11月24日(Tue) PM 6:20
外は風が吹いていた。
静まり返った部室のドアを、一定のリズムで叩いている。
「寒い..もう11月も終わりそうだからな..。」
自分の声と、服を着替える音だけが響いている。
ドアを力を込めて押し開けると、風が容赦なく吹き抜けた。
日は既におちている。辺りには闇しかなかった。
(部活、早めにぬけてきたのに..)テニスが嫌いなわけではなかった。
ただ、言ってしまえばテニスでなくてもよかったのだ。
寒さと暗闇がいっそうの孤独感を演出する。
そのせいだろうかどうしようもないくらい寂しくなる。
昔を思い出してしまうから....。
ふと空を見上げる。風のせいで雲はない。
星も少ししか見えない。...月が...光っていたから。
月の魔力、人を魅了・支配する力。
そんなものを信じてしまうくらい..。
いつも通る道を歩きながら空を、月を見つめていた。
あの日のように輝く満月を見上げていた..。

          *  *  *  
音楽室へ向かっている。教師の私的な用のおかげで。
「ちっ、プリントぐらい自分で届けろよ。
 ただでさえ、クラブで疲れてるのに。ったく、村田の奴。
 顧問だからなんだってんだよ。明日にしとけっての。」
言いたい事を一通り愚痴る。
言いたいことをすべていってしまったので、
廊下には粘り着くようなスリッパの音だけが聞こえた。
(......何か聞こえる.....。)
..ピアノ?
時計を見る。5時50分を少し回った所。
(まぁ、誰かいてもおかしくはないか・・。)また歩き出す。
音楽室に近づくにつれて音は大きくなっていく。
一通り聞いたので曲名も分かった。
(「運命」..だよな。作った人は...バッハ?..忘れた。
 くく、自称作曲家が聞いてあきれるな。)
音楽室の前まできた。
ドアを引き開けるのと、音がやむのは同時だった。
夕日に照らされたグランドピアノの前。
....そこにはこの学校の生徒らしき女子がいた。
長い髪をすそのほうで結んでいる。
(同い年かな?見たことないけど..。)
どうも沈黙の時間が長かったようだ。
「...何の用でしょうか?」彼女が先に口を開いた。
「あっ、えっと..。」(何をうろたえてるんだよ。おれは。)
「このプリントを丹波先生に届けるよう言われて..。」
プリントの束をしめしてみる。
「...先生ならもう帰られました。」
「そうか..。」(骨折りかよ。勘弁してくれ...。)
「....私が..渡しておきましょうか?」
少しうつむき加減で彼女が答える。
「え、ああ、そうしてくれると助かる。」
「では、名前だけ教えてもらえますか?」
「ああ、俺は成瀬霞瑞(カズイ)。」
「あ、すみません。あなたではなくて、
 渡すように言われた先生の..。」
「え?あ、ごめん。村田先生だけど...。」
(何言ってんだよ..俺は...。)
「わかりました。」
彼女の近くに行きプリントを手渡す。
少しだけ..さっぱりした柑橘系の匂いがした気がした。
彼女は受け取った束を少し見てからピアノの上に置いた。
そんなやり取りが終わって、あらためて彼女を見る。
ピアノの前に座り少しうつむいて楽譜を見ている。
少し悲しげなその横顔が目に焼きつく。
その白い肌が赤く染まった陽射しに照らされている。
ガラス細工のように透き通ってしまいそうだった。
その目も肌も口も髪も...。
どうしても目が離せない。
少し口調がかたいがどうも無理をしているようだ。
初対面ではしょうがないのだが。
「...まだ何か?」彼女が怪訝そうな顔でこっちを見ている。
「いや、あの、君は2年生?」
「..そうですけど..。」(同い年か...)
「あの、さっき弾いてたのは?」
「ベートーヴェンの「運命」ですけど..。」
「..君の名前はなんて言うの?」
「...桧弓雪音..。あの..もういいですか?」
いっそう口調がきつくなっている。
彼女の顔はすでに疑いの色以外見えなくなっていた。
(無理ないよな..。初対面で..。)
「あ、ごめん。プリントありがとう。じゃあね。」
「.....。」返事はなかった。
(調子に乗り過ぎたな。)
夕暮れの廊下を先ほどから鳴り始めたピアノに合わせて歩く。
このあと学校を出てもピアノの音がずっと頭に響いていた。
(桧弓雪音か...。)
これが、二人の出会いの「運命」だった。
        *  *  *

11月25日(Wed) AM 7:15
また朝がやってきた。本当に起きたくない。
きっと日本の生活スタイルを根本から見直す必要があるぞ。
(...こんなこと言っててもしょうがない。起きるか。)
「寝みぃ..。起きたくねぇ..。」
体にムチを打ってなんとか起き上がり窓際に行きカーテンを引き開ける。
光の束が開け放たれた窓から飛び込む。
「まぶしい...。」
外は晴天だった。気分がすぐれないので、感動もいまひとつだが。
階段を駆け降り、手短に用意を済ませると、カギをして出かけた。

これだけ晴れていると、いやでも気分がよくなる。
いつも通る道も少し違う気がした。
言ってみれば、小鳥がさえずっている、ってところだろうか?
そんなことを考えていると、藍空駅が見えてきた。
駅は生徒やサラリーマンであふれている。
その中からめざとく俺を見つけて呼びつける奴がいる。
「霞瑞。おはよっ。」(やっぱり...美崎璃乃(リノ)だ。)
家が近いから小さい頃からよく知ってる。いわゆる幼なじみだ。
顔の横の髪だけが少し長いショートカットの娘。
目が大きく顔もキュッとしまっていて遠くから見ていればなかなか。
遠くから見ていれば、と断ったのにはわけがある。
性格が何ともいえないのだ。
たまについていけなくなるほど元気があふれているのだ。
今日もまた屈託のない笑顔をしている。
(少しでも見習わなくちゃな..。)
「ああ..おはよ。」力なく返事をする。
「どうしたの?元気ないね。」
(俺としては、璃乃は何でそんなに元気なんだ?ってききたいぞ。)
とは言えないから、
「そんなことないさ..。朝はちょっとな。」
「いつもよりひどそうだよ?」
璃乃がこっちをのぞき込む。
「大丈夫だよ。」(たぶんな.,.。)
「そう。じゃあ、行こっか。」
「ん、あ、ああ。」(別にこいつと行くのも悪くないか..。)
少なくとも、気をまぎらわすにはちょうどいい。
しかし、ほとんど毎日なのがちょっとな...。
こんなやり取りから、また「今日」が始まる。
いつも通りの日常が....。

俺たちの降りる天川駅は家からすぐの藍空駅から
20分ぐらいのところであとは降りて学校まで15分ほどの道のり。
駅前をぬけて周りに少し自然もある平凡な学校だ。
駅を出て、歩き出す。
途中何人もの生徒が自転車で通り過ぎた。
自転車の方が楽だろうけど、歩く方が気持ちいいと思う。
登下校の何気ないものの中に、季節の移り変わりを感じるから。
すでに葉のない木を見上げる。
寂しさよりも、春を待つ力強さを感じた。
「それでさぁ、って、ねぇ、きいてる?璃乃の話。」
横で璃乃が騒いでいる。
「..ああ。聞いてるよ。」
「ふーん。それでさぁ...。」
不意に風が通り過ぎた。その中に冷たさを感じる。
(もう、冬....、なんだなぁ。..またこの季節か..。)
妙に考え事の多くなる季節がまたやって来た。
気がつくと学校へ到着していた。

教室。すでに朝の喧騒が始まっていた。
「よう。霞瑞。」
後ろから名前で呼ばれた。
こんなに慣れなれしいのは一人しかいない。
「ああ、秋斗か。おはよ。」こいつは、水沢秋斗。
中学3年の夏に急遽転向してきた男だ。
出会ったときから何故かうまが合って
そのままずるずるとこいつと一緒の高校生活を営んでいるわけだ。
見た目はそれなりにいいのだがこいつも性格がなんとも。
いろんな意味で信用しきってはいけない。
少し距離をおくといい奴なのだが...。
「朝から暗いな。美崎と喧嘩でもしたか?」
「やかましい。何で璃乃が出てくるんだよ?」
「聞くまでもないだろ?」(はぁ?さっぱりわからん。)
たまにこいつは、わけのわからん事をぬけぬけと..。
「あのなぁ...」と言いかけたとき、
キーンコーン..キーンコーン。
「HR始めるぞ。」担任がやってきた。
いつも通り、時間通りにやってきた。
(秋斗のやつ...。)
言いたいことはあったが授業が始まってはしかたがない。
とりあえず寝ることに決めた。

気づけば古典の教師がわけのわからん日本語もどきの説明をしている。
時計は....12時少し前。よし起きる時間もぴったりだ。
キーンコーン..キーンコーン。
チャイムと同時に購買へ向かう。
学食というものもあるが、俺は購買派だ。
何だかんだ言って購買の方が安くすむ。
弁当がないのは、母親がいないせいだった。
5年前病気で死んだ。もともと病弱だったのだ。
何度か入退院を繰り返した後のことだった。
そのうえ、1年半前、つまり俺がこの天川高校に入学するときに、
親父が、転勤になってしまった。
そして俺が引っ越しを断固拒否したために、今はほとんど一人暮らし。
というわけだ。
階段を駆け降りると、購買が見えてきた。
殺到する生徒を押しのけて手を伸ばす。
目的のものを手に入れ、一路屋上へ。
(最近来てなかったな...。)
階段を駆けのぼり鉄のドアを開ける。
空は変わらずの晴天。昨夜の風が嘘みたいだ。
そんなことを考えながらベンチに座って顔だけ上向ける。
あの満月が浮かんできた。
「満月...か..。」一人つぶやく。
いや、つぶやいた気がした..。

チャイムが午後の授業の終わりを告げる。
日が傾きかけている。せっせと帰る用意をしていた。そこに、
「霞瑞、一緒にかえろ?」そらきた。何でこう毎日毎日..。
璃乃に容赦なく簡単に答える。
「いやだ。」「ええっ?なんで?いいじゃない。一緒にかえろぅ。」
予想通りの反応を返してくる。
そして、これぐらいでは引き下がらない。
「なんでってなぁ..、もう高校生だぞ。」
「......でも...。」
少し泣きそうな目でこっちを見る。
(うっ..加害者の気分...はぁ。)
そう、こいつはこういうことが得意なのだ。
「...わかったよ。」「やった。」
なんて変わり身の早さだ、いつもながら。
そう..昔からこうだった。
(何かあっても、いつもずっと俺のとなりで笑ってたな。)
クラスメートにあいさつして少し夕日に染まった教室をあとにする。
騒ぐ璃乃を横目に校門を出た。

駅前をぬける。年末だから少し活気がある。
ホームへと入り、ちょうどの電車に乗り込んだ。

璃乃の家の前。「じゃあ、また明日ね、霞瑞。」「ああ。」
璃乃はそう言って自分の家に入っていった。
空を見上げる。すでに日はほぼ沈み、星が見えた。
家に入り、自分の部屋へ行く。
「つかれたー。..また1日..終わったな..。」
ベッドに倒れ込んで一人つぶやく。
天井を見つめながら考えた。
(独り言..増えたな...。)
そんなこともつかの間、俺の意識は遠く深い海の底へと落ちていった。
また「明日」が「今日」に変わる....。

11月26日(Thu) AM 8:00
「ねぇ。霞瑞、起きて。」
電車の中、目の前は璃乃だった。
座っている俺の目の前にいるようだ。
「ああ..おはよ。なんだ?」
ねむい目をこすりながら返事する。何だってんだ?
「おはよ。って乗る前にあいさつしたでしょ。
 それに、なんだ?っていうか、もう天川駅だよ。ほら、降りる準備。」
朝から妙にテンションが高い。
勘弁してくれ。ただでさえ気分がよくないのに..。
「遅刻する気?」「いやそんなつもりはないぞ。」
「じゃあ起きてよ。ほら。」
璃乃が軽く俺の腕を引っ張る。
「かったるいなぁ....。」
「どうせ遅くまでゲームでもしてたんでしょ?」
(昨日は寝たのが..6時..だったか。起きたら制服だったし。)
どうしてこんなに眠いのだろう...考えてもしかたない。
「ああ、もう降りなきゃ。行くよ、霞瑞。」
だるい体にムチを打ちホームへと出る。
(また「今日」か...きりがないな..。)
外は、また、晴れていた。

昼休み。
チャイムが鳴って少しの自由が配布された。
このまま寝て過ごしたいが、どこにでも敵はいるものだ。
「霞瑞。飯食おうぜ。」
こう言って寄ってくる敵。秋斗だ。
「ああ、少し待っててくれ。」
購買に行こうとすると、
「さっさと行ってこいよ。..自分で弁当作ればいいのに。」
「朝早いのは嫌いだ。」「まぁどうでもいいから..。」
「ああ。」と言って購買へ向かう。
いつもの昼休みだった。

放課後。すでに周りに人の姿はまばらだ。
窓の外にはサッカー部や何かがグラウンドを駆けずり回っている。
何を考えるでもなく放課後の学校を見ていた。
一人教室に残っている。待ちぼうけ、というやつだ。
(璃乃の奴...喫茶店ぐらい他の奴といけってんだよ..。)
新装開店の喫茶店につきあって、と頼まれ、
例のごとく断ったのだが、例のごとく押し切られてしまった。
(どうしろってんだよ..。30分も待たせやがって..。
 まぁ、部活はいいとしてもだ..。遅すぎる。)そのときだ。
駆け上がってくる足音に気づいた。近づいてくる。
「ふぅ..やっと来たか。」扉が開く。
「あのなぁ..。」
俺の言葉が終わる前に焦った声が返ってきた。
「ごめん。古典の関岡の話が長くってさぁ、もう少しかかりそうなの。
 先に帰ってて。ほんとごめんね。」
「はぁ?」「じゃあ、関岡帰ってきちゃうから..。」
そう言って、騒然と立ち去ってしまった。
(ねぼけんなよ。日が暮れてきてるじゃねえか..。)
やる気のない体を動かす。
それだけでもいやになってしまったのだが、帰らなくてはしょうがない。
カバンをもち、ドアをあらく閉め、教室をあとにする。

廊下にも人の気配はなかった。
差し込む夕日だけがやけにまぶしい。
(部活は...さぼろ。本屋でもよってくか..。)
トクン...。
心臓が不意に不整脈を打つ。....ピアノの音だ....。
夕日..響くピアノ...孤独...。
この感覚は忘れることが不可能だった。
自然に足が音のする方へと...向かっていく。
進む足が加速度的に速くなる。
ピアノの音も..大きくなっていく..。
(次を左...あのつきあたりを..。)
ほとんど行ったことのない音楽室へ向かって..。
一つの事だけを心に抱いたまま..。
(雪音....。)
熱い足とは対照的に、頭の一部はいやに冷め切っている。
「俺」を止めようと必死になっている。
「俺」が絶望する前に...そんなことはありえないのだと...。
(行ったって何もない。「誰か」がピアノを弾いているだけなのだ。)
だが少しの効果も見られない。
もう止まらなかった。
絶望するとわかっていても。
現実を突きつけられるとしても。
妄想は妄想でしかないと思い知らされても。

音楽室。ゆっくりとドアに手をかけ、横へ押し開ける。
スーッ、と開いていくすき間から音が漏れてくる。
(あの曲だ..雪音の弾いていた..。)
ピアノの前には一人の女生徒がいた。
その娘はピアノの方を向き、ずっと音の波に陶酔している。
ドアが開いたことさえ気づかずに..。
目をとじて音の流れにだけ没頭している。
その横顔がとても安らいだ顔をしていた。
曲が終わる。彼女がゆっくりとこちらを向く。
長い髪が、ふわっと舞った。
「..雪..音?」(そんなはずはないのに..。)
彼女が驚いてこっちに振り向く。
その名前を口にしたことをひどく後悔した。
激しい自己嫌悪に襲われる。
「あっ...。えっと、何でしょう..?」
彼女の顔には、いろんな表情が見え隠れしていた。
「あ..ごめん..。」「?」聞こえていなかったようだ。
「いや、ピアノの音が聞こえたから..。」
「そう...ですか。12月に発表会があるんです。」
「そう..か。君は2年?」
「はい。あ、月下と言います。月下音色。....あなたは?」
「あ、ごめん。成瀬霞瑞。俺も2年なんだ。」
「そうですか。どこかであってたかも知れませんね。
 これから、よろしくお願いします。」
そう言うと彼女は小さく礼をする。
「ああ、よろしく。」
そのとき彼女がちらっと時計を見るのに気づいた。
「あ、邪魔しちゃったね。俺、帰るね。」
「いえ、さよなら。」「ああ、さよなら。」
彼女を残し音楽室のドアを後ろ手で閉める。
あの日と似ている。どこまでも、限りなく...。
偶然なんて言えないこんな現実に、
色々な思い・考えが頭の中を駆け巡っていた。
外へでる。空は既にかなり暗く、少しかけ始めた月が光っている。
いつからだろう...。
こうやって空を見上げるようになったのは...。
考えてもしかたない..すぐこう思うようになったのも。
周りは月のおかげでいつもより明るい。
俺の好きな、少しだけかけた月のおかげで..。

部屋に着くとすぐにベッドに飛び込む。
廊下、ピアノ、今日、あの日、長い髪、月...。
すべてがまじり合って、妙な感覚に襲われて、何もする気が起こらない。
際限のない思いがぐるぐると..。
なのに、すっきりした部分が
自分の頭のどこかにあることにも気づいていた。
すべては変わりのない日常なのだと、思っていた。
考えても、考えても寝つけない。
(どうしたってんだ?俺は何を考え続けてるんだ?)
自分の中に芽生えつつある感情、
忘れていたもの、いや忘れようとしていたもの。
俺はずっと1度きりのものを見つめていたはずだった。
完全に置き忘れてきた、どこかへ失った、と思い込んで、
いつも取り出せるように、
体にぴったりとくっつけているのを見てみぬふりをしていた。
どうしても認められない。認めたくない。
だが...確実に俺の心は...動いていた。

*  *  *
「ねぇ..。」隣にいる桧弓が俺をのぞき込んでいる。
「なに?」「あのね...。」
夏休み直前のテストも終わり、昼から休みなので、
とりあえず学校の中庭で昼食を食べながら話していた。
「最近さぁ、いつも霞瑞君といる気がするんだ。」
と言って桧弓は空を見上げる。
「そういえば..そうかもな。」「でしょ。」
出会ったのが5月の中ごろ。それからいつの間にか...だ。
「はじめてあったのは...5月..だったよね。
 あの時少しびっくりした。」
「そうだな..。ピアノの音につられた、って感じだった。」
「霞瑞君、挙動不審だったよ。」
「桧弓だって口調がかなりきつかったよ。」
「初めて会ったんだもん。しょうがないじゃない。」
「俺も。何言えばいいのか分からなかった。」
桧弓がクスクス笑っている。
最初の頃に感じたかたさはもう桧弓からは感じられない。
ガラス細工だったのが今度は水になったみたいだ。
すべてを包み込んで安らぎを与える水。
そんなことを思いながら微笑む彼女を見る。
その横顔がすごくかわいくて無意識のうちに見取れてしまっていた。
「ふふ..わたしも。何だか霞瑞君ぼーっとしてるんだもの。」
「...すごく前のこと...みたいだ。」「そうだね..。」
中庭のベンチ。
校舎に挟まれた空は蒼く深く、落ちていってしまいそうだった。
     *  *  *

11月30日(Mon) AM8:15
今、学校への道を歩いている。
輪をかけて寒くなり、今日からコートを着ている。
今朝は静かだ。
珍しく璃乃と会わなかったのだ。
たまにはこんな時間が必要だと思う。
空を見上げかけたそのときだった。
「成瀬君、おはよ。」後ろから不意に声をかけられた。
「ああ、月下。おはよう。」音楽室の彼女だ。
「朝に会うの初めてだね。」
「そうだね。」
出会ってから少しくらいは仲良くなれたのか、
言葉づかいがくだけてきた。
「ねぇ。」こっちをのぞきこんでいる。質問があるようだ。
「なに?」
「いつもこの時間なの?」
「ああ、だいたいね。」
「じゃあ、今までも会ってたかもしれないね。」
彼女の顔が少し楽しそうだ。
「そうだな。」
まだ出会ってから3日ぐらいなのに、ずいぶん仲良くなったものだ。
(俺の最短記録だな...。)
「学校まで、一緒に行こ。」
「ああ、いいよ。」
少し強い冬の風が、俺のとなりを通り過ぎていった。

既に昼休みもなかば、目の前の秋斗が口を開く。
「今朝は美崎と一緒じゃなかったんだな。」
(こいつは性懲りもなく....。)
「だから..」「一緒に来てるわけじゃねぇ、って言うんだろ。」
「そうだよ。」
さすが俺の一番仲のいい顔見知り。
言うことまでわかってるとは...。
「しかも月下さんと一緒だったな。」
(何でそこまで知っているんだ?もしかして...こいつ...)
「...俺のこと毎朝見てんのか?」
「そういう趣味はない。何となく目に入るだけさ。」
そう言って窓の外を指さす。
なるほど。ここからなら登校中の生徒がまるみえだな...。
「ふーん。そういや月下のこと知ってるんだな。」
「まぁ、去年のクラスメイトだからな。」
「そうか...。」「...。」
沈黙。(こいつ何を...。)
何か思わせぶりな事を並べやがって..。
「で、なにが言いたいんだ?」
そういって秋斗の顔を見すえる。
秋斗は視線をそらせて、窓の方を見て言った。
「別に...、おもしろいからからかってるだけさ。」
こいつは...「はぁ、..かってにしてくれ。」
激しい脱力感に襲われる。
会話がとぎれたので景色を見た。
今日も窓の外は晴れている。

放課後。何となく向かった先は音楽室だった。
話がしたくなった..というのだろうか、
いや、特に意味はないのかも知れない。
璃乃を振り払うのが大変だったが..。
なんとなく..そうなんとなくだ。
外からの夕日がまぶしい。
この道を通るときはいつも...。
ピアノの音が聞こえた。
だんだん大きくなっていくにつれて、心臓が大きく不整脈を打っている。
心の中には何かをささいている奴がいる。
(ちっ、どうしたんだ。
 普通の娘と普通の会話を交わすだけなのに..。)
引き戸を開く。トクン...不整脈が止まった。
音楽室の雰囲気に懐かしいものを感じたからだろうか。
ピアノの音がやむ。月下がこっちに振り向いた。
「あっ、成瀬君。こんにちは。」
「こんにちは。いつもいるんだね。」
「もっとうまくならないといけないから。」
そう言って月下はピアノの鍵盤に手をあてる。
「今でも十分うまいのに..。」
「まだ私なんか。..今日はどうしたの?」
「いや、手持ちぶさたでさ。聞いててもいいかな?」
「恥ずかしいから、少しだけなら..。」
彼女は少しだけはにかんでいった。
「いす、借りるね。」「そこの使って。」
と言って月下はピアノの方へ向きを変える。
やっぱり顔つきが変わるんだな。
(.....。)
思わず彼女を見つめている自分に気づく。
顔を外へ向ける。と、演奏が始まった。
空気が張り詰めるが、心地の良い空間。
周りのものすべてを巻き込んで、渦のような場を作り出す。
やすらぐ...
山ほどある考え事すべてを忘れてしまいそうだった。
曲名を考えるのもばからしい。
心で感じたままに...。
曲の山場に取りかかったとき既に、
俺の意識は、遠く過去へと、深い闇へと落ちていっていた。

「...君。成瀬君起きて。風邪、ひいちゃうよ。」
(だれだ?すごく懐かしい声..まだ、俺..)
うすく開いた目の先には、長い髪の娘が..
「....雪..音?」
「えっ?」(..!ちがう!)
「あ..ごめん。また..。」
この前感じた以上の後悔に襲われる。
同じ娘に対して二度も....。
「また?」
「いや、なんでもない。ほんとにごめん。」
月下の顔には怪訝の色が見え隠れしている。
どうやら、机にもたれかかるようにして眠っていたらしい。
「...風邪。ひきますよ。」
少しゆっくりと月下は言った。
「ああ、ありがと。寝てたのか..。」
「ええ、退屈でしたか?」
口調が少しだけ戻っている。
聞こえていたのだ。さっきの名前が...。
「いや、そうじゃなくって、なんていうか..、
 すごく気持ち良かったから。ヒーリングってやつみたい。」
「そうですか。ありがとう。」
「....。」「.....。」
沈黙。そんなに長い間ではなかったのだが...。
何時間もそのままだったかのように感じた。
(俺は..どうしようもないばかだ...。)
いくら自分を責めても責め足りない。
彼女に何て言えばいい?誰でもいい、教えてほしかった。
「...どうか、しましたか?」
「いや、なんでもないんだ。...そろそろ帰るね。」
時計を見ると既に5時半を回っている。
「月下はどうするの?」
「私は..、もう少しだけ..。」
「そうか..。さよなら。」
「はい。さよなら。」少しだけ彼女の顔がぎこちない気がする..。
原因はわかっている。すべて俺が...。
頭はわかったつもりでも、俺はわかっていないんだ。
下駄箱をめざして歩き出す。
(もう暮れる寸前だな...、急ぐか。)
そう思いはしても、俺は別のことを考えているのだから、
体が急ぐはずもなかった。
放課後の学校は、不気味なほど静まり返っている。
(もう少しだけ....か。)
ピアノの音は一度もならなかった。家に着くまで...。