八月三日、二日続いていた雨もやみ、爽快な青空が広がった。
依然として男の気は乗っていなかった。
それでも、二日間ほうって置いた畑が気になる。
AM7:20。
男は重い腰を上げ、適当に作った弁当を片手に、畑へと向かった。
昨日は湿気で蒸し暑かったが、今日はさんさんと照りつける日射しがそのまま皮膚へと突き刺さる。
まだ百メートルほどしか歩いていなかったが、すでに男の額には汗がじっとりと浮かんでいる。
今日は真夏日となりそうだ。
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或る男の話・・・ 〜其の四〜
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二日間、かなりの大雨であったから半分ほどは水に浸かっているかも、と男は心配していたが、それは杞憂に終わった。
男が思っていたより畑の水はけは良く、窪みにわずかに水がたまっていただけであった。
男は喜びながら畑にねぎらいの言葉をかける。
一見、無意味な行動だが、このような男の殊勝な心がけが良い畑を作っているのだろう。
久しぶりに明るい気持ちになった男は、汗がふきだすのも気にせず、せっせと草取りをはじめた。
夏の雑草は伸びるのが早い。
すでにひざ下くらいまで伸びているものから、まだ小指ほどしかないものまで、
男は見落とさないように一つ一つ手でちぎっていった。
全て終わったのは、昼過ぎであった。
さすがに炎天下、しゃがみこんでの作業は体にこたえたらしく、
体を引きずるように木陰へと歩き、昼御飯をとることにした。
「ふう・・・。」
ひと息つき、水筒からお茶を汲み、一気に飲み干す。
湿気が少ないせいか、日陰はそう暑くない。
むしろ土などはひんやりとしていて気持ちいい。
刺すようだった陽射しも、木の葉を何重も透して柔らかい陽光となっている。
男は持ってきたおにぎりを取り出し、口いっぱいにほおばった。
口内にすっぱい味が広がる。
しばらく男はもぐもぐと食べ、最後に小さな楕円の固形物を出す。
梅干の種。
しばらくそれを眺め、弁当箱へと落とした。
なぜか男はそこで弁当箱の蓋を閉じてしまった。
食欲がないのだろうか?
それは男自身にもわからなかった。
ただ、消化不良のものが幾重にもなって男の内部を廻っているのは、確かであった。
人の精神と肉体はしばしばリンクする。
嫌なことがあると頭痛がしたり、うれしいことがあると自然と笑顔になったり・・・。
俗に言う【心身相関】と言うやつだ。
男もそれが原因かもしれなかったが、そうわかったところで食欲がわくわけでもなかった。
男はごろりと横になった。
まぶたを閉じると、陽光が、暗いはずの視界を白くする。
ただ、男はこうしてのんびりして居たかったのだ。
いつまでもこうして故郷で畑仕事をし、自分の野菜を食べてくれる人の笑顔を想像し、
たまに雨が降ってぼんやりと空を眺めたり・・・。
他人は男にとって緊張と気苦労の種でしかなかった。
それなのに・・・・。
『わたしは、あなたに期待しておるんですよ。』
――外界は常に男を迷わせる。
今までは、うやむやで済ませてきたことだったが、今回はそうはいかない気がしていた。
「だったら、断ればいいじゃないか。」
思わず口にした其の言葉に男は動揺し、起き上がった。
断る。
他人の意見を否定し、我を通すこと。
一番苦手だった。
自分じゃないような気がするから。
そんなことをするのは、自分じゃない!
・・・幾度となく考えたことだが、いつもここで止まる。
「どうすれば・・・・」
語尾は一陣の風に消えた。
その風は――軽やかな心地良さを含んだ声。
「こんにちは〜!」
声のほうを向くと、数十メートルほど向こうに一人の女性がニコニコと立っていた。
久しぶりの再会だった。
「元気だった?」
近づいてきた女性はそう言いながら、男の横に腰掛けた。
「うん・・・まぁ。」
あいかわらずの男の返答であったが、女性はずいぶんと親しげであった。
こうして畑で話すのは、もう5,6回になろうか。
最初は挨拶すらぎこちなかったが、回数を経るにつれ、会話らしくなってきていた。
男にしてみれば、女性の話に相槌を打てるようになっただけでも、大きな進歩である。
「明日、あの家――家を建てた家の新築祝いの打ち合わせがあってね。
その帰り。」
わずかに男は首をかしげながら尋ねた。
「建築・・アドバイザーだったっけ、そういう仕事もやるの?」
至極本質的な男の質問に、女性は苦笑しつつ、
「普通はやんないんだけどね、是非お願いしますって頼まれて。
そう言われちゃうと断れなくて。」
と説明する。
なにか自分の状況と似ている、そう感じた男はじっと女性の言葉を聞く。
「新築祝いも何かと大変で。いっぱい人を呼ぶのが慣習なんだけど、今はそうもいかないでしょ?
どうしよっかってことでちょこっともめちゃって。いろいろ義理とか、あるからねぇ。
大変だよ、うん。」
女性は一人納得して話終わると、ある物に視線を止める。
「・・・ねぇ、それ何?」
「ん?・・・あぁ、弁当箱。」
男は女性の表情に思わず吹き出す。
女性はすねたように口をとがらせて言う。
「しょうがないじゃん、もう少し早く終わってお昼食べるつもりだったんだから。
ね、余る?」
「いいよ、・・・おにぎりだけど。」
「ありがと。」
さっそく女性は蓋を開け、残っていたおにぎりを一つ口にする。
「――梅干だね。」
半分まで食べた女性がそう言う。
男はすまなそうに聞く。
「全部そうだけど・・・・嫌いかい?」
「ううん、でも、全部?なんで?」
しばし男は考え込む。
これは理由を探しているのではなく、なんといえばよいのか考えているのだ、と女性は数回の会話で分かっている。
ようやく口を開いた男の言葉に女性は少し驚いた。
「・・・朝おにぎり作って、昼まで置いておくと腐るから。
梅干は・・その、殺菌効果があるだろう?」
「よく知ってるねぇ!男の人でそれ知ってる人、意外に少ないよ。」
感激したように大げさにそう言うと、男は笑って、一人暮らしが長いから、と言った。
「そうなの?今何歳?」
女性の問いにしばし空を見上げ、男は答えた。
「30歳かな。」
「今年で?」
「うん。」
「じゃ、私と一緒だ。」
今度驚いたのは男のほうだった。
まじまじと女性を見詰める。
女性は照れたように前髪をかきあげ、
「そんなにビックリした?・・ていうか、どういう意味なの、それ?」
と、悪戯っぽい表情で男を見やる。
男は初めて会ったときのように緊張して弁解する。
「いや、だって・・・もうちょっと若いかと。
ほら、言葉遣いとか・・・・。」
その言葉に女性は軽く男をにらみ、
「若作りだって言いたいんでしょう?」
と責める。
慌てて男は口をむぐむぐさせて何か言おうとするが、声にならない。
その様子を見て女性は笑い出した。
「あ〜、おかしい。ウソよ、ウソ。そんなことでいちいち怒ってられないって。」
そう言いながら水筒に手を伸ばし、勝手にお茶を飲んでいるのはご愛嬌である。
ともあれ、ほっとして男は視線を畑へと飛ばす。
PM2:00。
陽射しはやや斜め向きになったが、一番暑い時間だ。
落ち着きを取り戻した男は、女性へと視線を戻す。
女性はなにやら楽しそうに地面を見ている。
男もひょいっと目をやると、アリの行列だった。
男がさっきおにぎりを食べた時、落とした御飯粒を一生懸命運んでいる。
女性はそれを見て微笑んでいるのだった。
「・・・何がそんなの楽しい?」
自分でも驚くほど冷たい声。
はっとしたように、女性が顔を上げる。
男とアリの行列を交互に見、いくぶん照れくさそうに、
「そっか、あなたは見慣れてるもんね、こういうの。
でも、私は久しぶり。小学校の時以来かなぁ。」
懐かしそうに過去を振り返っている女性を見て、男は再度問う。
「そんなに表情変えて、疲れない?」
「え?」
今日、初めて女性が戸惑った声を出した。
男はゆっくりと言葉をつなぐ。
「その、なんか、貴女を見てるとすごく大変そう。笑顔になったかと思えば、照れたり、怒ったり・・・。
疲れないかなって、思って。・・・そういうのって、人に合わせてるんだろう?
どうしてそこまでやるのかなぁ、って・・・・・。」
思えば、男が人にこれほどはっきり意見を述べたのは、はじめてかもしれない。
やはり、いろいろなことが男を追い詰めていたのだろう。
女性はじっと男を見つめている。
女性は男の今の状況を知らない。
それでも、男がただの好奇心でこんなことを言っているのではないことぐらい、分かっていた。
じっと考え込む女性。
じっとそれを待つ男。
傾きかけた陽光が、木々の間から二人を照らす。
風はない。
同じ空気が二人を包み、まるで時は止まったかのように動かなかった。
今、男の中で、何かが変わろうとしていた。