あの日から、1ヶ月余りがたった。

あの日、というのは男がキャベツを持って近所の家へ行った日であり、ある女性に初めて会った日。

その後、あいかわらず男は畑で一日を過ごしていた。

気候は忠実に時を刻む。

もは優しさのカケラもない烈々しい真夏の陽射しが、容赦なく男を襲う。

毎年のことではあったが、何年たっても慣れるものではない。

さすがの男もだんだんと体調を崩していった。







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或る男の話・・・                     〜その参〜

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八月の最初の日の朝、久しぶりの雨が降った。

まさに夏の雨、と称するにふさわしい雨で、どうかすると男の家の屋根を突き破らんばかりの勢いだった。

「これじゃ、畑にはいけない・・・。」

そう呟く男の表情はどこか沈んでいる。

体調がすぐれない男にとって絶好の休養日のはずだが、なぜか残念そうだ。

根っからの百姓気質らしい。

雨で家の中でボーっとしているより、夏のきつい陽射しの中、畑で土をいじっているほうが、男にとってはよかった。

朝御飯も終わり、部屋の掃除を済ませると、男にはすることがなくなってしまった。

雨の日の百姓ほど間が抜けたものはない。

じゃあ、雨が降りつづける梅雨時には何をしていたのか、というと、

これからの季節に育てる作物を選らんだり、農具の手入れをしたり、室内で苗草の世話をしたり、と、

結構やることがあったのだ。

そもそも男はしとしとと降る雨ぐらいなら、平気で畑に出ていく。

男にとって最も憂鬱なのは、こんな激しい雨だった。

所在無くラジオをつけ、何度も読んだ古びた文庫本を手にとった。 時刻は午前9:00。

もくもくと先の分かっている本を読む男。

静かな口調で語っているラジオアナウンサーの声とも相成って、

いつのまにか男は眠りの淵へと追いやられていた。

まどろみながら男が思い浮かべていたのは、

本の場景でもなく、

落ち着いた風のラジオアナウンサーの姿でもなく、

やはり、あの畑にいる自分の姿だった。







男の聴覚がある音をとらえた。

ゆっくりと目を開ける。

どうやら、知らないうちに眠り込んでしまったらしい。

そう気付いた男は、壁掛け時計に目をやる。

午前10:30。

まだなお続いている規則的な低い衝撃音に、男はあたりを見回す。

玄関に目をやった男は、ひとつの可能性に気づく。

「来客かな?」

慌てて扉へと駆け寄ると、やはり扉をノックする音だった。

普段、来訪者が少ないので、音を聞いてもすぐには気付かない。

恐縮して男が戸を開くと、そこには一人の老紳士が立っていた。

豊かな白髪、きちっとしたスーツでビジネスかばんを持っている。

まだ降り続いている雨の中、傘を片手に来たらしい。

「や、ご在宅でしたか。なかなか返答がないものですから、お留守かと思ったのですが。」

外見とは違い好々爺なその雰囲気に、男は緊張感を薄める。

「それは・・・すみません。ちょっと寝ていたもので・・・・。」

適当にごまかせばいいのに、しゃべらなくていいことまでしゃべってしまう。

申し訳なさそうに頭を下げる男に、紳士は軽く手を上げる。

「いやあ、こちらこそ突然の来訪、失礼でしたな。

 お電話さしあげようかとも考えたのですが・・・。」

いくら鈍い男でも、老紳士の言わなかった語尾の内容は想像がつく。

「すみません、現代で電話もないのは珍しいことですよね・・・。」

気を使って言わなかった言葉を自ら口にして謝る男に、紳士は苦笑して応じる。

「いや、無用の喧騒を避ける方は多いですからな。

 分かりますよ。私も仕事の都合がなければ必要ないと思っとりますから。」

そういった自分の言葉に来訪の理由を思い出したらしく、懐から一枚の名刺を出す。

「私、『福岡県農業推奨委員会』の者でして。お話があってまいりました。」

その言葉に、男は感嘆の声を上げる。

「あ、いつもお世話になっています。その・・・すごく助かってます。」

農業推奨委員会――農業をやっている者なら誰でも知っている組織で、男もこの組織を通じて自分の育てた野菜を販売している。

御礼の言葉はそのことに対してのものだ。

男に謝辞に老紳士も感謝の言をかえす。

「いやいや、こちらこそ。

 貴方の作った野菜は評判がよく、我々としてもありがたく思っております。

 実は、そのことでお話があるのですが・・・。その、だいぶ込み入った話になるかと。」

一瞬、男は老紳士の最後の言葉を理解できなかったが、今の状況を確認し、慌てて家の中へと勧める。

「狭い家ですが、どうぞ。」

照れたように老紳士は頭を掻く。

「何か催促したようできまりが悪いですな。ずうずうしくもすみません。」

そう言いながらくつを脱ぎ、中へと入る。

男がちゃぶ台を用意し、もたつきながらも湯気の立つ緑茶を出すと、

「いやぁ、かたじけない。なにぶん体が冷えておりましてな。」

と、どっしりと腰を下ろし、茶碗に手を伸ばす。

男がぽかんとその様子を眺めていると、一気にお茶を飲み干した老紳士は狼狽したように男に尋ねた。

「何か失礼なことをしましたか?だとしたら申し訳ない。

 実は他人の家を訪れる機会がそう無いもので、振舞い方が分からんのですよ。

 どうか、気を悪くせんでください。」

地に手をつき、深く頭を下げる老紳士に、今度は男が狼狽して否定する。

「いや、そんなことはないです。ただ、豪放な人だ、と思い・・・。」

決して男は皮肉を言った訳ではない。

正直に感じたことを言っただけなのだが、ますます老紳士は身を縮める。

「本当に申し訳ない・・・。普段、椅子に座ってふんぞり返っているだけではやはりダメですな。

 まことに失礼な真似を・・・。」

老紳士の言葉に、男は首をかしげながら先ほどもらった名刺に目をやる。

二秒後、男は飛び上がらんばかりに驚いた。

「こ、これは、副会長さんですか!

 こちらこそ何のお構いもしませんで、その、すみません!」

頭を地にこすりつけんばかりに下げると、

「いや、こちらこそ普段からもてはやされてるもので、ついごう慢な態度を取ってしまった。

 非礼を詫びるのはこちらのほうです。」

沈痛な面持ちで老紳士もうつむく。

男二人が互いに謝りあう奇妙な図がそのあと5分ほど続き、ようやく本題に入った。

「実は、昨今の『自然』ブームの影響か、農業を志す若者が増えましてな。

 指導者を探しておったのですが、なかなか数が集まらんのですよ。」

そう言いながら、持ってきたカバンから何枚かの資料を取り出す。

ひとつは農業希望者数と農業指導者数の割合、もうひとつは県内の農耕地分布だ、と説明し、

「ご覧のとおり、一人の指導者に八人の希望者が学ぶ割合になりましてな。

 圧倒的に指導者が足りんのです。それに農耕地も県内に広範囲に散らばっておりまして、

 ひとまとめに管理するわけにもいきませぬし・・・。」

そう言って深くため息をつく。

男としては、黙って話を聞くしかない。

老紳士は男の表情を伺いながら、話を続けた。

「それで、県内の農業従事者を訪ねておるわけです。

 しかし、高齢化が進みまして。なかなか適格な方がおらん。

 そこで相談というのが・・・」

そこで一息入れ、残りのセリフを口早に言った。

「どうか指導者として県内を回ってくださらんか?」

そう言い放つと、老紳士はじっと男を見つめる。

男の表情に変化は無かった。

ある程度予期していたから、では無い。

誰に向かっての発言か、いまいちつかめていないのだ。

ゆっくりとあたりを見回し、ボソッと呟く。

「私と貴方しかいませんね。」

「はぁ?」

まるで予想しなかった返答に、老紳士は目を丸くする。

「そりゃまぁ、そうですな。」

老紳士としてはそういうしかない。

男は老紳士に問い掛けた。

「もしかして、私に言ったんですか?」

「もしかしなくても、貴方しかいないじゃありませんか。」

当然の答えを受けて、ようやく男は老人の意志を理解した。

そのあとの男の表情はまさにリトマス紙のようだった――とは、老人の後日談である。

男が真っ青になり、

「無理です!私は口下手だし、知識もない!!

 他の人に頼んで下さい!!」

と言えば、

「いや、貴方しかおらんのだ。

 まだ三十歳と若いし、貴方の作る野菜の評判もいい!

 私も毎日食べさせてもらっておる!!」

と返す老紳士。

その言葉に、

「え・・、そ、それはありがとうございます。」

と、男は顔を赤くして照れる。

「じゃあ、その感謝の気持ちに免じ、どうか我々に力を貸してくれんか?」

と巧みに説得する老人に、

「そんな無茶苦茶な!」

と悲鳴をあげる男。

必死に懇願する老人とそれを懸命に断ろうとする中年の男。

男二人にとっては修羅場だが、はたから見ればただのコントである。

数十分の押し問答のすえ、「せめて考えるだけでも・・・。」という老人に根負けし、

「じゃあ、一週間後までに考えておきます。」

と男は約束した。

踊りださんばかりの老人の喜びように、

「考えるだけですよ!」

と言う男の表情はなんとも情けなかった。









「それじゃあ、よろしく頼みますぞ。」

そう言って老人は戸を開ける。

雨はまだ激しく降っていた。

「傘一本で、大丈夫ですか?」

そう尋ねる男に老人は笑ってうなずく。

「それじゃ、また。」

そう言って歩き出した老人は、一,二歩で足を止めた。

男は怪訝な表情で老人の後ろ姿を見つめる。

奇妙な沈黙のあと、老人はポツリと言った。

「今日は大変失礼な真似をしてしまいましたな。

 しかし・・・、私はあなたに期待しておるのです。

 勝手に期待されても困るでしょうが、検討していただきたい・・・。」

さっきの強引な話し方とは違う、しんみりとした口調に、男はうつむく。

勢いで断ろうとしていた男だが、本来は人の申し出を断るのは苦手だ。

それでしばしば損な役回りを演じてきた男だが、性格柄肩を落としている老人に真意を伝えることが出来ない。

数秒の重苦しい沈黙の後、男の返答を待たずに、老人は雨の中を歩いていった。

老人が去った後も、男はしばらく玄関でぼんやりと立ち尽くしていた。







八月二日も雨だった。

とはいっても、前日ほど激しくはない。

しとしとと降る雨で、男には十分に畑に出られるほどだった。

昨日の雨で畑の野菜がどうなったかも確めなければならない。

しかし男はぼんやりと御飯も食べずに家にいた。

ただじっと、降りしきる雨を見ていた・・・。









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