初めての飛行機、初めての海外
2001年、夏、僕が大学2年生の夏休み、海を越えた島国、フィリピンに行ってきた。きっかけは、「キリスト教概論」のS先生が持ちかけた「学校建設プログラム」というものに興味を持ち、友達のS君を誘って参加したのである。当時は、大学でバスケットの部活動をしており、ちょうど、リーグ戦と重なる事になっていたのだが、ボランティアということで先輩に許可をとり、親の反対も押し切り、なんとか実現した旅であった。パスポートをとることに始まり、ホームステイするので、向こうの家族宛てにプロフィールや手紙を書いたり、タガログ語(フィリピン語)を勉強しなかったり、行く前に4回ぐらいのミーティングをしたり、忙しかった。ただでさえ、そのときは、学校、部活、家庭教師にスタンドのバイトという状態でかなり忙しかった。そのうえ、家の母親が盲腸で入院するは、車で事故(自損)はするし、最低な状況であった。
春学期のテストも終わり、部活動の2泊3日の合宿を終えると、2日後が出発であった。その日の夜から目がさえて眠れぬ日が続く事になる。準備はしたが、2週間分の荷物と言うと、旅行カバンやナップサックなどの袋が4つ分にもなった。出発の当日に床屋に行き、髪もさっぱりしたところで、空港へS君とバスで向かった。空港では、チケットをもらい、ちょっとした買物やアメリカドルへの両替も5千円分で39ドルになった。荷物を預け、免税店の並ぶ出発ロビーで、一緒に旅をするNさん(学校の先生をしている)の買物に付き合いながら、出発の時を待っていた。ノースウエスト航空(米)で名古屋からフィリピンの首都マニラまで約4時間の機内で持ってきたMDを聴いたり、ヘッドフォンでテレビに映し出されている映画(音声は英語、字幕は中国語)を聴いたり、機内食(結構ウマイ)を食べたりしていた。時差は一時間で、日本より少し早く、現地時間では夜10時ごろマニラの空港に到着、その後、タガイタイという町のホテルで一泊、といっても眠れずに、3日3晩、寝ずに過ごした事になる。
翌日、午前はそのホテルで過ごし、朝食を少し食べただけで腹痛をおこし、早速、胃腸薬のお世話になってしまった。おかげで、その後の食生活は腹をこわさずに済んだのだが・・・。いろんな話を聞き、とりあえず、1000ペソと円の交換、これはボランティアということで、お金はいくらでも良かったので、1ペソ=約3円なので3000円と交換したが、なかには、5000円ぐらいで交換している人もいた両替ではなかったので、いくら払っても、もらえるのは1000ペソだけで、十分なお金だった。午後になり、ミナントックという小さな村に向かった。そこの小学校の改築を行うために、わざわざ、日本からやってきたのだから・・・。その小学校で、いきなり、生徒達の前で一人ずつの自己紹介をし、食事をごちそうになった。お米からいろんな料理を作ったらしく、原料は米、という料理が3品ほどあった。ジュースも新鮮で、もちろん100%、おいしかった。その後、ホストファミリーを紹介してもらって、各家々にわかれていった。
ここで気をつけなくてはならないのが、日本語はもちろん通じないので、英語、もしくは、現地語で話さなくてはならなかった。しかも、英語は小さい子には分らないので「ノー、イングリッシュ。」と言われてしまった。しかも、英語も、まともに話せないので、コミュニケーションは自分の知っている単語全てを並べるだけのダメな英語と、辞書を使っての単語を読むだけで、ジェスチャーなどはあまり使わなかったが、何とか、伝わっていたらしい。でも、言いたいことの似た意味しか言えず、伝えたくても伝えられず、正確に伝える事の難しさを知った。
ホストファミリーとは、仲良く出来、同い年の妹と、3つ年上の兄さんが出来た。妹のほうは大学を卒業(フィリピンでは、6年、4年、4年の教育制度らしい。)しており、学校のことを聞くと、「ピニッシュ。」と返ってきた。「フィニッシュ?」と聞き返しても「ピニッシュ。」と返す。これを何度か繰返した後、ピニッシュ=フィニッシュであることに気づいた。フィリピン英語とアメリカやイギリスの英語とは違い、日本の学校では、決して学ぶ事の出来ない多くの事を学んできた気がする。ホストファミリーを受ける条件として日本人一人に一部屋用意すること、というのがあったらしい。そのおかげで一部屋使わしてもらい、ベッドで眠る事が出来たのだが、彼らはソファーで寝ており、何か悪い気がしていた。彼らは、バナナを作っていて、「Dole」というフィリピン産の高原(標高500mぐらいらしいが)バナナを作っていた。食事の後には必ず、お父さんがバナナを勧めてくれた。なんと、フィリピンにも、日清のカップヌードルがあり、「ヌードル」といって食べさせてもらった。変わりに、お土産として、名古屋名物「きしめん」を日本のパスタとして紹介しておいた。
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