八月四日。うだるような暑さ。
聴覚が麻痺しそうな蝉の声。
「この夏、最高の暑さとなるでしょう・・・・」、ラジオから流れる気象情報。
時刻はAM8:00。
男はまだ、まどろみの中にいた。
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或る男の話・・・ 〜其の伍〜
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布団の中でうずくまって考えていることは、他愛もないこと。
「今日もいい天気だなぁ。」とか、
「蝉は元気だなあ。」とか、
「朝御飯食べないと。」とか・・・。
目覚まし代わりにセットしていたラジオは、気象情報からニュースへとかわっていた。
男はようやく立ち上がり、はっきりしない頭で台所へと向かう。
昨日の夕御飯の残り物を少し口にしただけで、男は朝御飯を終えた。
畑に行かなければ、と思うがなぜか立つ気になれない。
思い出すのは、昨日のことだった。
止まっていた空気を動かしたのは、女性の言葉だった。
「あなたはどうしていつも表情を変えないの?」
意表をつく女性の言葉。
「え?」
男は面食らって聞き返す。
「俺、・・・そんなに無表情?」
「うん!」
女性は口をしっかり結び、大きくうなずく。
男は困惑し、途切れ途切れに弁解する。
「どうして、といわれても・・・・、これが普通なんだし・・・。」
女性はにっこりと笑って男の言葉をさえぎった。
「でしょう?私もそう。ちょっとしたことが私にはすごくうれしかったり、すごく哀しかったりする。
だからくるくる表情が変わっているのかもしれない。私が変えてるわけじゃないよ。
勝手に変わってるの。」
明朗な返事だった。
男は沈黙する。
いろいろな考えが、浮かんでは消え、浮かんでは廻る。
女性もそれを見て、じっと男の言葉を待つ。
日は依然として強い。
二人のいる木陰の周りを明るい陽光が包んでいる。
「じゃあ・・・・。」
おもむろに男はそう言い、いくぶんためらうように聞いた。
「もし、話している相手が、あなたに「笑って欲しい」と思っていたら?
でもその時、あなたは笑いたくない気分だったら?」
男は苦しげにそう言うと、大きく息をする。
相手に期待されているけど、こたえられない時。
男が一番悩んでいることだった。
女性はポンっと答えた。
「たぶん、笑うと思う。」
あまりの即答に、男は驚いて尋ねる。
「どうして?そんな、自分がしたくないことを・・・。」
女性は視線を宙にやる。
木漏れ日をまぶしそうに眺め、男に視線を戻す。
「だって、人がうれしいと、私もうれしくなるから。
もし、私が笑うことで誰かがうれしくなってくれるなら、それがいい。
別に、他人の期待通りにするってわけじゃなく、それが私のためになるなら、私は笑うと思う。
・・・よくわかんないかな?」
照れたように頭をかく女性を、男はぽかんと眺めていた。
そんな風に考える人に、男は今まで会ったことがなかった。
まるで、別世界のようだった。
そして、知らないその世界に惹かれていくのを男は感じていた。
女性は言葉を続けた。
「あなたが何を期待されて、何をしなくちゃいけないのかは分からない。
でも、あなたはあなたがしたいようにやればいいと思う。
あなたにとって、あなたが全てなんだから。」
男は驚いた。
どうしてそこまで分かったのだろう。
まじまじと女性を見詰めると、
「分かるよ、そのくらい。あなた、正直なんだもん。」
悪戯っぽく笑うその顔を、男はやっぱりぽかんと見つめるしかなかった。
その後の男は、どこか様子がおかしかった。
女性が帰った後、早々に家に戻りうろうろと歩く。
何十分もそうしているうち、足が疲れたのか、誤って右足の小指をタンスにしたたか打ちつけた。
しかし男は動じない。
そのまま5,6歩歩き――男は飛び上がる。
ズキズキと痛む足を押えながら、「はて、なぜこんなに痛いのだろう。」と涙目で首をかしげている。
はたから見ればただの阿呆だが、男はそれどころではなかった。
必死に考え、悩み――疲れて寝た。
朝御飯を食べ、しばらくぼーっとしていた男は昨日女性がしていた話を思い出した。
『あの家で、新築祝いがあるの。』
そういえば、誘いの葉書も来ていたような気がする。
それどころではなかったから、忘れていたが・・・。
「よし、行こう!」
答えも出ていない。
畑にも行っていない。
それでも、男は行くと決心した。
そこに、なにかあるような気がした。
「俺が、一番したいこと――。」
そう呟き、思念を振り払うかのように頭を左右に振って、玄関を飛び出した。
男を待つ、その場所へと―――。