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学校はその日もいつも通りだった。朝の課外に始まり、授業があって放課後の課外に終わる。みな、その日その日をただこなすように通っていた。そう、周防圭もそうだった。その日、変わったことがあったといえば、圭が五時間目の授業で使った生物実験室にノートを忘れ、放課後加害の終わった後に、取りに行ったことぐらいだった。さっさと帰る生徒、意味もなく残り、どうでもいい話を笑い声でつなぎながら過ごす生徒、そんな教室から圭はバッグを持って生物実験室に向かった。途中、廊下で圭は知り合いに声をかけられた。 「どこ行ってんだ?」 「忘れ物取りに。」 「ハハ、何やってんだよ。」 「・・・・じゃあな。」 圭は会話を一方的に打ち切って歩き出した。 圭は、いつも何も言わなかった。高校生であったから、学校で友達に話し掛けられれば、もちろんいまのように口は開いていた。しかし、それだけだった。誰が休んでいても特に詮索はしない、話し掛けられても相手をもっと知ろうとは思わない。そんな学校生活の中では、話を適当に合わせる事や相槌を打つことが多く、親しい友達は少なかった。そんな圭が珍しくクラス全員から話し掛けられたのは秋の日の夕暮れ、一人の生徒が生物実験室で首を吊って自殺した日の次の日だった。その日、忘れ物を取りに行った圭がその第一発見者となった。 その日は朝から騒がしかった。話題は無論、自殺した生徒のことだった。原因の詮索やそのときの様子など、憶測が飛び交っていた。みな、圭の登校を待ちわびていた。学校側が隠そうとしたにもかかわらず自殺者の事は生徒に知れていて、その発見者が圭だったこともまで広まっていた。そして始業の十分前、普段と変わらぬ時間に圭は教室の扉を開けた。一瞬で教室内は静まり、圭を凝視した。圭は何もいわず教室内を見回す。それが合図のように数人の男子が圭に駆け寄った。 「なぁ、お前昨日見たんだろ?」 圭は黙ったまま自分の席へと歩き出した。それに伴い数人の足と、数十の視線が移動する。 「なぁ、どうなんだよ?」 座った圭に急かすように聞いた。圭はバッグから教科書を取り出し、机の中にしまいながら答えた。 「見たよ。」 大きく教室内の空気が揺らいだ。それを機に全員が圭の机へと集まり、取り囲んで次々と口を開いた。 「ねぇ、首吊りだったんでしょ?やっぱグロかった?」 「遺書とか、そこにはなかったのかよ?」 「お前が行った時にはもう死んでたの?」 圭は何も言わずそれらの言葉を聞いていた。それを意に介する風もなく、その場は盛り上がっていく。その中で、誰かが独り言のような感嘆をもらした。 「でもさ、そんなのいきなり目の前で見たらびびるよなぁ。」 そのとき、はじめて圭が口を開いた。 「別に。今時死体なんてよく見るだろ。テレビとか、雑誌とかでさ。」 また生徒がどよめいた。 「いや、本物は違うんじゃねぇの?」 「実際見たわけじゃねぇからわかんねえよな。」 「でも、ちょっと見たいかも。」 「えー、それちょっとやばいんじゃない?」 どっと笑いが起きる。その輪の中で圭は大して表情も変えず、バッグの中の物を整理していた。中央の空白を無視するように周りの嬌声はさらに大きくなってゆく。当の目撃者はどうでもいいのだった。ただ彼らには盛り上がれる要素があれば、それでよかった。 「悪い、みんな。警察から何も言うなって言われてるから。」 周りを取巻いていた生徒は唐突に思ったか、一様に不満そうな表情を浮かべる。そのとき、始業のベルがなり、それを待っていたかのように担任が入ってきた。慌てて全員が圭の周りから散った。担任は圭の周りでなにがあっていたか察し、ホームルームできつく咎めた。その結果、それ以後圭の周りに人が集まることはなかった。ただ、他のクラスからわざわざ圭を覗きに来る輩もいて、それはどうしようもなかった。 放課後、担任が教室から出た後に級友は圭にまた話を聞こうとしたが、もうそれには答えず圭はさっさと学校を出た。ひとり、通学路を歩く圭に後ろから声をかけてきた者がいた。 「よ、今日は大変だったな。」 他の者よりは少し圭と親しい、北野誠也だった。続けて軽い口調で言った。 「わりい、お前が第一発見者だってばらしたの、俺なんだよ。」 「だろうと思ったよ。そんなこと知ってるの、新聞社の息子のお前くらいだから。」 「いや、誰かまではわかんなかったんだけど、うちの生徒だとは教えてくれたんでね。じゃ、お前しかいないだろう、と。」 「どうでもいいよ。別に。」 圭がそう言ったにもかかわらず、誠也は自分の推測があたったことを自慢したいようで、ひとしきりしゃべっていた。誠也によると、自殺が翌日には明るみになったのは報道関係者の熱心な働き振りによるところが大きかったが、その情報元は警察でも学校でもタレコミでもなく、自殺した生徒本人だったらしい。あらかじめ遺書を地元の新聞社に送っていた。その詳細な内容が公表されることはないが、学校内でのいじめが直接の原因でそれに気付かなかった教師や家族への絶望、気付きながら何もしなかったクラスメイトへの恨みが書き綴られていた、という主旨の記事を数日中には載せる予定だ、という。 「な、ここまで言ったんだ。お前の方も情報くれよ。」 「情報?」 「そう。第一発見者の生の声ってやつさ。」 圭は突然立ち止まった。不審気に誠也は圭を見遣る。その瞬間、誠也の表情は引きつった。 「――ど、どうしたんだよ圭。急に立ち止まって。」 「悪い、気分が悪くなった。先帰ってくれないか。」 誠也は一瞬いぶかしげな表情を見せたが、おびえた色が消えていなかった。 「お、おう、じゃあな。」 誠也は振り返ることなく、足早に帰っていった。圭は息をついた。作っていた表情を解く。 『・・・・誰も心底関わろうなんて、思ってない。』 いつもと同じように、圭は歩き出した。やがて線路の沿線へと出る。歩きながらいくつもの表情が圭の脳裏に浮かび上がる。勝手に楽しそうだった級友、作られた表情におびえ、その底にあるものを見ようとせずに去った誠也、そして、昨日見た死者の顔。圭はそれら全てを消した。どうでもいいことだった。特に珍しいことでもなかった。十七歳の自殺など、新聞を広げれば飽きるほど載っている。少年の凶行。小学生が親を殺す時代。昨日見たときも繰り返し同じことをしゃべるワイドショーリポーターはどこまでも空っぽに見えた。圭はそんなことを思いながら、そっと通りすがりの電柱に触れた。金属質な響きで、冷たかった。 『昨日触れた、死体もこんな感じだったかな。』 圭は頭を昨日の風景で満たす。天井から吊られて揺れる体。知らない顔は何の表情もないように見えた。触れたその体はすでに冷たかった。近寄ってみても、何の表情も読み取れなかった。 『これが、死か。』 あっけなかった。そこにある、ただそれだけのように圭には思えた。新聞や雑誌記事から想像される、あるいはテレビに映るそれと、どこも違わなかった。いや、比べればむしろ、目の前に揺れているものの方がずっと普通で、何の背景もない。普段、その位置に体があるのには慣れていない――その違和感が消えればどうということもない、と圭は思った。一瞬起こった胸の高鳴りも、いつしか消えていた。無表情な顔は、それ自身がその死の価値であるように、圭は感じた。 そばを電車が過ぎ去る轟音で、圭は我にかえった。電柱に触れたまま立ち止まっていたことに気づき、何となく圭は可笑しくなった。また歩き出しながら、思った。大人の言う死の意味は、重すぎるんじゃないか、と。 圭の家と学校との間は二kmほどだった。わりあい近いほうだが、一部の自転車通学者に比べると多少時間はかかる。圭は歩くことが嫌いではなかった。目標が決まっている道を歩くのは、ただの作業にしかすぎず、その単調さが圭は好きだった。その途中では、様々なものを目にする。朝は何ともなかった自動販売機が、夕方には下半分の金属板がはがされていたこともあった。近寄ってみると、鉄棒のようなもので砕かれ、中にあった小銭がとられている。 『全部あったとしても、数万円か。』 その労働量と採算を考えて、圭はつい笑った。しかし、思い直した。 『やった本人はそんなこと考えてはいないのだろう。したいことをやった、という、ただそれだけなのだ、おそらく。』 急速に笑いが冷めるのを圭は感じた。 また、こんなこともあった。特に車の往来が多い通りで、その横には電車も走っている、その間に安全のための鉄柵が張られている区間があるのだが、あるときそれが十数メートルにわたって、折り倒されていることがあった。圭がそこを通った時、役所の人らしい人たちが数人で話し合っていた。 「やはり若者なんでしょうねぇ。」 「まったく、言いたくはありませんが、今の若者はなに考えているのか、さっぱりですな。」 「まぁ、いろいろストレスがたまっているんでしょう。一概に頭ごなしにするわけにもいかんですよ。」 通りすがりながら、薄っぺらだと圭は思った。まるでタイプの違う大人が三人も集まって会話し、自分たちの価値観で若者を判断しようとしている姿は、なんだか憐れだった。どういう結論を求めているのだろうか、圭はそう横目で見ながら通り過ぎた。 そういう体験を重ねるうち、圭の中にだんだんと二つの世界が出来ていった。大人と、若者。まったく別の生き物のように、圭には思えていた。それを理解する大人など、おそらくいないだろうが。 電柱に触れて、もう二十分も歩いただろうか、などと圭が考えたとき、後方で踏み切りの警報がなった。 『また電車か。』 そう思ってなんとはなく圭は振り向こうとした。が、途中で目が止まった。女の子だ。圭とさほど変わらない年齢ほどの女子が草むらに佇んでいた。圭の知らない子だったが、伏せたその表情にはどこか見覚えがあった。 『あれは・・・。』 電車の轟音が迫ってくる。圭は身じろぎ一つしなかった。どこかでわかっていたのかもしれない。女の子は、さっと飛び出した。圭の瞳孔が、一瞬だけ僅かに開いた。女の子はその一瞬で圭の視界から消えた。直後、電車が派手な金切り声を上げ、ゆうに百メートルを走って止まった。圭の視界に、再び草むらが映った。女の子はいなかった。草むらのどこかに飛ばされたのだろう。まだ圭はそこに立っていた。二日続けて、圭は人の死を目の当たりにした。 前日と違い、その場には数人の通行人がいた。また電車からも運転手が、往来の車も数台が止まった。彼らは圭に目もくれず草むらに走った。やがて一人が声を上げた。 「――ダメだ。もう息がない。」 彼女の消息は、死と同時に伝えられた。それを聞き、圭は歩き出した。いつからか起こった胸の高鳴りはいつしか消えていた。圭にとって、二つ目の死は、一つ目の死の確認でしかなかった。二人が存在していたことすら危うい、あっけなさだった。また、後日動機付けが行われるのだろう。死に理由をつけることで、死が重みを持つとでも思っているのだろうか、圭は知らずにそう呟いていた。まるで彼女の死を、否定するかのように。 圭が帰宅したとき、家には母親がいた。普段は夜まで仕事だが、圭が「学校から帰ったら警察に来るように」と言われていたのでそれにあわせて早めに帰ってきた、という。 「お母さんはすぐに行ってもいいけど・・圭、どうする?」 気を使って母親がそう言い、圭は少し考えて答えた。 「すぐ行くよ。今日は長くなりそうだし。」 「そう・・・」 母親はしばらく心配そうに圭を見つめていたが、ふと気付いたように言った。 「圭、ほっぺたに何かついてるよ。」 「え?」 圭は洗面台に行き、鏡を見た。 「――!?」 圭はゆっくりと頬に手を当てた。冷たい。じわりと指先が赤く染まる。 「・・・・・血、か?」 意識した瞬間、女の子の顔が痛烈によみがえった。虚ろな表情、飛び出した瞬間、脆い人形のように跳ねた体。血のほとばしった電車のフロントガラス。引きつった誠也の顔、級友の笑い声。よみがえる記憶の全てに、血の迷彩が塗られてゆく。我を忘れ、圭は勢いよく蛇口をひねった。激しく流れ落ちる水で手をこすりあわせる。すぐに血は消え去る。 「――顔!」 洗面台に顔を突っ込み、手で顔面を拭う。何度も、何度も。水が目に入り、思わず瞼を閉じた。記憶が脳裏を赤くよぎる。思わず顔を上げ、鏡を見た。目の下にくまができ、所々赤くなってやつれた顔。 『これは・・・・僕か?』 また、瞳孔が大きくなる。その奥には、昨日見た、天井から吊られた死の顔。 「――ひぃ!?」 圭は腰から崩れ落ちた。体が震える。圭は必死に両手で体を押さえつけた。それでも足の震えは、大きく、大きく、止まらなかった。血の感触は圧倒的に圭を包み込んでいた。味わったことのない、冷たく触れた血は間違いなく死そのもので、それは自分の接しない他人事ではなかった。脈拍が乱れ、震える体を必死に押さえつけながら、圭は初めて自分と死を繋ぎ合わせ、震えていた。 |