約束

「見つからないって」
「……僕の勝ちだろ」
「わかんないじゃん。お前の、どこにあんだよ」

 あの頃は学校に寄り添うように蛇行していた道が、今では立派な二車線の道路になっていた。立ち並んだ街灯の白い光のおかげで校庭は薄ぼんやりながらも見渡せる。もう深夜だから自分の記憶とは違って感じるかもしれない――そんな心配は、ごくあっさりと消える。一〇〇メートルトラックとフェンスの狭間、押し込んだように置かれた鉄棒や砂場なんかの遊戯機械、その後ろの松や背の低い名前もわからない木々は、呆れるほど何も変わっていなかった。僕は何かを確かめるように、校庭を歩いた。
 金属のきしむ音が、辺りに響いた。門の扉を開けて誰かが入ってきていた。離れていて顔は見えないけど、赤のロングコートには見覚えがあった。こっちをうかがうような仕草の後、彼女は手をあげた。
「松永くん?」
問い掛けるような響きがあった。むこうからは誰かわからないのだろう。ここまでは街灯の光が届いていない。僕は幾分、ゆっくりと応えた。
「――瀬戸か」
その声で、立ち止まっていた人影がこちらへと近づいてくる。少し急ぎ足で。
「よく此処だってわかったな」
「ああ」
彼女は少し笑って言った。
「だって、此処ぐらいしかないでしょ。高見くんのお通夜の最中に行く場所なんて」
「まあな」
僕も苦笑交じりに答えた。
「どんな感じ?あっちの方は」
「別に、変わりないかな。この時間じゃ、弔問者もそういないし」
「そっか」
僕は鉄棒にもたれ、空を見上げた。少し雲が出ているが、わりあい星はよく見えていた。
「飲む?」
瀬戸が缶コーヒーを差し出す。 「サンキュ」
そう寒くない夜、それでも両手から伝わる缶コーヒーはほっとするような温かみがある。
「何してたの、こんな時間に」
「ん……、なんつーか、探し物」
「こんな時間に?」
「俺、明日の朝には帰んなきゃいけないから……仕事があって」
嘘、といえば嘘だった。仕事があるにはあったけど、フリーターの身に特に急ぐこともない。単に、葬式には出たくないだけで。今日会った知り合いだけでもうんざりだった。瀬戸尚子は別としても。
「そっか。――で、なに探してたの?」
「何……」
どういうべきか、言葉に詰まる。と、瀬戸がひょいっと僕の顔を覗き込んだ。
「もしかして、思い出、ってヤツ?」
思わず吹き出した。瀬戸も声をあげて笑う。
「――それちょっとクサすぎじゃねぇ?」
「だね」
ふと、別にそういう言い方も悪くはないかな、と思った。守ることも、破ることも出来ない約束に、ただ立ち尽くしていただけの僕にとっては。

校庭の端を歩いていく。運動場の一角、伸びっぱなしの雑草と木々に覆われた場所で、僕は止まった。
「ここだ」
記憶よりも、ずっと荒れていた。もしかしたら、あれ以来一度も手入れをされていないのかもしれない。ありえないことじゃない。廃校が決まった学校の、校舎内ならまだしもこんな校庭の隅まで綺麗に管理しようなんて思わないだろう。今はそれが好都合だった。僕は持っていた懐中電灯を点け、その奥を照らした。光の筋が暗闇の奥へと走る。後ろから瀬戸が覗き込んだ。
「何があるの」
「靴」
「靴?」
僕は草を掻き分け、奥へと進んだ。木々に囲まれているせいか、うっそうとした暗さがある。相当強いはずの懐中電灯の光がとても頼りない。それでも更に奥へ。昔は雑木林のように感じていたけれど、雑草地帯はほんの十メートル先でフェンスにぶち当たった。僕は懐中電灯をくわえ、フェンスの上によじ登った。
「あった?」
雑草の向こうから、瀬戸の心配そうな声が聞こえる。僕はフェンスの一番上に腰掛け、懐中電灯を持ち直した。改めて雑草に光をあてていく。瀬戸がこわごわとした様子で、雑草の中に入ってきた。
「あ、来なくていいよ。汚れるし、何が落ちてるかわかんないから」
「靴……探してるんだよね」
僕の言葉に答えず、逆に聞き返す瀬戸の言葉には、どういうことか説明してよ、と言うニュアンスがあった。
「靴にはさ、光を反射するビニールが付いてたんだ」
「ビニール?」
「あぁ、覚えてないか?昔、『夜でも光る靴』って流行ってたろ。それだよ。靴の横側にそれが貼り付けてあったから、懐中電灯で照らせば反射するんじゃないか、と思って」
「ふぅん……」
僕は丹念に雑草を照らしていった。何かが光る。そのたびにフェンスから降りて探す。暗闇にある程度目が慣れてもそれは困難な作業だった。光る物を見つけても、多くがビニール、ひどいときにはよく分からない金属片だったりした。いつしか僕は汗ばんでいた。肉体的なきつさよりも、徒労感が僕の体を覆い始めた。見ている瀬戸も同じなのだろう、自然に無口になっていた。それでも静寂の中、僕は雑草を掻き分け続けた。時折、風でざわざわと揺れる木々の音が、余計静けさを際立たせていた。
 ピッ、と電子音が聞こえた。僕は反射的に顔を上げた。瀬戸が腕時計を見て言った。
「三時、だって」
「ここに来たの、何時ごろだっけ」
「わかんないけど、高見くんの家を出るときが、二時二十分くらいだったと思う」
秀明の家から此処まで、5分足らずで着くから三十分も探していることになる。僕は腰から砕けるようにその場に座り込んだ。雑草が顔を刺す。嘲われているようだった。そう思っても、払う気力はなかった。瀬戸が雑草を掻き分け、こっちに来た。
「……悪いな、ここまでつきあわせて」
「ううん、なんか小学生の時に戻ったみたい。――一人いないけど、さ」
手が差し伸べられる。
「サンキュ」
雑草から出て、また座り込んだ。瀬戸も隣に腰を下ろす。さすがに冷たくなった手をコートの中に突っ込むと、何かが右手にあたった。瀬戸にもらった缶コーヒーだった。取り出し、蓋を開ける。少しだけまだ温かみが残っていた。
「飲む?」
「……ん、ありがと」
瀬戸は一口だけ飲んで、こっちに戻した。静かだった。徒労感は、もう諦観に代わっていた。――十年前の忘れ物など、見つかるはずがなかったのだ。
「ねえ」
瀬戸が口を開いた。黙って瀬戸の方をみる。
「その、無くした靴。今更どうして探そうとしてるの?」
そういえば、まだ言っていなかった。あれだけ手伝ってもらって話さないわけにはいかない。また、今となっては話さない理由も特にないような気がした。
「なんつーかさ……思い出話っぽくなるけど」
瀬戸が軽くうなずく。
「小学校の頃、俺よく秀明と勝負してたじゃん」
「ああ、そうそう、それで私、よく間に入って止めようとしてた」
瀬戸の声に何故か、すこし郷愁を感じた。僕はそれを振り払うように続けた。
「それで、小学校を卒業する少し前、ブランコで勝負したんだよ」
「ブランコ?」
「そう。たぶん、誰も知らないんじゃないかな。放課後で、もう日も暮れかかってたし。
 ブランコに乗って、遠くまで靴を飛ばせた方の勝ち、って勝負したんだ」

日はもういい加減、傾いていた。太陽なんか、背の低い住宅よりも沈んでいて、白い雲に反射した光だけが、かろうじて空をうすい青色に保っていた。僕と秀明は門を開けずに乗り越え、一目散にブランコへと走っていった。重い門を開けるのがもどかしいくらい――がむしゃらに僕と秀明はブランコを目指した。秀明が一歩速く辿り着き、一番奥のブランコに飛び乗った。
「一回勝負だからな!」
その手前のブランコに僕は立ち、必死で漕いだ。錆びた鉄鎖が手のひらに食い込むほど強 く握る。それでも、何度も手が滑り抜けそうになる。隣のブランコより少しでも高く。やがて体がブランコから飛び出すほど勢いがついたとき、隣で秀明が叫んだ。
「いくぞ!」
秀明の右足が空を突くほどに高く飛んでいく。その落ちる先を、僕は見なかった。もっと 漕がなきゃ。それだけを考えて前だけを見た。
 不意に、ふわっと体が浮くような感じがした。落ちる、と思った瞬間、僕は思いっきり右足を振った。
「うわあ!」
重心のかかった左手が滑り落ちる。思わず強引に両足を地面につき、そのまま倒れこんだ。
「彰!」
秀明の声に、僕は顔を上げた。一瞬、靴が見えたような気がした。
「大丈夫か?」
「……くつ、靴は」
はっとして秀明が振り向いた。
「……わかんね」
「向こう、向こうに落ちた!」
「見えたのか?」
僕は腰に手を当て、よろめきながら校庭を歩いた。秀明の靴は校庭を越えて、砂場の中に落ちていた。
「最高新記録だ」
ぼそっと秀明が呟いた。僕は答えなかった。僕の目は砂場の先の花壇、更にその先の雑草と木々に向けられていた。僕はまた歩き出した。
「そんなとこまで飛んだのか?」
僕は何もいわなかった。腰の痛みが少しなくなったこともあって、僕はひざ辺りまである雑草地帯に入った。秀明は何も言わず後ろに立っていた。僕は草を掻き分けて探した。冬の夕暮れ、辺りは急速に暗くなっていく。日が落ちてもう三十分はたったころ、
「見つからないって」
秀明が怒ったように言った。
「……僕の勝ちだろ」
言いながら、自分でも分からなくなっていることに気付いた。
「わかんないじゃん。お前の、どこにあんだよ」
そう言って、秀明は背を向けた。

「それで、結局決着はつかなかったの?」
「ああ、もうそれが最後の勝負だったから」
「どうしてもう一度しなかったの?」
する意味がなくなったからだよ、と僕は胸の中で呟いた。翌日、決着がつかないままもやもやの気持ちで登校した僕と秀明が教室に入ると、女子が瀬戸を囲んで騒いでいた。瀬戸尚子が、私立の中学校に進学する――と。僕は、たぶん秀明も、ただぼんやりと聞いていた。卒業式が終わり、瀬戸はいなくなってしまった。そんな経緯は、瀬戸には言えない。
「別に。なんか気が乗らなかったんだ、たぶん」
街灯に照らされた瀬戸の顔、大きな瞳が、じっとこちらを見上げている。全部見透かされるような気がして、さりげなく視線を外して続けた。
「決着がつかないなんて初めてだったし。――それに、なんか負けたくなくて強情張って嘘ついてるみたいじゃんか、俺が。実際、靴はなかったんだし。」
最後はおどけるような調子で言い、僕は立ち上がって付け加えた。
「でも、ホントはどうなのか、自分でも気になってて。それで、忘れ物」
「……それが、靴」
「そう、でも無理だって、考えれば分かることだった、時間が経ちすぎたんだ」
二,三歩雑草の方へと歩く。木々がざわついている。風が少し強くなってきていた。
「戻ろう」
「もういいの?」
「ああ」
振り向いて、僕はいった。
「もう、いいんだ」
瀬戸は、何も言わずに立ち上がった。右手にまだ懐中電灯を持っている。
「手伝ってくれて、ありがとな」
怪訝そうな目で僕の差し出した手を見る瀬戸。すぐに分かったらしく、すっと懐中電灯を差し出した。それを受け取ろうとして――位置を見誤った。手の甲で懐中電灯を飛ばしてしまった。跳ねるように懐中電灯は地面を二転三転する。途中から光を伴って。スイッチが入ったのか。その光が、木々をかすめる。
 上の方で、何かが光った。
「松永くん!」
瀬戸の声を聞く前に、僕は懐中電灯を拾い上げ、雑草へと飛び込んだ。手で掻き分けるのももどかしい。一本の木の下へと立った僕は、懐中電灯でくまなく枝の間を照らした。
「あの辺だよ!」
追って来た瀬戸が、後ろから身を乗り出して指差す。その方向に、懐中電灯を向けた。一瞬微かに、しかし確かに何かが光った。懐中電灯を押し付けるように瀬戸に渡し、僕は幹を思いきり蹴った。ほとんど揺れない。
「無理だよ、松永くん。それより、ほら、さっきの缶コーヒー!」
瀬戸の言葉に僕ははっとし、ポケットから空の缶を出す。少し木から離れた。
「瀬戸、どこか分かるか」
瀬戸は無言で枝の一部に光をあてた。何も反射しない。
「ちょっと待って」
そういいながら瀬戸は少しずつ角度をずらす。
「そこだ!」
言うと同時に、僕は空き缶を投げた。一直線に光のあたった枝へと飛んで行く。缶が枝にあたった高い音ともに、渇いた音がした。二つの影が、草むらに落ちた。駆け寄り、草を掻き分けると、そこにはコーヒーの缶が落ちていて――小さな靴が落ちていた。

瀬戸はじっと靴を見つめていた。反射ビニールが街灯の光を受け、微かに輝いている。
「良かったね」
瀬戸はそう言いながら靴を差し出した。黙って受け取る。靴は、長年の風雨で色あせ、ぼろぼろになっていた。それでも、かろうじてビニールはへばり付くように健在だった。
「松永くんの、勝ち」
瀬戸がおどけて言った。僕は少し笑った。
「どうしたの、嬉しくないの」
「いや……ホントに見つかるとは思ってなかったから」
「ひどい、見つからないかもしれない物を探させてたの?」
少しも責めるようなニュアンスはなかったけれど、僕は瀬戸から視線を外し、靴を眺めた。 「ねぇ、聞いてもいい?」
瀬戸が遠慮がちに言う。
「なに」
「ぇ……と、勝負してたんだよね」
「ああ」
「何か賭けてたの?」
何を――。僕はしばらく口を開かず、ただ靴を眺めていた。片手に収まるくらいの小さな靴を履いていた時のことをたくさん思い出そうとした。学校のこと、家でのこと、休みの日のこと、授業中のこと――。この校庭で僕は確かにこの靴を履いて、走り回っていた。そう、いつも――いつまで?僕は、どうなって此処にいるんだろう。いつからこうなったんだろう。瀬戸尚子が一人で私立の中学に行ったときから?秀明が俺の受かった高校に落ちたときから?理由もなく高校を休んだ日から?――僕は深い闇へと落ちていくのを感じた。

「おい、約束は守れよ」
「分かってる、お前もだぞ」
「当たり前さぁ」

記憶の声が、蘇ってくる。秀明の言葉。――約束、守れよ――僕は、反発するように言ったんだっけな――分かってる、か。そう呟いた、その時だった。

「嘘言うなよ、ちゃんと約束は守れよ」
後ろからの声に、僕は固まった。
「お前の勝ちじゃん。俺はもう、負けちゃったからさ、お前が守らないとダメだぜ」
僕はゆっくりと振り返る。
「ちゃんと、守れよ」
暗闇が、ずっと続いていた。深い深い黒の闇が。
「彰、お前が――」
そしてその奥の、小さな光。
「勝った方が瀬戸尚子を守るんだ。約束だからな。言い訳はナシだ」
――秀明!

「松永くん!」
瀬戸の声に危うく悲鳴をあげそうになり、僕はその場に座り込んだ。
「どうしたの、大丈夫?」
瀬戸が心配そうに僕を見ていた。
「――そうか、秀明……」
「え?」
瀬戸の目が僕の心に問い掛けるように大きく見開かれる。
「いや……、なんでもない、大丈夫」
僕は立ち上がった。闇の中の校庭は僕の知っているままのものだった。いつのまにか、僕は固く靴を握り締めていた。ゆっくりと右手を開く。闇を剥ぎ取るように。
「……なあ、瀬戸」
「なに?」
「やっぱ俺、明日の葬式、出るわ」
「そっか!」
瀬戸は心底嬉しそうに笑った。――そう、これに僕たちは必死になってたんだ。
「戻ろうぜ」
「うん」
僕は校庭から道路へと出る門を押し開けながら、この靴をあいつの棺に入れることを思いついた。ちゃんと、僕の意志の証明になるように。それは、とてもいい考えに思えた。







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