「慕 恋」

第二話
(9)



ついにその日が来てしまった。
迷っている心とそれをつき動かしてしまう妖しい媚薬のような興奮。
彼は空港から直接、ホテルに向かう。
私は、主人の運転する車で繁華街まで送ってもらい「女友達が待ってる」はずの ホテルの「ロビー」に向かうのだ。
その途中で私は少し強めの「食前酒」を買った。
そして、時間を気にしながらも買い物をしなければならない。
万が一主人が、どこからか見ているかもしれない。尾行しているかもしれない。
疑われる自分がいけないのだが、どうしても卑怯なのは主人のような気分になる。
私はその他におにぎりとフルーツと缶ビールを2本買った。
考えて見れば「女友達に逢いに行く」には不釣り合いな物かもしれない。
外は真夏の昼にふさわしく“じりじり”と音がしそうなほど強烈な陽射しだった。
私は警戒してホテルには真っ直ぐ向かわなかった。
一旦大きなショッピングモールを抜けて、用事もないのに小さな路地に分け入った。
理由は夫の尾行を確認するためである。
まさかとは思うが、可能性が有る以上確認をしなければならなかった。
私は小走りになりながら、狭い路地に面した商店のショーウィンドーを覗くような
素振りをして誰か後方から着いて来ないかを確認してみた。
真夏の陽射しは陰とのコントラストを強くするばかりで、あまり遠くまでははっきり とは見えなかった。
私の到着は予定より20分ほど遅れてしまった。
まず、ホテルの外から彼に電話をして到着を報せる。その後少しロビーで何をする でもなく後方を伺ったりした。
誰も着いて来ている者はいない。それを再確認して私は彼の部屋へと向かった。

再会というべきなのだろうが、夫に発覚したかもしれないこの関係は、これで最後な のかもしれないという気持ちだった。
彼の表情にもやはりどことなく硬いものを感じた。
食前酒を飲み、会話を交わして沈黙が流れた。
彼が立ち上がり私を抱擁しようとした。
その時私はそれに従えなかったのだ。戸惑ってしまい先にシャワーを浴びたいと言っ てその場を誤魔化してしまった。
シャワーを浴びながら自分の行動と気持ちがばらばらな事に気が付いた。
こういう状態を夢見心地と言うのだろうか。
自分の中に複雑な想いが2つ3つと渦巻きながら、その流れ行く先さえ見えないよう な不安定な自分がそこには立っていた。
こんなことではいけないのだ。

でもどうしようもない現実、彼と二人だけでホテルの一室にいてシャワーを浴びてい る。あと十数分後にはまたあの腕に抱かれているのだろうか・・・。
もし、この逢瀬で彼の肉体が自分を惹きつけ、忘れられなくなるかもしれない。
それは夫への裏切りが確定してしまうことにもなるのだ。
それをすべて精算するとしたら・・・方法は一つしかない。
これを最後とすることだ。
彼との出会いで色んなことを学んだ気がする。
もう自分はそう若くはない。新たな恋愛はもう出来ないというあきらめも払拭するこ とが出来た。人を好きになり、そのために何かを犠牲にするという行動も久しぶりに 実感した。それはとても不安定で危険に満ちた蜜の味だった。でもその心地よさは忘 れられない。その快感は何にも例えようのない本能のような誘惑だった。
私はシャワーを済ませて白いふかふかのバスローブを纏った。

今、自分に名前はないのだ。裸の女が一人立っている、それだけなのだ。
ここからどこかに戻る時、私には名前と役柄が付いて来る。
それを今度は10年間ほど演じ続けるのだ。
今日の相手はこれが最後の共演者なのかもしれない。
現実という時間の流れは時として、人を知らず知らずのうちによどみに流し込みぐるぐると廻るだけで先に進めなくしてしまう。
そこから出るには自分で泳ぎ切るしかない。
何かを脱ぎ捨て身を軽くして渾身の力を込めて泳ぐしかない。
最後にしよう。
よどみから出るしかないのだ。
泳ぎ切った向こう岸に手を差し伸べてくれる人が自分にいる限り。

<了>




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