粗大ゴミ
2002/8/19
こんな日が来るなんて考えたことも無かった。
俺は、生活感の消えうせてしまった狭いワンルームの部屋を眺めながら、
煙草にゆっくりと火をつけた。
いつも吸っているセブンスターは、ジュッという音と共に真っ白な煙を吐き出してゆく。
そして、ゆらゆらと、まるで魂のように、部屋中を漂っていった。
この煙草の火のように、火がついてじわじわと燃えていった恋。
そして、この煙草の煙のように、部屋中に広がっていって、そして消えていった存在。
「もう、わけわかんないや…」
彼女とは
3年間付き合った。3
年前、偶然参加したコンパにいた彼女。俺の目には、他の誰よりもかわいく見えた。
初めてのデートで行った映画館。
見た映画のパンフレットは、今俺が寄りかかっている本棚の一番上の段にしまってある。
何十枚と重ねた、他の映画のパンフレットと共に。
そして、初めての夜。
初体験で緊張していた俺を、やさしくつつんでくれた。
俺にとっての初めての、女。
俺の横にあるベッドで、何度も何度も体を重ねた。
布団には、俺と彼女の汗と、俺の小さな分身の死骸と、彼女の秘密の場所から溢れるものが
たくさん染み込んでいるはずだ。
悲しいはずなのに、布団を見るだけで二人の情事を思い出してしまう。
暖かくて、やわらかかった、彼女の体。
こんなときにもかかわらず、俺の息子は素直に反応していた。
そんな自分の本能が、なぜか恨めしかった。
一緒に暮らし始めたのは、付き合って
1年が過ぎた頃だった。「お金が安く済むよね?」
と、えらく合理的な考えを持った彼女らしい提案だった。
いっしょに選んだ冷蔵庫、洗濯機。
おそろいで買った茶碗、マグカップ。
二つ並んだ色違いの歯ブラシ。
俺達は、あたりまえのように一緒の時間を過ごしていった。
「結婚って、考えたことある?」
狭いキッチンで料理を作りながら、彼女がそう呟いた。
俺はなにも答えなかった。
答える必要もないと思っていたから。
まだ、自分に自信が持てなかったから。
だから、テレビの音で聞こえないふりをした。
今の俺には、家庭よりも月9のドラマのほうが大事だった。
「私たち、長く付き合いすぎたのかな?」
前に買って、俺の車で運んできたソファーにもたれながら、彼女がそう言った。
「え?どういうこと?」
俺は煙草をふかしながら、そのときゲームをしていたと思う。
RPGのラスボス前で、回復魔法を節約しながらえらく慎重に敵と戦っていた記憶がある。
「…ううん、なんでもない」
そのとき気付くべきだった。
彼女が遠くなっていっていたことに。
そして、彼女は部屋を出ていった。
俺は、この広い部屋で、たったひとりになってしまった。
たくさんの幸せと、日常と、喜びと、悲しみと、後悔をかかえたこの部屋。
ここにいるのも、今日で最後だ。
明日の朝には引っ越し業者がやってくる。
「荷物の整理をしなきゃな」
誰がいるわけでもないのに、俺はひとりそうつぶやいた。
透明なビニール袋に、いろいろなものを放り込んでいく。
映画のパンフレット、茶碗、マグカップ、歯ブラシ、布団。
ひとつひとつの思い出が、蘇っては消えていった。
「こいつは大変だな…」
俺は、ソファーとベッドに手をかけると、そこに張り紙をぺたりと貼り付けた。
「粗大ゴミ」
それらはもう、ただのゴミだった。
明日には、ゴミ収集車が来て、すべてをゴミ処理場に運んでいく。
そして、町じゅうから集まった他のゴミと同様に、火をくべて燃やしていくのだ。
それで、すべて終わり。
俺達の思い出も、すべて煙となり、灰となって消えていくのだ。
「いててっ…」
急に、煙草の煙が目に染みた。
突然の痛みに、眼から涙が零れ落ちてくる。
「あ、あれ…?」
だが、しばらくたっても涙が止まる気配は無かった。
あとからあとから、目の奥がつーんと痛んで、ぼろぼろと涙が零れ落ちていく。
そのときになってようやく気付いた。
俺は、悲しいのだと。
俺は、苦しいのだと。
たくさんの思い出がつまったこの部屋に終わりが来ることが、
たくさんの思い出がつまったこれらのものが、粗大ゴミとして捨てられることを。
だけど、もう戻ることはできない。
決して、蘇ることのない、時間。
明日、俺は新しい町に引っ越してゆく。
そして、そこでまた新しいものに出会っていくだろう。
それらのものが粗大ゴミに変わるのか、それとも、また別の何かに変わっていくのか。
それは、今の俺には分からない。
「おい、ベッド。次に生まれ変わるときには、せめて粗大ゴミにはなるなよ」
俺は精一杯の負け惜しみを、使い古されたベッドに投げつけた。
ベッドは不満げに、少しさびたスプリングをぎぃっと鳴らした。
俺にはベッドが
「だったら、俺を粗大ゴミにするような人生を送るなよ」
と言っているように聞こえた。