
突然、遠くから人の気配がした。
二人はハッと跳ね起きる。
「キャアァ!アルカ!」
キアラナイの方から、アルカより少し年上らしき女が、走ってくる。
「汚らわしい!!!アルカ、こっちにいらっしゃい!」
足元の石を振り上げタトの方に怒りのまなざしを向けているのが分かる。このまま逃げては、アルカが心配だと思い、震える肩を抱き寄せた。
「タト、逃げて…。逃げて!!殺されちゃうわ」
女が笛を吹いた。
「やめて、ルアーナ!この人は、なにも…!逃げて、タト!逃げて!!」
「アルカの大切な日に!こっちにいらっしゃい、アルカ!」
「私は大丈夫だから、お願い…お願い!!」
慌てて湖から上がり、ルアーナと呼ばれた女とタトの間にアルカは立ちはだかろうとする。
「アルカ…すぐに、会いにくるから……」
ここにいてはダメだ、と思った。アルカの立場が悪くなるだけだ。
兵を呼ぶ笛の音を背中に聞きながら、穴をくぐり、家へと急いだ。
「今日、大聖堂へ行く『エルの花嫁』が、キアラナイを発つそうね」
「移動されるところを、一目見に行こうかしら。大聖堂に着いてしまったら、もう見かけることなんてできないんですものね」
「花嫁として、一生大聖堂の中でエルと語り合うなんて、スゥサイ・エルの中でも名誉なことだ。そんな人を、見てみたいものだな」
(アルカ…アルカが今日…)
大聖堂に行ってしまえば、選ばれたスゥサイ・エルは、二度と表に出ることはない。
(そんなことを、あの子は望んでいない…!)
偉大なスゥサイ・エルを一目見ようという人の流れと逆流し、小道を抜け、転がり込むように家に走りこんだ。
「親父!俺は今から旅に出る!!」
無我夢中で叫んだ。
その瞬間、頭に衝撃が走り、目の前にいた父親に顎を殴られたことが分かったのは背中を壁に打ち付けた後だった。
「まだそんなことを言っているのかおまえは。おまえのような若造には早い」
大きな父だった。
威圧感が、違う。
そこに立っているだけで、口を、胸座を押さえつけられてしまったかのように、身動きが取れなくなる。
(口が、きけない…)
アルカのやさしい指先が、髪をなでてくれている気がした。
(……ダメだ…!)
震えながらも、慰めようと髪に触れてくれた指先。
「き…今日じゃなくちゃ、いけないんだ…。今日、旅立たなくちゃ、意味がないんだ!」
「まだ言うか、おまえは!」
父の怒号に驚いて、家の奥から母が出てきた。
「親父だって、母さんを連れて、旅に出たんだろう!今日が、今日が俺にとって、その時なんだ。逃しちゃいけない日なんだ!」
母はちょっと目を丸くして、父を仰ぎ見る。泣き出してしまいそうな瞳だ。
「…訳を言ってみろ……」
振り上げていた大きな拳を下ろした。
「大切な人が、この町から連れて出たい人が、いるんだ。今日でなくては間に合わない、大切な人が」
口に出して、自分でもこの決意の固さに驚いた。
ここに戻ってこられないことになっても、こんなに突然、まだ会ってどれほども経っていないアルカと一緒に、旅に出たい。
二人で神々の祝福を肌で感じたい、感じさせてあげたい。
もう一度、あのやさしい指先に触れたい。
「外の世界」の話を、目を輝かせて聞き入っていたアルカを、ひとつの建物に閉じ込めて、一生そのままで過ごさせたくはない。
連れて出たい。
「今日…今すぐに……」
「……そうか………」
父はタトに背を向け、棚の奥に手を伸ばした。
「タト…」
「な…なんだよ…」
「おまえのような反抗的なヤツは、勘当だ。どこへなりとも行くがいい」
棚から、長剣と大きな袋を取り出し、タトに投げつける。
「親父…これ」
「自分の行いには、責任を持てよ」
いつでも旅に出られるように、父は用意をしていてくれたのだ。
保存食と金、外套、旅に必要な様々なものを、足りないことがないように、重過ぎないように、自分の旅の経験を生かし、いつでも息子が旅に出られるように準備していたのだ。
真新しい剣の輝きに、胸が詰まった。
「…分かった。じゃあ」
剣を手に取り、袋を背負って走り出した。
母が、涙を浮かべながらも、微笑んで背中を見守ってくれているのが分かった。
その微笑に押されるように、アルカのやさしい指先に導かれるように、アルカの通る道に向かって走って行く。


