「慕 恋」

第二話
(8)



彼との次回の逢瀬が近づくにつれて、私の心に不安が頭をもたげてきた。
あの日から、自分の中に確実に根ざして来た病巣のような黒いかたまり・・・
それは、同じスペースにこれまで収まっていたはずの「快楽」をこともなげに外へと追いだして、私をむしばむ「腫瘍」となって日々大きくなっていく。
夫とはその後も夜の関係は続いているが、以前と何ら感情に変化はないと思う。
ただ、何かの瞬間に私を見る夫の視線に微妙な変化が出来たような気がする。
それは「疑い」や「憎しみ」とは違う。
もっと遠くを見るような視線・・・私に対するこれまでの愛情の見返りが「私の裏切り」だったかもしれないという事実とそれに対する衝撃。無力感を伴った宙を彷徨うような視線だった。 それは罪の意識の他に、夫との約10年間の結婚生活に大きな疑問の波を起こさせた事実として自分にもうち寄せて来る。
簡単なこと、夕食で夫に差し出すお椀・・・その差し出されたお椀を受け取る夫の手と視線、そういう細かい日常の1秒1秒が結婚生活の「積み重ね」だったこと。
そしてこれからは「疑い」の時間として重ね塗り込まれていくことへの苦痛だった。
夫の脳裏から疑いは晴らせないかもしれない。
誤魔化しということ以外に方法は残っていない。
事実だから。
彼と性交渉を持ち、彼の優しさを希求し、彼と一夜を共にしたいと望み、子供を忘れつかの間であれ家庭を放棄し、結果を恐れなかった。
その時、自分は全てを忘れていた。
罪の意識は全くなかった。むしろ喜びに打ち震えていた。
この数年間その笑顔を夫に見せたことは無いと思う。
結婚が契ならば自分は契約違反をしたのだ。決め事を突き破ってしまったのだ。
夫や子供の笑顔を踏みにじる行為をしていたのだ。
しかもその予兆さえ見せずに、隠すことを前提として、その日の前から裏切りをしていた。
やってはいけないこと、世間がゆるさないこと、毎日のように「子供に」言い聞かせる母親が、一番やってはいけないことをしている。
子供の悪戯やわがままを正面切って「叱る」ことが出来ない母親になってしまった。
週末に友人達と飲み歩く夫に対して、これまで疑いを持ったことは無かった。
女遊びの出来る人だとは思わなかった。それが自分に疑いをかけられてからは、結局、夫も遊ぶのではないかという猜疑心まで生まれた。身勝手な自分が生まれていた。
いい加減な事を先にしておいて、相手まで疑ってしまう自分がそこには立っている。
 何度か、夫にすべてをうち明けてすべてを放棄して、叱りを受けて楽になりたいと思った。
ところが、憎むべきことにもう一人の自分がそこにいた。
一生は一度きり、 楽しまなくては。
苦労ばかりの妻の座にずっと耐えている自分に僅かな報酬、それが恋じゃないか。
自分だけではない、誰しも経験していることだ。
そういう想いがまだ強く残っているのも事実だった。
その日が近づくにつれ、夫があからさまに疑いを持つようになった。
友だちとは誰なのか、何処で会うのか・・云々・・質問をする。
その夫の顔を見ることにより、また心の中で白い波と黒い波が交互に打ち付ける。

  すべてここで打ち明けて、すべてを中止するのだ。結婚の誓いに戻り安楽な世界に 戻るべきだ。という白い波がまずうち寄せる。
「何を疑っているの?私をまだ信用していないんだ?」という言葉を発し、視線は夫を射るような厳しいものになっている。その時胸の中では黒い波が叩き付けられ ている。
そこには想いだけではなく、甘美なあの世界をもう一度だけ垣間見たいと いう欲望さえも渦巻いている。
その直後、夫はひるみ力を落としてぽつりと呟いた。 
「俺もその日出かけるよ。駅まで送って行くよ。」
それはいつもの夫ではなかった。優しさだけではなかった。尾行の可能性もあるのだ。
確認の意志がそこにはあった。
「うん。いいよ」 
と言った瞬間に、私の方向性は決まってしまった・・・逢うことに。
どこかに、尾行するならしてみれば?という敵対心が芽生えた。
何ということだろう。夫に嘘の上塗りをしてしかも対決心まで芽生える自分はいっ たいどこに内在されていたのか・・・。その瞬間に私は「血統」という言葉を想い 起こしてしまった。自分の母親の理解できない男関係、男遍歴。
それだけは、子供に見せたくない母親としての自画像だった。
幼い頃にわけも分からず見ていた母の所業が、その後自分にどのような心の歪み を生んだことか計り知れない。それは思春期を過ぎた頃に忘れていた記憶が「薄皮」を破り一気に突出してきた。
「あの時の母は不倫をしていたのだ。父親は知っていたのか?自分は父親の子なのか?」
これまで少女の自分には、可愛がってくれるいい叔父さんだったはずだ。
その何人かの男は毎日のように母と電話で連絡を取っていた。今思えばそれは昼間 に限られていた。その男達と父親は家で会ったことはなく友達ではなかったという事実、それに気が付いてしまった。
その時から、私の母を見る目が少し変わってきた。
鏡に向かって化粧をする母親、爪にマニュキュアを塗る母親は嫌いだった。
それは家庭を離れて仕事に行ってしまう合図であると共に、父親以外の男に逢うことへの準備だった。
私は就職してからも、化粧の臭いが嫌いだった。
今、その母親と全く同じことをしている。
年に何回かしか腕を通さない服を出して着てみる。
娘が側に来て問いかける。
「綺麗だねおかあさん。どこに来ていくの?学校?」
その言葉がすぐに服を脱がせ、箪笥にしまわせた。
この頃にはすでに私の心は固まっていた。
最後にしなくてはいけない。
これからの「事実」は作らない。これまでの「事実」は時間で塗り固められる。
自ら心の安定を求め、海原を一人彼の元へと漕ぎ出したつもりのボートは、その後ろにかけがえのない家庭と、過去の母親への辛い想い出までも引きずりながら、大きな航跡を残していた。
ここで、まだ漕ぎ出して行くにはそのロープを断ち切り一人彼の元へ向かうしかないのだ。
その行為を決意するかもしれない自分は、今は心の片隅で消え入りそうな灯火として見えなくなりそうなほど小さくなっていった。




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