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12月10日(Thu) AM 11:30 私は教室の時計を見上げた。 教卓の上の方についている何の飾り気もない時計。 人はいるのだが、ほとんど音がしていない。 ただ聞こえるのは鉛筆をすべらせる音。 皆が答えを書き込む音。 今はテストの真っ最中だった。 私は、あまり嬉しくないけど、勉強は得意だった。 だから、もう全て解き終えて暇を持て余している。 シャープペンシルを机に寝かせ、解答用紙を裏返す。 そして、空を見た。 私の窓際の席からは外が良く見えた。 (今はテスト中だけど...。) それでも、雲と風ぐらいは見える。 校庭の葉のない木々を揺らす冬の風。 すべてが白く見える。 実際に色が着いているわけではないけれど、私にはそう見えた。 何もかもがしっとりとしてゆっくりと流れていく季節。 そんな風に感じることが出来るから、私は冬が好きだった。 皆の芯が削れていく音が速くなる。 また時計を見れば残り時間はもうわずかだった。 私はもう一度だけ見直しをすることにする。 数十秒後、聞き慣れたチャイムと人々の喧騒が学校を埋め尽くした。 テストがやっと終わった。 数日に渡った悪夢もこれで一段落ついたわけ。 私は身体が軽くなったのを感じる。 中学の頃はテストはそんなに嫌ではなかった。 辛いけど、昼からが休みになったから。 今でもそれは変わっていないけど、辛さが増した分だけ嫌いになった。 鞄にいそいそと教科書を詰め込む。 みるみるうちに鞄は本を吸い込み重くなっていった。 「音色、御飯食べてさ、遊びに行こ。」 後ろから声をかけられた。 振り向かなくてもそこに立っているのが誰か分かっている。 間違いなく晴花だ。 「ごめん、晴花。今日からまた、ちょっと...。」 私は振り返りながら答えた。 多分、私の顔には申し訳なさそうな色が浮かんでいる。 「えーっ、音色またピアノ漬けの日々? ちょっとぐらいさ、遊ばないと身体に毒だよ。」 「本当にごめん。でも、精一杯やりたいの。 だから...ごめんね。」 私は晴花に心から謝った。 遊びたくないわけではない。 晴花に悪いことをしていると分かっている。 でも、嘘じゃなかった。 今は集中していたい。 自分が一番願うことはそれだった。 「分かった。音色がそう言うなら、そっとしておいてあげる。 テスト明けから頑張るね、音色は。私とは違うか。じゃあね。」 「あ、うん。本当にごめんね。」 「気にしないの。バイバイ。」 「バイバイ。」 晴花が手を振って私から離れていく。 私も手を振って応えた。 でも、何か釈然としないものが心に引っかかっている。 そう感じてやまなかった。 (お弁当食べて、私も頑張らないと...。) 私は最後の教科書を鞄の隅に押し込んだ。 別の鞄からお弁当を取り出す。 赤い包みに入った可愛いお弁当箱。 中身は私が入れたものだ。 料理は好きだからそんなに辛くはない。 自分が早く起きたときだけ作ってくるものだった。 包みを外して蓋を開ける。 卵焼きに箸を差して、窓の外を見た。 先と違って校庭には何人もの生徒が見える。 サッカー部なのか遊んでいるのか、どちらかは分からない。 でも、楽しそうだった。 何もかも忘れてテスト明けを味わっている。 私はその生徒たちを横目に卵焼きを口に運ぶ。 いつも食べているものと何ら変わらない味。 (何だか私、独りぼっちみたい...。) 教室と校庭を見比べてそう思った。 友達がいないとかそんなに顕著なものではなかった。 なにかこうとても精神的な問題のような気がして....。 私は際限がつかない思いを抱いて頬杖を突いた。 (お母さんが見たら「行儀が悪いわよ」とか言うだろうな。) そう分かっていても私はそのままだった。 焦点の定まらない目で外を見ながら、 鳥の唐揚げをゆっくりと口に運んだ。 何人もの生徒の横を通り過ぎた。 廊下を進んでいる。 友達だったり、全く知らない人だったり、恋人同士のような二人だったり、 私みたく一人だったり、ただ窓の外を眺めていたり。 十人十色とは良く言ったものだと思った。 少しずつ足をずらしながら人込みをかき分けて進む。 そして、階段を登った。 無性にあの場所に行きたかった。 理由など私の方が聞きたいくらい。 強烈な衝動にかられていた。 螺旋状に近い形の階段を何度か登る。 その先には教室はなかった。 ただ殺風景な扉が一つ。 少し錆がついてもとは赤い扉が黒くなりかけている。 私は近づいてドアノブに手を掛けた。 金属特有の感覚がする。 そして、ゆっくりと手を回した。 でも、これだけでは開かない。 私は身体一杯に力を込めてドアを押す。 鉄で出来た頑丈な扉なために開けるのが少し辛い。 何とかドアを開け切るとそこにあったのは光だけ。 屋上がなくなって空と繋がっている。 そんな様子だった。 目が慣れてくると屋上がやはり存在していることに気づく。 コンクリートの灰色のざらざらした地面。 スリッパを通してその感触が伝わってきた。 空もいい天気だった。 青と白の奏でる協奏曲。 イメージから言えば少し違うが、ノクターンが聞きたくなった。 「夜、想う曲」と書いて、ノクターン。 私が凄く好きな曲だった。 私は視界を左から右に動かした。 ほとんど人はいない。 ほとんどというか、むしろ一人だけ。 ベンチに座って空を見上げる男子生徒。 私は彼に何だか良く分からない共感を覚えた。 そして、次の瞬間気づいた。 (....あれ?もしかして...。) そして、予想は確信へと変わった。 やはりそこに座っていたのは彼だった。 私はゆっくりと近づく。 彼が気づかないように。 幸い彼は空を仰いでいて何も感じていないようだ。 抜き足差し足で進み、ベンチのすぐ側まで来た。 そして、彼の顔に顔を近づけた。 今後ろから押されればくっついてしまうかもしれない。 それぐらい近くに。 そして、彼の顔が上を向く。 つまり、私の方向へ。 彼の目がおもっいっきり開くのが分かる。 「うわっ!」 成瀬君が凄く大きな声を上げる。 私の予想など遥かに凌駕していた。 「きゃっ!こっちがびっくりしちゃった。」 「ごめん。考え事してたから。」 私はからだを少し引いてくすっと笑う。 彼が考えていたことというのが凄く知りたかった。 もしかしたら「ユキネさん」のことかと思ったから。 「ふふ、そうみたいだった。 私がここへきても全然気づかないんだもん。..ここ、座っていい?」 私は指で成瀬君の隣を指し示す。 自分でも「大胆なことをしたな」と思った。 でも彼はそんなことは特に気にしていないようだった。 それが少し嬉しいような、悲しいような。 「どうぞ。」「ありがと。...ふぅ。」 私は小さく嘆息を漏らす。 疲れたから、ではなくて、何か安心したから。 いつも張り詰めている何かが、彼の近くでは緩んでしまう。 その感覚が私はとても好きだった。 草原の風に抱かれて眠っているような心地よさがあった。 私は空を見て、その眩しさに目を閉じる。 そして、少しの間そのままだった。 「気持ちいいね...ねむっちゃいそう。」 私は何気なくそんな言葉を漏らしていた。 凄く小さな声で。 でも、何か違和感を感じて目を開けた。 みれば成瀬君の様子がおかしい。 私の方を向いて固まってしまっている。 でも、その視線は私を捉えているのに、 彼が見ているのは私ではなかった。 私の後ろ、もしくは中にある「誰か」を見ている。 私にはそれが分かっていた。 その「誰か」が誰であるのかも...。 でも、私は極力平静を保って普通を振る舞った。 きっとそうしなくても彼はそんなことには気づかなかっただろうが。 今の彼はきっとほとんど何も考えられない。 「どうかしたの?」 「いや、なんでもないよ。」 そう成瀬君は答えた。 でも、それ素振りはその逆を示している。 自分がこういう所にすぐ反応してしまうのが嫌いだった。 そのせいで、人をなかなか好きになれなかったのだ。 「そっか、あーあ、私もここ、もっと来ればよかったなぁ。」 私は天に向かって手を伸ばす。 背中など体中の筋肉が緩んでいくようでとても気持ちがいい。 「そうだな..。月下、お昼は?」 「もう食べちゃった。...あれ?」 成瀬君の質問に簡潔に答える。 それと同時に視線を戻した。 何気なく目を向けた先。 そこにはあまり見慣れないものがあった。 「どうしたの?」 彼が不思議そうに私の顔を見ている。 私の様子に気づいて。 「それ...。」 私はゆっくりと指を伸ばしてそのものを示した。 彼の右手首に巻きついている銀色のもの。 さっきは陽射しを反射して光っていた。 それに私が気づいたのだ。 「ああ、溶接しちゃって。 荒っぽいことしても、そうそう外せないんだ。」 彼はその腕輪を触りながら軽く微笑む。 いつもとは少し違う切なさを含んだほほ笑み。 「へぇ、何か言われたりとかしないの?先生とかに。」 「まぁないこともないけど..小さいし、外したくないんだ。」 「なにか理由でもあるの?」 私は自分でも分かっていた。 こんな遠回しな言い方に意味はない、と。 直接尋ねたりはしていないけど、彼はきっと気づいた。 私がとても知りたがっていることに。 「うん..まぁね。」 でも、成瀬君は何も言わなかった。 何もしなかった。 ずっと同じように腕輪を触っているだけ。 表情にもほとんど変化は見られない。 私にはこれ以上詮索することはできなかった。 「そっか..ねぇ、これからどうするの?」 「えっ、これからって?」 彼がこっちを向く。 腕輪から手を放して。 「今からまた音楽室でつき合ってくれる?」 自分が言っていることがすごく恥ずかしいことに気づいて、 少しだけ顔を俯ける。 (私が..こんなことを簡単に言うなんて...。) 自分が一番びっくりしていたが、その仕草に彼は気づかなかったようだ。 でも、成瀬君が気づかなかったのはきっと別の理由がある。 今の彼は心ここにあらず、といった感じだから。 「ああ、そういうことか。今日はクラブに行こうかなと思って。ごめん。」 「あやまらないで。...そっか。」 私はすごく残念だったが、極力その素振りを見せたくなかった。 自分で気持ちを告げる前に相手に気づかれるなんて絶対嫌だった。 (こんな行動をとっておいて今更って感じもするけど...。) 私は視線を彼に戻す。 そこには成瀬君の目があった。 ピッタリと、寸分のズレもなく視線が重なる。 数秒が、いや数瞬が、何万時間にも感じられる。 今がずっと今であって欲しいと思った。 でも、そんなことはなかった。 時間が経てば気持ちも変わる。 私は急に恥ずかしくなって目を背けてしまった。 きっと成瀬君も同じようにしていると思う。 自分の鼓動がすごく速い。 こんなに大きかったら成瀬君に聞こえる、と本気で思うほどに。 だから、私は動いてしまった。 本当ならずっとこうしていたいのに、 そうはできない素直になれない人間。 それが私だった。 私はすっと立ち上がる。 空がほんの少しだけ近くなる。 鼓動がちょっと落ち着いたので後ろに向いた。 彼がこっちを恥ずかしそうに見上げている。 「じ、じゃあ私行くね。」 やっぱりまだダメなのか少しだけ舌をかんでしまった。 「ああ、また明日。」 「うん、バイバイ。」 私が振る手に彼が優しく答える。 ゆっくりと後ずさりをしてそして、後ろを向いた。 さっき入ってきた扉はまだひらいたままだった。 振り返らずにその場所へと進んでいく。 風が私の前から吹いている。 自分に素直に慣れない私の後悔を和らげてくれるみたいに。 その透明な空気に身を任せた。 青い白い見えない風が優しく私を包む。 足の裏の感覚さえもなくなりそうだ。 ゆっくりと近づいてくるドア。 そのドアの横を通り抜ける。 私をすり抜けていった先の風たちのように。 そして、後ろ手でドアをゆっくりと、閉めた。 音楽室は開いてはいなかった。 (当たり前か...私以外誰も使わないもの...。) 私は自嘲気味に笑う。 小さな息づかいだけが冷たい廊下に反射して返ってくる。 このあたりには今、自分しかいない。 そんな状況を間接的に証明していた。 (当てつけみたい。) そんな風に感じた。 結局最後は独りになる私の運命への。 あるいは、ただ単に今の自分の状況に対する。 どちらにしても、気分のいいものではなかった。 (誰がそう言ったわけじゃないのに...ね。) そんなことを考えてもう一度自嘲。 結果として自分を苦しめているだけだった。 こんなことを考えても何も始まらない。 人にそうだと確かめたわけでもない。 自分の推測で自分を苦しめる自分が滑稽でならなかった。 鍵を取り出して鍵穴に差し込む。 途中で少し詰まるがいつものことだった。 強引に押し込んで回す。 ガキッ、という何とも鈍い音がしてドアが開く。 何もかもいつも通りだった。 部屋に歩みを進める。 薄暗い空間が広がっていてその真ん中にある黒いピアノ。 私はカーテンを開くために窓際に行った。 端を掴んで引っ張る。 淀みなく滑り光のカーテンが開いていく。 一枚開けただけなのに部屋は既にかなり明るかった。 私は気持ちがよくなって次々とカーテンを開けていく。 それにつられて光が部屋いっぱいに満ちていく。 開け終わる頃には、暖かな白い明るい空間が出来上がっていた。 私だけの優しい空間。 その中でピアノに腰をおろした。 座りなれた生地の感覚がする。 ポケットから取り出した簡単な鍵をピアノに入れる。 先のようなことはなく簡単に開いた。 腕に力を入れて重い漆黒のふたを持ち上げていく。 中にあった赤いシートも外すと、そこにあったのは 数十本の白と黒の鍵盤。 幾度となく触れ合ってきた木の棒だった。 その中の一本に優しく手を触れる。 冷たさと当時に何かしらの暖かさを感じて少し口元が緩んだ。 そのまま下へと押し下げる。 小さい「ミ」の音が鳴った。 そして、次々と鍵盤の音を鳴らしていく。 全ての音に異常がないか確かめるため、 と同時に私の気分を高めるためだった。 段々とテンションが上がってきた。 私は深呼吸をして鍵盤を見詰める。 ピアノを弾く前には絶対にすることにしていた。 おざなりには弾きたくなかった。 指を最初の音に付ける。 少しばかり暖まった指に染み渡る白い鍵盤の感触。 そして、弾き始めた。 いつもと同じような感覚の中に少しの切なさを感じる。 ピアノを弾いているといつもそうだ。 自分の本当の感情に気づくのは絶対にこの時間。 私がこの黒い楽器に心を委ねているこの時だった。 今は、今だけは繕った自分ではなくて真実の自分が出てこられるから。 誰かを傷つける、自分が傷つく心配がまったくないから。 だから、自分の思っていることが素直に出てくる。 今私が音を紡いでいるのは夜想曲。 私の一番好きなノクターン。 少しずつ曲が身体に染み込んでくる。 私との境界線が薄れていく。 意識が遠のいていく。 厳密に言えば意識が消えるといったことはないけど、 自分の意志でこの指は動いているのではなかった。 既に私の管理下を離れている。 この指は自分の意志で鍵盤を叩いて、ノクターンを紡いでいるのだ。 それらが演奏をやめることはなかった。 少なくともあと数分は。 完全に身を任せた私はそれに従い、 私もまたそれを切望していた。 気がつけば日は紅くなっていた。 これがおそらく誇張のない的確な表現だと思う。 自分が弾いた曲数が何曲だか定かではない。 心身ともに疲れ切っている。 今の私はぼーっとしていて視点が定まらない。 何をするでもなく窓の外を見ていた。 木々が風に揺られてささやかな音を立てている。 それに合わせて校庭の影も揺れていた。 クラブも終わり始めているようだ。 やっとのことで私は意識がはっきりしてくるのを感じる。 手にも感覚が戻り視界が明るくなっていく。 見れば音楽室の床も窓の形に紅く切り取られ、 そこだけ別の場所のように輝いていた。 ピアノも低い夕日に応えて赤紫の光沢を出している。 こんなときのピアノは決まって良い音がする。 でも、私にはもうそんな気力はなかった。 お昼過ぎからずっと弾き続けてきた。 自分でも驚くほどに、一心不乱で。 「ふぅ...。」 意味の取りにくい嘆息を漏らす。 それに答えてくれるものもいない。 意味を聞いてくれる隣人もいない。 私はピアノの上から赤いシートを取った。 少し高級そうな厚手のシート。 それをゆっくりと丁寧に鍵盤にかける。 赤ん坊に布団をかけてやるように。 そして、黒い蓋を閉めた。 赤かった布が光を失いながら黒くなっていく。 完全に閉めると鍵盤もシートも当たり前だが見えない。 そして、銀色に輝く鍵穴に鍵を差し込んだ。 カチッ、という音がして蓋は開かなくなる。 蓋が開かないことを確認してから立ち上がった。 その瞬間、視界が大きく揺れる。 頭が割れるように痛い。 目の前は既に真っ暗だ。 そしてやっと私は立ちくらみを起こしていることに気づいた。 足に力を入れて倒れないように頑張る。 目を閉じて手を額に当てていると良くなってきた。 視界が中心から明るくなっていく。 揺れが収まり、痛みも多少は引いていく。 (ちょっと疲れたかな...。) 自分を馬鹿にするように少しだけ笑う。 その頃には立ちくらみは収まっていた。 私はカーテンを閉めるために窓際に移動する。 そこから見えたのは、テニスコート。 何人かの生徒が試合らしきものをしている。 その中に見覚えのある姿を見つけた。 (あれ?成瀬君...だよね。相手は....水沢君か...。) 私はそれに気づくとすぐにカーテンを閉めた。 教室中を走り回ってカーテンを閉める。 数十秒後には来たときと全く同じ部屋になっていた。 「よし。これで完璧。」 独り言を言ってみたりもする。 今度は返事がないのが妙に良かったりした。 人間の気分なんてあてにならないなぁ、と思った。 音楽室から出て、カギを閉める。 何故か淀みなく入っていった鍵をゆっくりと回した。 お昼のような鈍い音の代わりに、滑りの良い音がなる。 そして、ドアは閉まった。 後ろを向いても誰もいない。 静まり返った教室と廊下。 西日が差し込み全てが赤。 私はそんな中をわざわざ音を立てて歩いた。 スリッパの音や口ずさんだノクターン。 耳に入ってくるそんな物音全てが心地よくて、 私の脚はまた軽くなっていく。 階段を下り、下駄箱に来た。 靴を地面に投げると両方が上を向いたまま。 こんな日は何をやってもうまくいく。 今さっきから気分が急によくなっただけなのに 妙に調子がいい自分がそんなに嫌いではなかった。 靴を履いて、スリッパをしまう。 かかとまで靴にちゃんと納めると私は駆け出した。 赤く染まった夕方の外に向かって。 (遅いなぁ...もう..。) 腕に付けた時計を見る。 4時30分を少し回った所。 部室棟の前に立っていた。 少しの風が遠慮なく吹き抜けていく。 幾度となく自分の髪とスカートを押さえた。 あまり来たことがないためか全て新鮮だった。 荒っぽく使われたような部室の棟。 金属のドアは既に赤くなって、壊れているものもある。 窓はドアとその上の壁に小さいものが一つずつ。 それ以外は全てコンクリートのブロックで作られていた。 背中の感触が妙に冷たいのはきっとこのためだろう。 ドアについている窓はスリガラスで中は見えない。 (って、それは当たり前か...。 女子の部室もあるからね..。) 私が立っているのはテニス部の部室の前。 今までに何人かの部員が私の前を通っていった。 その度に視線を落とすが、凄く恥ずかしい。 知り合いでもない人からじろじろ見られるなんて凄く嫌いだった。 その度に(早く戻ってきて!)と本気で思った。 此処からはコートが大体見える。 成瀬君がコートで試合をしていた。 水沢君の球を難なく返している。 (へぇ、結構上手いんだ..。) 目を上げるとそこには演劇部の部室があった。 こっちのものよりももっと新しい新館の方の部室棟。 その二階に演劇部の部室があった。 でも、もう練習は終わっているらしくて誰の雰囲気もしない。 その隣には写真部の部室があった。 (私も運動部だったら、もっと何か違ったかなぁ?) そんな後悔にも似た感情が溢れてきた。 音楽が悪いというか、その中にいる自分が悪い。 感情を表に出さないで少し後ろにいる自分。 そんな私に満足できないでいることだった。 そんなときだった。 不意に風が通り抜ける。 考え事をしていたために気づかなかった強い風。 咄嗟に目を閉じて俯く。 髪の毛とスカートも抑えて。 風が止まってからゆっくりと目を開いた。 その先には男子生徒が見えた。 こっちに向かってくるテニスラケットを持った男子生徒。 (あ、帰ってきた。) 私はもたれていた体を起こす。 そして、そっちを向いた。 彼の表情だと私だとは気づいていないらしい。 何か微妙な顔をしている。 そして、声の届きそうな所まで彼は近寄ってきた。 「あ、おかえり。」 「何やってるの?」 彼は少し驚いたようにそう尋ねた。 私はがくっと肩が落ちる思いだった。 (こんなに寒い中で待っててあげたのに..。) 「何やってるの?はないでしょ。待っててあげたのに。」 不満なのを強調して彼に言う。 彼はそれに気づいてか少し急いだように答えた。 「あ、ごめん。すぐ着替えるから、ちょっと待ってて。」 「うん。急がなくてもいいからね。」 成瀬君がドアを開いて中に入っていく。 少しばかりドアは開きにくそうだ。 中からちょっとだけ音が聞こえる。 きっと急いで着替えているのだろう。 その様子を想像すると少しだけ笑いが込み上げてきた。 そんな間もなく彼が出てくる。 いつもと同じ紺色のブレザー姿で。 「はやいね。」 「待たせるわけにはいかないからね。」 成瀬君は少し笑って言う。 「そっか..じゃ、行こっか。」 「ああ。」 帰り道を二人で歩いていた。 何となく歩幅まで一緒になった気がする。 そんな些細なことが妙に嬉しかった。 私はさっき見ていたことを言うことにした。 「成瀬君ってさ、テニス上手いんだね。」 私は顔を上げて彼を見る。 成瀬君も私の方を向いた。 「見てたのか。」 「うん。水沢君に勝ってたね。」 「あいつには負けたことがないんだよな。」 「そうなんだ。ちょっとだけかっこよかったよ。」 「はは、ありがと。」 また風が吹いた。 少し強い乾いた北風。 私は目を閉じたけど、彼はその先を見ていた。 風が走っていったその空の先。 私もその視線に自分のそれを重ねる。 私の視線が捉えたものは輝きを発し始めた星々だった。 |