「鱗 粉」
(9)
その夜、陽子の行動を決定づける重大なことが起こった。予想していたとおり夫の勤め先の出版会社が多額の負債を抱えて事実上の倒産をした。親会社が全国展開の学習塾を経営していてそちらはこの時節に逆らって好景気だったせいで取りつぶすことはぎりぎりで避けられたようだ。しかし、業務縮小をして現在300名ほどの社員を今後2年間で100名に絞り込む話も出ていて、早い話、3人に1人しか残らない熾烈な生き残りゲームが社員間でスタートしたことに等しい。
夫は技術屋でもなく企画部門に深く携わったわけでもないので、概ね解雇通知を受けたような感じである。
こうなれば再就職の道も充分真実味のある話として噴出してくる。今更ながら夫としては実家の酒屋に転がり込む気にもならないだろう。
夫の弟が後継者として高校卒業から手伝っていては、今更の出戻りとなってしまう。
この晩、思い切って自分が働くことを夫に打ち明けた。
意外にも夫は少し笑みをたたえて同意をした。自分が苦境に立ったことを妻が支えてくれると単純に思い込んだようだった。
勤め先は友人の父親が経営するビル管理会社の経理兼雑用係と言って誤魔化した。就業時間は午後1時から午後6時頃まで・・・・と店で教えられたとおりの“筋書き”となった。しかも会社の連絡先をメモで渡した時に夫はそれを一瞥すると無造作にサイドボードの引き出しに仕舞った。それは連絡先を持ち歩く気がないと言うことだった。朝8時には家を出て、深夜10時を過ぎてしか帰宅しない夫にすれば、陽子が働くというその時間帯はあまり意味のない時間帯だったのか?これまで陽子が家にいて何某か家事めいたことをしていた一切の時間は、夫の一日の中ではただの何も感じない空白の時間でしかなかったのだろうか。今更ながら夫婦の間を流れていた時間の希薄さに愕然としてしまった。
この一件以来、陽子には一つの心境の変化が現れた。というのは朝夫を送り出して、その人が帰宅してくるまで掃除や料理を作ること、或いは子供の世話をしていること、それが唯一自分の時間の使い方だと思い込んでいたのだ。
ところが、夫が帰宅した時に、掃除や料理や育児はこの自分自身がやったという「証拠」はどこにも無いと言うことなのだ。
逆に言えば掃除は手抜き、子供は保育園に預け、料理は出来合いのものを買って来て盛りつける・・・そのようにして生まれた新たな時間に自分が何をしようが、夫には分からないという事実だ。これまでそのような角度で自分の生活を振り返ることは無かった。全ての基準、中心はこの家の中にあり、ここから訳もなく離れることなどあり得ないことだった。
心はこの家庭から離れたわけではない。むしろここを離れて働くことによって、家庭を守ろうとしているのに実感はそうではない。新しい環境や街の臭いがどうしても心を落ち着かなくさせる。しかもそれは事前に予想していたような危険な臭いがぷんぷんしているものではなかった。でも、明日からいよいよその見せかけは“安全”そうな穴蔵に潜り込まなければならない。ひとつ間違えば死すらも可能性はあるのかもしれない。それが自分の最愛の息子のためだといくら言い聞かせても、なにかやましい、後ろ暗い、犯罪に手を染めるような感触なのだ。)
−続く−(近々後編UP予定)
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