は用意した椅子にへばっている。
俺はそんな潤を残して少し急いでキッチンへと向かった。
「いつも通り」彼女たちは料理をしていた。
包丁などの音が響いている。
平山に後ろから声をかけた。
「平山、俺がやるよ。」
「え、用意してくれたのに悪いよ。」
「いいから。」
「うん..。」
そう言って半ば強引に代わる。
潤が帰ってきていた。
平山はそのまま潤のとなりへと行ってしまった。
「綾ちゃんには優しいの?」
隣の春奈が少し不満そうに俺を見る。
「春奈と料理がしたかったんだよ。」
それらしい理由を述べる。
本当は違ったが。
小さな傷でも3回も見たくなかった。
平山だって(知らないけど)3度も指を切りたくはないだろう。
だから、俺が代わったのだ。
そして、用意もほとんど終わった頃だった。
平山が何かを思い出したように立ち上がる。
「そうだった、あのね潤、タレを忘れてきちゃったの。」
その声に潤が答える。
「いいよ、俺が買ってくる。」
そう言って潤が立ち上がろうとする。
それを平山が止めた。
「いいの、いいの。私が散歩もかねて行ってくるから。
 自転車があったはずだからさ。」
「え..ああ、確か前の方に置いてあったはず..。」
潤が少し驚いたように答える。
「分かったわ、行ってくるからちょっとだけ待ってて。
 私の分、食べちゃったら怒るからね。」
「大丈夫だよ。綾が帰ってくるまで食べ始めたりしない。」
「ありがと、行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」
平山が小さく手を振りながら部屋を出ていく。
潤も優しくそれに答えた。
(かなり変わってしまった....。
 俺のせいなのだろうか....?)
未来が分からないなんて当たり前だったはず。
でも、今は見えない未来が不安でしかたなかった。
妙な胸騒ぎを処理することが出来ない。
自分が平山をかばったから彼女が買い物に行った。
ただそれだけなのに。
ただそれだけなのに、頭から離れなかった。