色眼鏡
2002/9/8

人の心を読めればいい。
それは、人が永遠に望んで
得られないものだと思う。
私は、そんなすべての人類が
望んでも手に入れられないものを持っていた。
その名は「色眼鏡」
一見普通の眼鏡のように見えるのだが、
その「色眼鏡」と通して人を見ると、
その人の「本当の姿」を見ることができる
そんな不思議な眼鏡だった。
いつ、どこで、どうやって
私が「色眼鏡」を手に入れたか覚えていない。
だけど、気が付くと、
私はいつも「色眼鏡」を身につけていた。
「色眼鏡」をつけると、
本当にいろいろなものが見えた。
たとえば私の目の前を今歩いているカップル。
普通に見ると、男性はかっこよく、
彼女も綺麗だった。
しかし、「色眼鏡」を通すと
かっこよかった男性は「性欲しかないサルの化け物」に見え、
綺麗な彼女も「自分の見栄と欲を満たすことしか考えないブタの化け物」
に見えた。
たとえば、学校の先生。
いつもきれいごとをいい、私たちを叱っていたが、
「色眼鏡」を通すと
「家庭に疲れ、やつれて老い、ただ吼えるだけの犬」に見えた。
「色眼鏡」を通してみる世界は
薄汚れていて、汚くて、
嘘や欺瞞や虚構や恨み、憎しみに満ちていて
気がつくと私は
いつのまにか、この世界に絶望していた。
幸いなことに見た目だけはきれいな両親のおかげで
私はふつうの人並みの容姿を持つことができた。
学生時代から、ラブレターを貰ったり
いいよられたりすることも何度かあった。
しかし、私の「色眼鏡」は
そんな男達の、本当の姿を映し出してくれた。
私は、彼らの申し出を、すべて拒絶した。
こんな私だから、
きっと恋はできないだろうと思っていた。
短大も卒業し、社会人となった私は
とある縁から小さな会社に勤めるようになった。
会社に入っても、私の「色眼鏡」はあいかわらず稼動し
見たくも無い他人の心の裏側を映し出していた。
「色眼鏡」のせいで他人と接することが苦手になっていた私は
そんな社会人生活にだんだん疲れるようになっていった。
そんなとき、私は彼と出会った。
彼は、私の勤める会社によくやってくる業者の人だった。
彼は、いままでであった誰よりも優しかった。
彼は、いままでであった誰よりも誠実だった。
彼は、いままでであった誰よりも清らかだった。
私の「色眼鏡」も、彼を美しく映し出してくれた。
だから、私は彼の告白に答え、付き合うことにした。
彼と過ごす日々は幸せだった。
「色眼鏡」はその役目を果たしたかのように色あせ、
私に極彩色の景色を見せてくれた。
この世界は、ほんとうにすばらしかった。
美しかった。
今までサルに見えていた人たちは健康的な人間に見え、
今まで犬に見えていた人たちはまじめな人間に見えるようになった。
彼と出会うことで、
私の見える世界は大きく変わったのだった。
だけど、そんな幸せな日々は長くは続かなかった。
「色眼鏡」が、
本来の自分のやるべきことを思い出して
再び私に「真実の姿」を映し出すようになったのだ。
最初は彼の行動だった。
他の女性と話している姿を見るだけで
彼の右腕がライオンのように変わるのが分かった。
彼に週末の予定を急な仕事でキャンセルされるたびに
彼の左腕がクマのように見えるようになった。
そして、気が付くと、
私の「色眼鏡」は、
彼の姿を耐え難い「化け物」へと
映し出すようになっていた。
彼と、すれ違いの日々が続いていった。
なにもかもが、ゆっくりと壊れていくような感覚だった。
だんだん疲れていった私は、
ある日、ずっと封印していた行動を実行することにした。
それは、「色眼鏡」で自分自身を見ることだった。
ずっと恐れていた。
なぜか怖かった。
だけど、すべてがどうでもよくなっていく中で
私はそのことに対する欲望を抑えられなくなっていた。
そして、ついに私は
鏡に映る自分の姿を
「色眼鏡」を通してみてみることにした。
鏡に映し出されたのは
私が今まで見た中で一番の……
「怪物」だった。
私は、悲鳴を上げて「色眼鏡」を投げ捨てた。
なにもかもに耐えられなくなった私は
すべてから逃げ出した。
仕事もやめた。
彼からの連絡もすべて拒絶した。
外にも出なくなった。
自分がこの世の中で一番の怪物であることを知ってしまった私は
絶望的な、怪物だけがうごめく世界に
出て行く勇気をすべて失ってしまった。
すべてのものから逃げ出した私を
唯一現実とつなぎとめていたのは電話だった。
電話であれば、醜い相手の姿を見なくてすむ。
そして、もっとも醜い自分を見せなくてすむ。
それが、私にとっては唯一の救いだったからだ。
そんなある日の夜、学生時代の友人と
ひさしぶりに電話で話をした。
彼女は、私の「色眼鏡」を通しても
さほど苦痛に見えない、数少ない人物のひとりだった。
彼女との電話の中で、
私は思い切って「色眼鏡」の話をしてみた。
「世界中の誰もがあこがれるものを、私は持っているのよ」
彼女は最初驚いていたが、
しばらく迷ったあと、こう私に言った。
「……あたしはいらないな、そんなの」
どうして?
なぜ欲しくないの?
人のことがはじめから分かっているなら
これがどんなにすばらしいことであろうか?
「あたしはね、人間って何を考えているかわからないから
一緒にいて楽しいんだと思うんだ。
それがもしはじめからなんでも分かっていたら
なんだかつまらないじゃない?」
まっすぐな性格の、彼女らしい言葉だった。
だけど、私にはそんな気持ちを持つことはできない。
私は怖いから…
だから今でも、そしてこれからも、「色眼鏡」を着けつづける。
そう私が言うと、
彼女は笑いながらこう答えた。
「人間ってさ、多かれ少なかれ
汚かったり、嫌な部分ってあると思うんだ」
「でもそれって、決して『化け物』なわけじゃなくて
そういう部分も含めて『その人』なんじゃないかなって
あたしは思うなぁ……」
私はその言葉にはっとしてしまった。
私が、ある人に近づこうとすればするほど、
私はその人のことを知っていく。
それは、いい意味も悪い意味も含めて
「知る」ことなのだ。
私はこのとき、
その事実に初めて気付いた。
彼の姿が徐々に怪物になっていったのも、
私自身が究極の怪物に見えていったのも
それは「知って」きたから……
「そりゃ、あたしだって嫌な部分はあるとは思うよ。
あんたが好きになった相手にしてもね。
だけど、そんなもんを全部含めて
『その人』そのものなんじゃないのかな?
それはもちろん、『あなた』もだよ」
「色眼鏡」をつけることで
私は相手のすべてがわかったつもりでいた。
嫌な部分が見つかると、そのことから逃げるようにしていた。
だけど…
本当に、何にも気付いていなかったのは
私のほうだったのだ。
本当に、なにも見えなくなっていたのは
私のほうだったのだ。
私は友達に感謝の言葉を残して電話を切ると
ひとつぶの大きな涙を零した。
そして…
今までかけていた「色眼鏡」を
窓の外へと思いっきり投げ捨てた。
今から、私はもう「色眼鏡」には頼らない。
私自身の目で、相手をちゃんと見るんだ。
それは、嫌な部分も、嫌いな部分も含めて
すべてを見て、そしてそれを受け入れるのだ。
私は深呼吸を一つ取ると
電話の受話器を上げてゆっくりとボタンをプッシュした。
「怪物」に見えてしまった彼に
もう一度会うために。
そして、本当の私自身の目で
彼の本当の姿を見るために……
まだ間に合うのかはわからない。
だけど、それはどうしても今の私が
「色眼鏡」を捨てた私が
最初に行わなければならないことだったのだ。
震える手、怯える心で
だけど、しっかりと、今度は自分の足で
もういちど、歩き出すために……
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