「慕 恋」

第二話
(7)



逢い引きの後、私はあわただしくシャワーを浴びて着替えをし部屋を出た。
彼は駐車場まで送って来てくれた。夏だというのに外の空気が涼しい。
時計は12時を廻っていた。
 大ホテルの駐車場でもあり人目を気にせずにはいられない。私と彼は友人同士のような少し素っ気ない別れの挨拶…を交わした。
車をスタートさせルームミラーで見送る彼の姿を一瞥しアクセルを踏み込む。
彼の姿が木々の陰に消えたその瞬間に自分が女から妻へ戻って行く。

すでに家中の灯りは消え、皆寝静まっていた。もう一度シャワーを浴びる。
浴びなければ怪しまれるという意識を持った自分が存在し始めたのだ。
罪悪感。それはまだ波のように身体の中を行ったり来たりする快感の余韻が完全に打ち消して行った。
これまで漠然としていた性への衝動と快感に対する答えがここにはある。
夫のSEXとの比較。満足度の大小の差ではなく「質」が違っていた。
風呂を出て二階の部屋に戻る。左の夫の部屋をそっと覗く。起きていれば軽く挨拶をす るのが普通の自分ということになるが、すでに部屋は真っ暗だった。帰宅時間が遅くなっても年に何度しかない旧友との飲み会としては限度は越えていない。
部屋に入るなり子供の様子を伺いながら、彼宛のメールを送る。「無事だったよ・・」
心地よい疲れが自分を夢の中に導く。
不思議なほど罪悪感は無かった。むしろもっと一緒にいたかった。話もしたかったという彼への思いがある。そして妻と母という役目に戻っていく自分をもう一人の自分が眺めている事に気が付いた。この時から自分の中に明確にもう一人の自分が存在し始めた。
翌日から自分の中に少しずつ変化が現れた。
彼という存在が壁の向こう側から自分の側に形となって現れ、実態として認識出来るようになったのだ。それは様々な形で私の生活に変化をもたらした。
姑に対してはっきりと言葉で意見を言えるようになった
。 これまで行き違いがあっても嫁という立場を自分自身に言い含め我慢していた事が多かった。しかし、我慢をしなくなって来た。それは違うと言えるのだ。これまでの不満を爆発させたのではない。静かに主張することが出来るのだ。それは夫に対しても同様の変化だった。何を訴えても「じゃどうする?」といった解答しか帰って来ない夫には逆に哀れみを持って接することが出来た。そうかそれだけしか言えない人だったのかと早々にあきらめる。皆も私がどこか変わったことに気がついているようだった。
しかしその理由は単純に「慣れてきたから」というものでしかなかった筈である。
私にとって全ては前向きに、良い方向へと向かうばかりのような気がしていた。
彼がいるから頑張れる。それが夫にも大きい気持ちで接することとなり夫婦間も見た目には改善されたように写っている筈だった。

 それは五月晴れの日曜のことだった。
私は前日から風邪気味で頭が痛く、我慢できずに風邪薬を飲んだ。
階下では昼時の忙しいざわめきが聞こえる。
このお昼前の一時が彼との交信の時間だった。早速いつものように彼のホームぺージを開き、掲示板へ。
前日誰か訪問者があったかどうかのチェックをする。誰もいない・・開設して特に何もないホームページ。ただの掲示板、でもこれが私たちのライフラインだった。
 いつもの通りに仕事のこと、身体のことへの思いやり。最後に次はいつ逢えるかの相談・・そして前回の逢瀬から変化し続ける気持ちとその行く末・・私たちは将来、お互い離婚してからのことまで話すようになっていた。
その書き込みが終わって、友人とのメール交換である。当然、お互いの不倫についての話・・・それを書きながら迂闊にも薬のせいで、私は居眠りをし始めていた。
 気が付くと横に夫が座り込み、じっとパソコンの画面を見ていた。
右手はせわしなくマウスを動作し、あらゆるページを穴が開くほどの視線で読みとっていた。
何が起こったのか、最初はすぐにリアクション出来なかった。
私が起きあがり顔を見た瞬間に、夫はマウスを引きちぎれんばかりに投げ捨てた。
「何なんだ、これは?」
「何って・・」
「このホームページは何なんだ」
咄嗟の機転で説明を始めた。それは誰でも参加出来る、掲示板で相手は誰でも話せる。
幸いにネットについての知識は夫より私が上だった。
何とか掲示板の説明は納得したような夫が、友人とのメールについては執拗に問いつめて来た。 私の名前で、実在の相手に出したメール。しかもその中には夫への不満と取れる内容が書き込まれていた。
 ひととおりの説明を聞き終わり、再度掲示板への疑惑を問いかけて来た夫についに私の怒 りが爆発した。
「あなたは私を信じられないと言うの?」
気色ばんだ私の態度は夫の心を一刺しにしたようだった。一度後ろ向きになり、考えてから夫はぽつりと言った。
「信じるよ」

その言葉で言い争いは一段落した。 「そうでしょ、私は買い物以外に、習い事も禁じられ、遊ぶなんてもってのほか、この部屋から自由に出れもしない状態で、どうやって浮気が出来るの?あなたは毎週街まで飲みに行くでしょ?私は年に何回もないのよ。」
夫はその言葉を背中に受けながら自室に戻って行った。
 この瞬間から、私の心に大きな渦が巻き始めた。
罪悪感である。事実、私は彼と逢瀬を楽しんだのだ。そしてその後も彼との関わりの殆 どの事を正当化しながら平気な顔で生活していたのだ。
それが夫の小さな声で180度見方が変わってしまった。
嘘をついてしまった。
浮気をしている自分を何もしていないと言い張り、信じられないのかと問いつめる。
それに対して夫は「信じる」と言ったのだ。
この瞬間から全ての行いが自戒の源となって襲いかかってきた。子供の寝顔を見る時、食事で両親と顔を会わす時、夫と夜の行為に及ぶ時。そして彼と電話で話す時、そこに相手の妻という存在が浮かび上がるようになってきた。
 これまで全く意識していなかったことに自分で驚く。彼に対してはすぐにその事を伝えたが、この家の中のものすべてに監視されていると意識してからの緊張感は彼には分からないと思う。 夫は暫くの間パソコンの使用を辞めるように促してきた。それは「辞めてくれ」というのではなく、恨めしそうに見るその視線が自分に「嘘」を問いかけるのだ。
私は自ら、パソコンにカバーをかけ暫く使わないよう心がけた。存在そのものが疑いを湧出させるからだ。
疑われることが既に「罪」なのだ。夫はかなり衝撃を受け、見るからに憔悴していく。
笑顔はなくなりあまり自分に近づかなくなった。
 この頃から私は、彼との連絡を一時停止した。治まるまで・・・ということにして。
実際には停止ではないのだ。彼との甘い密会と平凡で幸せな家庭とを初めて天秤にかけてしまったのだ。
かけてしまった以上は、そのどちらが下がり、どちらかが浮き上がるのを“目撃”しなければならない。
今その両端は上下動を繰り返しながらやがてどちらかに軍配があがる。その選択は私がしなければならない。
その日以来自分の気持ちは固まりつつあった。一月は彼と連絡をしない。そこでまた考え直すことにしたのだ。
ところが、事件から4日後に彼から電話が入った。
「来月初めに出張で行く。逢いたい」
残り20日あまりのこの月が終わる頃の逢瀬。私は無理だと思った。危ないと思った。
ここで無理をすれば全てが駄目になるからだ。でも私は同時に、その日の外出を認めさせる代案をも脳裏に浮かばせていた。逆にここで大人しくするより、堂々と外出した方が自然なのではないか。
 常軌を逸した行動かもしれない。ただ今の気持ちは大きく二分されていった。
夫が可愛そうだと言う気持ちも生まれ初めていた。もし彼と別れることになってもここで逢わなければ決着がつけられない。彼との逢瀬を最後にする意味で、それを彼に分かって貰うためでもいいではないか。それまでの結論次第で・・。
大きな渦が、その外側に幾つもの渦を作り、複雑に回転していく。
自分がどの渦に巻き込まれ、沈んでいくのか予想も出来ない。
ただ一つだけ言えること。
自分の心の中で一番明確な事実。
彼に逢いたいという気持ち。
それだけは迷いようのない自分の本心だった。




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