ある日の多聞丸

 ここは太平洋のど真ん中。西進する第二機動部隊所属の空母飛龍は速力を上げ、風上に
船を向けていた。
 緊張した面持ちの97式艦攻が飛行甲板にゆっくりと姿を現してくる。
 よし。
 彼女は両手を広げ、ぷくっと頬を膨らませるとゆっくりと深呼吸をはじめた。
 97式は肺が痛くなるほどの空気を感じていた。
 実際、甲板の上は合成風力のため目を開けていられないほどの風だった。
 飛べる。飛ぶんだ。飛べる。大丈夫。わたしは、飛べる。
 甲板では鬼の榊と異名を取る榊整備長を含め、飛龍整備隊の面々が、黙々と彼女の発艦
作業をしていた。
 飛べる。大丈夫。
 いつものことだった。哨戒任務の97式。その発艦作業を行う本田整備員。ただ、97
式の出力を上げていくエンジン音に顔をしかめた榊整備長を除いては。
「ん? おい、本田ぁ。お前……」
 飛べる!
 とっ、とっ、とっ、とスキップするように、97式はゆっくりと足を速めていった。

 その光景は発令所からも見えていた。
「定時哨戒か?」
 第二機動部隊司令官山口多聞少将は眉間に皺を寄せ、どすの効いた声でぽつりと呟いた。
 皆、はじめは怒られていると感じるらしいその声に飛龍は微笑んだ。
「ええ多聞様。飛ぶようですわ。はじめての子のようです。とても緊張しているみたい」
「緊張か。馬車屋が哨戒に出るのに緊張もないもんだ」
 相変わらず、眉間に皺を寄せたままぴくりとも動かない。
 しかし飛龍は平然としていた。
「あの子は陸上勤務でしたもの。欠員が出てしまったのでうちに配属になった子ですわ。
空母の飛行甲板は、陸の訓練とは違います」
「ふむ。ま、なんにせよ……」
 多聞の言葉は、どぼーんという水柱の音に遮られた。
 発令所に緊張が走る。
「艦を止めます。現在減速中。左に落ちたようですわ。よかった。前だったら引き殺して
しまうところでした」
「なにをやっておるんだ! それで、艦攻は無事か?」
 甲板はにわかに色めきたっていた。榊整備長の声が発令所まで届いてくる。
「大丈夫なようです。今榊さんが引き上げ作業の準備をしています。あの方に任せておけ
ば大丈夫ですわ」
 榊、の名を聞いて、多聞はさらに眉をしかめた。
「榊、か。あの人はどうも苦手だ」
 多聞のその様子に飛龍はくすりと微笑んだ。
「榊さんは、とてもお優しい方です」
 多聞はその言葉に唇を歪める。
「ま、お前たちにとってはね……」
 多聞は榊から身を隠すように、椅子に深々と沈み込んだ。

「ばかもん! 何をやっている!」
 飛龍甲板上。飛龍攻撃隊中隊長大友大尉はずぶぬれの97式艦攻を前にどなり声を上げ
た。
「はい! 申しわけありません! 大友中尉!」
「波を読めといっただろう! もう一度陸上任務に戻るか? ここから飛んで帰るか!」
「いえ! 次からは気をつけます! 大友中尉!」
「……あと、一つだけ言っておく」
「はい!」
「私は大尉だ!」
 その言葉に、97式は言葉を失った。
「え? あれ? あの、大友、中尉、では……」
「大尉だ!」
 大友は、大声でどなりながらも何か理不尽な気恥かしさを感じていた。
 なぜ私が顔を赤らめなければならんのだ。
「え? あ、あのでも、99式も零式もあの、みんな大友中尉と……」
 徽章を見ればわかるだろう……。
 大友はため息を付いた。
「もう、大友さんでいっから」
「は、はい、もうしわけありませんでした、大友大尉!」
「まあ、何にせよ、大きな怪我がなくてよかった。今度からは気をつけろ。そっから、榊
さんには話通しとっから。水につかったんだからな、診てもらえ。んじゃ、解散……」
 大友はとぼとぼと発令所へ向かった。
「はい! 了解しました! 大友大尉!」
 大友は後を振り返らず、気の抜けた面持ちで後ろの97式に手を振った。

 結局、定時哨戒は急遽別の艦攻が行うことになった。
 格納庫に移された97式は濡れた体を整備員に水気が無くなるまでふき取られ、分解整
備を待っていた。
「きゅーなっなさん」
 急に声を掛けられて、97式は顔を上げた。
 そこには少しつり目の、小柄で愛くるしい女の子が両手を後で組んで微笑んでいた。
「零ちゃん……」
「へへ、失敗しちゃったね。でもそういうことあるよ。千島に行った時も波が高くって、
あたし甲板にいるだけで落っこちちゃうかと思ったし」
「うん。でも、千島は北の海だから。こんな波のないとこで落っこちてるわたしとは」
「ええ、でも今日は波も高かったし。しょうがないよ」
「こらあ、零、あんた慰めてんの? それとも喧嘩売りにきてんの?」
 声の主は99式艦爆だった。
「け、喧嘩なんて売りにきてないもん。なんでそんな非道いこと言うの?」
「あんたが言うと厭味に聞こえるのよ! こういう時はね、どう飛べはよかったのかとか、
そういう具体的な話をするもんよ」
「どう飛べばって言われたって。あたし、発艦に失敗したことないし」
「ああ、もう! この場でそんなこと言うのはこの口かぁ! この口かぁ!」
「ひた、ひたいひたひたい、いーたーい! 痛ったい! つねった、99がつねった、あ
たし悪くないのに99がつねったぁ! 痛いよー」
「あんたが悪い!」
 その時、大友大尉は97式の分解整備のために狂った哨戒計画の変更を機に伝えるため
に、格納庫に降りてきていた。そして、99式と零式の喧嘩の場面に運悪く居合わせた。
「? どうした?」
「あー、大友中尉ぃ、非道いんだよ、99があたしのほっぺたつねったの。あたし悪くな
いのに」
「違う! あんたが悪い! なんで中尉の後ろに隠れるのよ! さっさと出てきなさい!」
「べーっだ。99なんて嫌い!」
 俺って、中尉で定着しちまってんのかなぁ。
 大友は大きくため息を付いた。
「まあ、何が原因で喧嘩しているのかは知らないが、仲良くな」
「中尉! そんな通り一遍なこと言わないで下さい! どう考えたって零の方が悪いんだ
から!」
 中尉、と呼ばれる度に、大友の気持は深く沈んでいった。
「せめて、大友さんと……」
 そんな大友の悲痛なつぶやきは零のカン高い声にかき消されてしまった。
「ちーがーうー! あたし悪くない、99のが悪い! 中尉ぃ、つねったんだよ、先に手
ぇ出したの99なんだよ!」
 もういい。もういいよ。
 大友は逃げ道を探すように辺りを見回した。と、暗い表情でうつむいている97式が目
に入った。
「おい、97式、大丈夫か? 整備は?」
 その声に、零式と99式ははっとして言葉を失う。
「……あの、まだ」
 97式は大友と目を合わせず、それだけの言葉を口に出した。
「そうか」
 大友は探すように辺りを見回した。と、荷台に保守部品を載せた榊整備長と本田整備員
が近付いてくるのが見えた。
「よお、済まねぇ。遅くなっちまってよ。この馬鹿が光の保守部品探すのに手間取っちま
いやがって。栄に載せかえちまってもいいんだが、いかんせん、素人工作になるからなぁ。
まあ、それはおいおいやるわな」
 素人工作、という言葉は榊には似合わない言葉だった。
 彼は自前の工作機械を空母内に設置しており、「無い部品は作ってみせる」というのが
口ぐせだった。
「栄換装は、いつ迄に出来ますか?」
 大友は榊に尋ねた。
「ん? まあ3日はくれや。大一番には間に合わせる。それよりも、飛ぶのが先決だろよ。
飛ばねぇでいると気持ちが縮んじまうからよ。それに……ま、いいや」
「すみません。頼みます」
「いいってことよ。それがおれたちの仕事よ」
 頭を下げる大友に、榊は笑って答えた。
「ほれ、ちょっと通らせて貰うぜ」
 その言葉に、99式と零式は横に避けた。大友は榊に敬礼をして、仕事に戻った。
 ぬっ、と強面の榊が97式の眼前に現れたとき、97式は不安そうな面持ちだった。
「さて、嬢ちゃん見せて貰おうか。胸、出しな」
「え?」
 97式は少し戸惑いの表情を見せた。
「ほれ、早く胸ぇ、はだけな。早くしねえとこっちまで恥かしくなっちまうだろうが」
 97式は少し躊躇した後、ゆっくりとカウルを外していった。
「ふーん、ぱっと見は、悪かねえな」
 榊はそう呟きながら、チューブやスプリングなどを触ってゆく。
 97式は榊の手の感触を感じまいときつく唇を結んでいた。
「ん?」
 榊は奥の方に少し濡れている部分をみつけた。エンジンオイルだ。それを指に取ってみ
る。
「ふっ」
 97式の口から、思わず声が漏れた。
「……こいつぁ」
 榊は粘度の高いそれを中指と親指で練ってみた。彼の敏感な指先の感覚は、エンジンオ
イルのねちゃっとした感覚のほかに、ざらついた粒を感じていた。
「砂、だな」
 その言葉に、後で様子を見ていた本田整備員は反応した。
「砂ですか? でもおやっさん、ここは太平洋のど真ん中ですぜ? 砂なんか」
 榊は本田を無視して、ウエスで指先をふきとった。
「嬢ちゃん、あんたぁ、陸上勤務のときに海に落ちなかったかい?」
「あの、わたし……」
 こういうとき、榊は焦らない。相手が答えるまで、じっと待っているのだ。
「わたし、熊本で、訓練してたときに一度……」
「落ちたのか?」
 97式はこくりとうなずいた。
「あ、あの、訓練途中にエンジンの調子が悪くなって、それで、水につかっちゃって、で
も、直してもらったし、飛べたし、また海に落ちたりしたら、船に乗れなくなっちゃうっ
て、そんな風に考えてて、でも、段々苦しくなってくるし、息出来なくなってくるし、で
もそんなこと言うとみんなに迷惑かけるし、それで、誰にも言えなくて」
「ふー」
 榊は大きく息を吐き出した。
「嬢ちゃん、俺が今、何考えてるかわかるかい?」
「……ごめんなさい」
「いや、謝ることじゃねえよ。怒ってるわけでもない。ただなあ。俺は、哀しくてよ」
「……」
「整備っつー仕事はよ、嬢ちゃんたちに信じて貰えてなんぼっつーところがあってよ。嬢
ちゃんには信じてもらえなかったんだなと思うと、俺もまだまだだなとな。そんな風に、
思っちまうわけよ」
「ごめんなさい」
「いや、謝るとこじゃねえよ。ただ、具合、悪かったら言ってくれや? 絶対直してやる。
だから、な? 後生だからよ」
「ごめんなさい」
 97式は目に涙をいっぱい溜めて謝った。
「よしよし、じゃあこの話はこれで終わりだ……おい、本田ぁ、倉庫からな、光を一台分
持ってきてここに並べろ」
「ええ? 一台分っすか? ものすごい量ありますぜ?」
「ごたごた言ってんじゃねえよ。さっさと並べろ。あと若いの、3匹連れてこい。エンジ
ン降ろすぞ。あと機体の分解洗浄だ。嬢ちゃんの隅の隅まで全部洗う」
「へい」
 砂はシリンダの壁面を確実に削っていた。それは思ったよりも97式のエンジンに傷を
付けていた。
「これもかよ……」
 本田はシリンダを一本一本確かめながら、その度にぼやいていた。
「おやっさん、こりゃあエンジン丸ごと載せ換えた方が早いっすよ。きりがねえ」
「馬鹿野郎、そんなもったいないことが出来るか!」
 榊のどなり声に、本田は小さくため息をついた。
「……おやっさん、貧乏症だからなあ」
「なんか言ったか?」
 そして地獄耳だ。
 しかしその一言はさすがに口に出せなかった。
「いいぇ、何でも、ありません」
「ふん」
 エンジンおよび機体の洗浄作業は次の日の朝まで続いた。

「昨日のやつ、もう飛ぶのか? 早いな」
 山口多聞少将は発令所で飛龍の話を聞いていた。
「ええ。飛ぶみたいです。飛行試験ですって。榊さんは寝てないんじゃないかしら」
 飛龍は流れるように答えた。
「ま、奴のことだ。3日4日の徹夜ぐらい、へでもないだろう」
 多聞はさほど面白くもなさそうにいった。

 飛ぶ。
 飛行甲板はいくぶん緊張した面持ちの整備の姿で溢れていた。
 飛行試験を願い出たのは、ほかならぬ榊だった。
 エンジンのオーバーホールを一晩で行ったのだ。
 恐らくこの経験はいざというとき役に立つ。
 榊はそう考えていた。
 だが榊はそれに満足していなかった。
 本田の馬鹿がもうちっと育ってくれなけりゃ、危なっかしくてしょうがねえ。
 榊は隣でぼへーっとつったっている本田を蹴っとばした。
「いって、なんすか? おやっさん」
「お前、嬢ちゃんのならし運転はしたのか?」
「しましたよぅ。あたり前じゃないっすか」

 飛ぶ。
 97式艦攻は大きく両手を広げた。そして深呼吸をする。
 彼女は肺に、空気が満ちるのを感じていた。痛みはなかった。
 気持ちいい。
 97式はその感覚を楽しんだ。97式はエンジン出力を上げてゆく。
「ふーん。音ぁ、まあ悪かねえな」
 そう言いつつも、榊はエンジン音に微妙な違和感を感じていた。
「でしょ?」
 本田はにやっと笑った。

 飛ぶ。わたし、飛ぶんだ。
 97式はゆっくりと動き出した。
 風を受け、彼女の体はゆっくりと持ち上がってゆく。
 足に感じる重みが段々と少なくなってゆく。
 そしてふわり、と体が甲板から持ち上がる。
 飛ぶ!
 もう甲板は残っていなかった。その必要もなかった。なぜなら、彼女は確実に離陸して
いたからだ。
 と、そのときごうん、と言う音とともにエンジンが黒煙を上げた。そして彼女は体勢を
崩し、3メートルばかり降下した。
 飛ぶ!
 しかし97式は落ちついていた。急に体を引き起こさず、水面を滑るように飛び抜けて
ゆく。
 しばらくすると、エンジンは安定に動作しはじめた。
 彼女はゆっくりと、エンジンの出力を上げてゆく。
 大量の風が、彼女の肺を満たしてゆく。
 それは久しぶりの心地いい感覚だった。
 そして、十分に速度を高めると、一気に体を引き起こした。
 97式は空へ向けて飛びたった。
 すごい。わたし、飛んでる。
 97式の真上に、飛龍が小さく見えた。

「ったく、ひやひやさせやがる」
 榊は手のひらに汗を感じていた。
 空中へと舞い上がった97式はそのまま宙返りの体勢に入っていた。
「ん? 嬢ちゃん、曲芸でもやるつもりか?」
「すみません、直していただいたばかりなのに。後でよく言っておきます」
 榊の隣に、いつのまにか申し訳なさそうな顔つきの大友大尉がいた。
「ああ、いや、今日ぐらいは大目に見ましょうや。嬢ちゃん久々に飛べて嬉しいんでしょ
う」
「すいません」
 大友はやはり暗い面持ちだった。
「そうっすよ。でもおやっさん、岡の奴ら、仕事が雑ですねぇ。ま、それにしてもよかっ
たっすよ。整備不良を腕のせいにしたんじゃあ、整備の名折れですからね」
「ほう、言うようになったじゃねえか」
 榊の険呑な面持ちに本田はじりじりと後に下がった。
「あ、あの、おやっさん?」
「この馬鹿野郎! うちに来た子はどんな子も一遍は調べとけっつったろうが! それか
らあの煙は何だ!? お前、ならし運転通り一遍にやったな? あんなもんはなぁ、耳かっ
ぽじって音聴いてりゃわかるんだよ! お前の耳は穴か? この耳はただ穴が開いてるだ
けなのか!」
「痛い、痛いっす、おやっさん、痛いっすよ」
「いいか、今度こんなふざけた真似してみやがれ、すまきにして太平洋に叩っ込むぞ!」
 榊の怒声は飛龍中に響いていた。

「……使えるようだな。まあ一日でよくやったと言うべきか」
 多聞は発令所から97式の飛行を見ていた。
「でもとても気持ちよさそうですわね」
「まあいい。遊びはこれぐらいにしてもらおう。飛龍、97式を着艦させるように」
「はい。多聞様」

「飛龍より97式へ。聞こえるかしら?」
 雲の上を目指していたとき、97式は飛龍から突然の通信を受けた。
「はい。聞こえます。飛龍さま」
「どう? 空の上は?」
「気持ちいいです。今まで胸が苦しかったのに、榊さんに直していただいて、わたしすっ
きり飛べてるんです。すごく、楽しい」
「そう。私も空を飛べたらいいのだけれど」
「飛龍さまがですか?」
 97式は飛龍が空を飛んでいる姿を想像した。
「ふふっ」
「あら失礼ね。笑うことないでしょう?」
 飛龍はなじる、というよりも楽しそうにいった。
「さっき、わたし、似たような光景を見たんです。宙返りした時に。その時、飛龍さまが
真上にあって、わたしそこに帰っていくんだなあ、って思ったらなんだか不思議で」
「そう。それは私も見てみたい光景だわ。ところで97式? そろそろ帰ってらっしゃい。
あなたはいろんな人にお礼を言わなきゃならないし、それに今は作戦行動中よ」
「はい、飛龍さま。今から戻ります」
 97式は名残惜しそうに、飛龍にゆっくりと着艦した。

[了]
参考資料
ただ、97式艦攻は元々栄だったような気がするんだけど。 この子がちょっと古い型なだけなのかな。