光の匂い |
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――図書館は午前十時に開く。家を出るのは遅くとも八時二十分だから、一時間半はあるか―― 裕介はぼんやりとテレビを見ながら考えていた。朝のニュース番組は芸能人の結婚を流していた。 ――んなもん、朝からしなくたっていいだろ―― そう思いながらも裕介の視線はテレビから離れず、牛乳を注ぐ手元が危うい。 「裕介!」 後ろから怒鳴られた瞬間、裕介の牛乳パックを持った右手は痙攣したのように跳ね上がり、テーブルに白濁の水たまりをつくった。 「ほら見なさい。よそ見して注ぐからでしょう!」 どちらかといえばよそ見よりも騒音の方が原因だったような気がしたが、言ったところで更なる騒音が待ち受けているだろうことは経験上予測はつく。ため息をついて裕介は立ち上がり、キッチンから台布巾を取ってきた。 「まったく、何やってんだか。――母さん、ベランダで洗濯物干してくるから、弁当忘れずに持って行きなさいよ」 早口でまくし立てる母親の言葉を聞いていないかのように、裕介は黙ってこぼれた牛乳をふき取り、朝御飯の続きを食べだした。視線は依然、幸せそうな記者会見をしている芸能人を大写しにしたテレビに向けられていた。 芸能ニュースが終わると同時に朝御飯を終え、裕介が身支度を終えたのは八時十分ごろだった。 ――少し早いけど、まぁ、いい時間か―― 出掛けに置いてあった弁当を掴んで、裕介は家を後にした。 空にはまばらに雲が残っていたが、快晴と言っていい天気だった。遮るものがない初夏の陽光は、これからじわじわと暑さを増すとしても、涼しい朝の風の中では気持ちが良く、そういえば、と裕介は妙に歯切れが良かった朝の天気予報を思い出した。「張り出した太平洋高気圧のため、日本は全国的に晴れるでしょう…九州北部では気温は二十五℃を越えて各地で夏日と……」どこまでも突き抜けてゆく青空にニュースキャスターの自信に満ちた声が重なって、裕介は危うく交差点の青信号を見過ごすところだった。 交差点を渡ると裕介はそのまままっすぐ進んでいった。やがて見えてくるコンビニに自転車を止め、店内へ入る。雑誌のコーナーに漫画週刊誌を見つけると、鞄を置いて手にとった。 ――これ一冊で一時間半はちょっと無理か―― 裕介は視線を二メートル先の単行本棚に移した。一昨日来たときにはなかった背表紙が何冊か見える。 ――大丈夫そうだ―― 裕介は視線を戻し、手にとった漫画週刊誌を一ページ目から丹念に読み始めた。 店内にはJ―popが流れていた。聴き慣れないバラードや歌とは思えないアイドルの声が漫画に没頭しようとする裕介の耳に容赦なく突っ込んでくる。だんだんとイライラしてきたが、まさか立ち読みしている分際で「音楽を止めろ」とは叫べない。大体、制服姿の裕介が登校時間の今、ここにいること自体不自然であり、下手すれば学校に連絡されてしまう。 ――そこまで関わろうとするコンビニの店員もいないだろうけど―― こみ上げてくる不快感に抗いながら、それでも裕介は一冊読み終わり、店を出た。まだ時間はたっぷり残っていたが、冗談じゃない、そう呟いて裕介は鞄を自転車のかごに放り込むと、危なっかしいハンドル操作で歩道を走り出した。雑誌を読んでいた四十分ほどの間に外は気温が少し上がったようだった。 結局他に行くあてもなく、開館三十分前に図書館についてしまった。駐輪場に自転車を止め、玄関の脇にある花壇へ裕介は腰を下ろした。鞄から一昨日借りて読みかけの小説を取り出す。玄関の庇がいい具合に陰を作ってくれる。このあたりは国道からも離れていて、たまに前の道路を通る車の走行音が聞こえる以外、騒音は何もなかった。 最初に学校をサボったとき、コンビニ、ゲームセンター、中古CD屋と回った。どこもこもった空気にがなるスピーカー。結局、落ち着いた場所は図書館だった。ただ静かに時間を潰せる場所、それだけなのに、ここしかなかった。しかもここには、裏に日本の公園にしては珍しい、木々が植えてある遊歩道がメインの自然公園がある。そこにはベンチもあり、昼に弁当を食べるのに都合が良かった。よく考えてみれば、とてもいい所なのかも知れない、そう思ってだんだんと交差点を直進してここに来ることが多くなっていった。今では右折して高校に行くときとほとんど変わらないくらい、ここに来ていた。 本に没頭していた裕介が、ふと顔を上げたのは人の気配を感じたからだった。慌てて時計を確認すると開館十分前、これまでは開いて少したってから来ていたので知らなかったが、平日だというのに5、6人の人が玄関に並んでいる。さすがに制服姿はいないが、茶髪にパーマの女子大生風もいれば、綺麗に頭をなでつけた中年のスーツ姿もいた。一番前には縁側からそのまま来たんじゃないかと思うようなじいさんが、身じろぎもせずに立って開館を待っている。裕介はしばらくその列に見とれていたが、ふと気付き、すばやく持っていた小説を鞄に戻して立ち上がった。列の二、三人が、その行為の素早さに興味を惹かれたか、ちらりと裕介の方に視線をやったが、裕介は花壇を離れ、列の後ろについた。前を覗うが、もう誰も裕介に気を払っていない。 ――「制服」がなにやってんだ? とでも思われたかな―― そう考えても、別に嫌な気はしなかった。それは当然の視線であるような気がしていた。 ドアが開いた。列になっていた人々が堰を切って走り出す、なんてことはなかった。誰もが普段、道を歩くのと同じくらいのスピードでそれぞれの行きたい場所へと向かう。裕介もその後に続いて二階の一般書架室へと入り、窓際の席に鞄を置いて自分も座った。 図書館が開く前に読んでいた本を取り出し、挟んでおいた栞でページを開く。薄い青色のカヴァーが目に付いて借りたその本は、アスファルトとコンクリートに挟まれて大きくなっていく街の物語だった。そこで育ち、不揃いな角に囲まれたいびつな空しか知らない少年が、次第に気を狂わせていく人々を深く澄んだ悲しみの音色で静めるという、ひんやりとしたぬくもりのある物語、だった。 気付けば、もう十二時を回っていた。読み終わった後、ぼんやりと座っていたからそれほど目は疲れていなかった。鞄はそのままに、弁当だけを持って一階の児童書架室へと降りた。児童書架室から公園へ直接行けるようになっているからだ。一階にはたくさんの小さな子供とその母親がいた。子供のはしゃぐ声が気にならない。 ――さっき読んだ「少年」のイメージがあるからか―― 外に出ると、気温はだいぶ高くなっていた。空は相変わらず白いまだらを浮かべながら青く存在していた。木々に囲まれた遊歩道を歩いていく。風が朝にもまして心地いい。しばらく歩くと、円形のスペースの真中に木があって、その周りにベンチが三つ四つ置いてある場所に辿り着いた。 ――ここがいい―― 身近なベンチに座り、弁当をひろげる。外で食べる飯はおいしい、と何かの本で言っていたような気がしたが、裕介には別にいつもと変わらない味に感じた。 ――飯が特別おいしいんじゃなくて、外で飯を食べる時の雰囲気がおいしく感じさせてるんだろうな―― 初めてのデートが遊園地、そこのオープンカフェでお昼御飯食べちゃった、そんな想像をしながら、裕介は低く笑った。 ――そりゃ、美味いだろうな―― ふいに、強い風が吹いた。裕介は笑うのをやめた。最初は空を、そして地面をじっと見つめた。聴覚が、何かを捉えた気がした。 木々がざわめく音―― 鳥のさえずり―― 少し離れたところにある、アヒルの噴水の水音―― 上空でジャンボジェットが飛んでいるうなり―― 生活の音――ふとんを叩く、音―― 裕介は視線を上げた。公園を囲むように植えられている少し背の高い木々の上に、白いマンションのベランダが見えた。洗濯物が風ではためき、鳥避けだろうか、きらきらと光るビニール紐がいくつもなびいて、そして、手すりにかけられた白いふとんが。もう叩いている音はしない。 周りに生えてる木々の葉の隙間から、いく筋も光が地面へと降りている。上を見上げた。光を通した葉が、淡い黄緑色となって裕介を覆っていた。 ――天使でも降ってきそうな感じだけど……現実はせいぜい毛虫ってもんか―― 思い浮かべた冗談は笑いを誘う前に消えた。全天から降り注ぐ陽光を、木々の葉が一身に受け、細かな光が葉葉の端々から漏れる、まるで光が両手の隙間からこぼれるように、光がぽたぽたと落ちてそのままこの景色に溶け込むように―― 裕介は、両手を前へ伸ばした。 ――光の降る、生活の匂い―― そこには、マンション。白い壁の立方体。生活の匂い。 裕介は上げた手を下ろした。目に入る全ての景色に、手をぐっと握り締めた。 |