アンをひきとることにしたマリラだったが、
子どもを育てた経験などなかった。
しかし、彼女の教育法はなかなか学ぶべきところが多い。
アンがすくすく育ったのも、マリラがいたからこそに違いない。
初対面のレイチェル夫人がアンのことを、「やせっぽちで、みっともない。
そばかすだらけで、赤毛。」と言ったので、アンは激しく怒り、床を踏み鳴らしながら
レイチェル夫人にくってかかった。
マリラは、レイチェル夫人にも非があることを認めていた。
しかし、アンの行儀作法がまちがっていたことは、きちんと教えないといけないと思った。
レイチェル夫人は自分の子どものしつけに鞭を使っていた。
マリラはそういう方法は使いたくなかった。
「アンが自分の意志でレイチェル夫人にあやまりたいと思うようになるまで
自分の部屋から出てはいけない」という罰をあたえることにした。
食事はマリラが部屋まで運んでやった。でも、アンはほとんど手をつけなかった。
アンがあやまる気になったのは、マシュウのためだった。
こっそりアンに会いに来たマシュウが、あやまることをすすめたからだった。
そんなことを知らないマリラは、ほっとしていた。もし、アンがいつまでも折れなかったら
どうしようと途方にくれていたのだった。
マリラは鞭を使いたくないと思っていたのだから、こういう言い方は不適当かもしれないが
マシュウとマリラはアメとムチだった。マシュウがアンにひどく甘いことに気づいているマリラは
自分がきちんとしつけをしなければ、と思っていた。
アンがレイチャル夫人にあやまり、無事問題が解決した。グリンゲーブルスへの帰り道
アンは急にすりよってきて、マリラの手のひらにそっと小さい手をすべりこませた。
そのとき、あたたかいものを感じた。いままで、味わうことのなかった、母性愛というものに
違いなかった。その心とろかすような気持ちに酔いしれていたかったが、
すぐいつもの落ち着きをとり返した。
自分の感情に流されることなく、マリラはこうしていつも一定のスタンスを保ち続ける。
これは、なかなかできることではない。
ついついそのときの気分で、やさしくなったり、きびしくなったりしてしまうものである。
それもまた、人間味があっていい、ともいえるが、それがあまりひどいと
子どもは、ごきげんをうかがうようになってしまうし、また大人に対し不信感をもつように
なってしまうのだ。
紫水晶事件は、アンの事件簿にのっているとおり。
マリラの思い違いから起こった事件だった。
しかし、事がややこしくなったのは、ピクニックにいきたいばかりに
アンがでたらめな話をつくりあげてしまったからである。
マリラは、自分の間違いに気づくと、すなおにあやまった。
そして、いそいでアンがピクニックにいけるように準備をはじめた。
おとなだって、間違えることはある。子どもにもそれはわかる。
でも、おとなは自分のあやまちを正当化しようとする。
それは、子どもにとって納得できないに違いない。
マリラはきちんとあやまった。そして、すぐ自分のミスをとりかえすための
努力をした。その気持ちは、きちんと、アンに届いている。
石盤事件が発端で、アンは学校へ行かないと言い出した。
マリラはアンがゆずりそうにないと見てとり、それ以上説き伏せるのが困難だと思った。
そして、それ以上なにもいうまいと考えた。
マリラはリンド夫人に相談に行った。こどもを10人も学校へやったリンド夫人なら
こういう場合のことも心得ているにちがいないと思った。
リンド夫人はすでに事件について近所の子どもから聞いていた。今回のことは、先生のほうが
悪いとみてとった、とリンド夫人は言った。もちろん、そんなことは子どもたちには言えないが、と。
・ アンが自分から言い出すまでは、二度と学校ということを口にださないで、みておく。
・ 一週間もすれば、あの子が自分から、行くようになるから。
・ もし今、むりやり行かせようするなら、こんどはどんな騒ぎを起こして、これまで以上に
やっかいなことにならないともかぎらない。
これが、リンド夫人の意見だった。
マリラはリンド夫人の忠告を取り入れ、アンに学校へもどれとは、二度と言わなかった。
子どもを育てたことがないマリラは、学校のことに関しては自分の考えで物事を決断しなかった。
何人も学校へ通わせたリンド夫人に判断を託した。
家でのしつけの面では、マリラ流のやりかたをつらぬいているのに今回のこの対応は、
ちょっと意外ではあった。しかし、だからこそ感心した。
家の中のこと、対外的なこと、ゆずっていいこと、ゆずれないこと、
それぞれの場合によって異なった対応をすることも必要だと思う。
そして、今回の事件でアンが学校へ行かないことをとがめなかったのは
マリラやリンド夫人がアンのことをよく理解し、信頼しているからだということを
忘れてはならない。
午後から用事ででかけることになっているマリラは、アンにやるべきことを伝えた。
その上で、ダイアナを招いて、お茶をあげてもいいと言う。
それはアンがずっと願っていたことだった。
アンの希望がすべてかなうというわけではなかった。
ばらのつぼみのついたお茶道具を使ったり、客間をつかうことは、許してもらえなかった。
でも、さくらんぼの砂糖漬け、果物入りのケーキ、クッキー、しょうが入りビスケットを
食べてもいいと言われたし、いちご水も飲んでいいと言われた。
このあたりも、マリラのきちんとしたしつけ方がうかがえる。
何でもダメと言うわけではない。しかし、子どもには子どもにあった待遇を。
これは、大事なことだと思う。
ダイアナがぶどう酒で酔っ払ってしまったのは、アンのせいばかりではなかった。
マリラはしっかりとそのことをバーリー夫人に伝えた。
しかし、それを信じないバーリー夫人にマリラは言うべきことを言って帰ってきた。
自分のとこの子どもだからかばうのではなく、まちがっていないからかばうのである。
逆に、ダイアナはお行儀が悪いからこんなことになった、とよその子のことでも
はっきり言う。こういう公平な態度はなかなかできない。
つい、自分の子どもをかばってしまう、もしくは逆に悪くないと思っていながら
あやまってしまう。そんなことが多いような気がする。
ダイアナと付き合うことを禁じられ、泣きながら眠ってしまったアンを見て
マリラは「かわいそうに」とつぶやき、涙によごれた子どもの顔から
みだれた巻き毛を持ち上げ、頬にキスした。
こちらは、母性愛からの行動なのである。
ダイアナの誕生日にアンが家にとめてもらい、
一緒に音楽会へつれていってもらう、というお誘いを受けた。
有頂天になるアンにマリラは「行ってはだめだ」と言う。
眠っているかのようにして聞いていたマシュウが「いかせてやらなくちゃいかんよ」と言っても
「いいえ、いけません」とやり返した。
「あの子を育てているのは誰です?あんたですか?わたしですか?」
「そうさな、お前さ」というマシュウにマリラは「それならじゃましないでください」と
てきびしかった。マシュウはひきさがらなかった。
「そうさな、じゃまをするわけじゃないんだが、わしの意見はお前がアンを出してやらにゃ
いかんということだよ」マシュウは何度もくりかえした。
「アンを行かせてやらにゃいかんよ」
マリラはとうとうかぶとをぬいだ。
「よろしい。行かせてやりますよ。何でもかんでもそうしなきゃ、あんたの気が
すまないんだから。もし、何かおこっても、あたしは関係ないよ。マシュウの責任だからね」
マリラは何がなんでもだめというわからずやではなかった。
何か事件が起こることを心配していただけである。そして、実際起こった。
あとで、その話を聞いたとき、ひとことマリラはマシュウに言った。
「わたしがあんたに言ったとおりじゃありませんか」
アンは自分の想像力のせいで、お化けの森を暗くなってから通るのが
とてもこわかった。しかし、そんなアンにマリラは容赦しない。
アンがどれだけ泣いてもだめだった。
あんたの幽霊を想像するくせをなおしてあげるのさ。さぁ、とっとと行きなさい。
マリラは、アンの空想話をまったく禁じようとしているわけではない。
つい、聞き入ってしまうこともある。
しかし、現実と空想の世界の区別がつかない状況は許すわけにはいかなかった。
アンがどれだけお願いしてもお化けの森へ行かせた。
マリラは、どこまでは許すが、これ以上はだめ、という線引きがしっかりしている。
命からがら帰ってきたアンは、マリラの言っていたことが正しかったのを実感した。
牧師館のお茶にまねかれたアンはとても興奮していた。
しかし、マリラはひどく冷静だった。「そんなに夢中になる必要はないんだよ。
ものごとに落ち着いて向かうようにしなくてはいけないよ」
人生のよろこびも苦しみもアンには三倍も強く感じられた。
マリラとしては、アンが運命の浮き沈みの中で、どんなに激しい苦しみをしなければ
ならないかと思うと、言い知れぬ不安を覚えるのだった。
マリラには、苦痛が激しく感じられる心には、よろこびもそれだけ強くこたえるものであり
それで、じゅうぶんつぐないはついていくのだということが理解できなかった。
マリラはアンに落ち着きを与えるのが自分の義務だと思いこんで、苦心するのだが
どうもうまくいかなかった。
この気まぐれ少女を自分の好みにかなった地味な性格に改造することは、そろそろあきらめかけて
いたし、じつのところは現在のままのアンをけっしてきらいではなかった。
当日の朝、アンはすっかり舞い上がっていた。「あんたのわるいところは自分のことばかり
考えすぎることなんだよ。どうすれば、奥さんがいちばんよろこびなさるかということを
考えるんです」マリラは奥行きのある注意をはいた。アンはたちまちそれを悟った。
「そうだわ、マリラ。あたし、自分のことはちっとも考えないようにするわ」
アンとマリラ。お互いの性格を尊重しあい、自分に欠けている部分については、
ちゃんと受け入れようとする。とてもいい関係だと思う。
マリラは音楽会のような派手な行事を好ましく思っていなかった。
アンが熱っぽく話しかけても、とりあってくれなかった。
しかし、マシュウはしっかりと話を聞いてくれた。
「そうさな、なかなか上等の音楽会になるだろうよ。それにお前は自分の役を
みごとにやってのれるにちがいあるまいよ」そういってほほえんで見せた。
この二人ほど仲のよい友だちはなく、マシュウはアンの教育にすこしも関係しないですむことを
何度ありがたいと思ったかしれないのだった。
もしそれがマリラでなくマシュウの役目だったら、甘やかしたいという気持ちと義務感との
板ばさみになって、しじゅう苦しまねばならないところだった。
マシュウは、好きなだけアンを甘やかすことができた。
しかし、それは結果的にわるいことではなかった。
ちょっとしてほめ言葉が、ときにはありとあらゆる良心的な教育を寄せ集めたのと
おなじくらいの効果をあげることがあるからだ。
ひとりで、このマリラとマシュウの二役をこなすのは、結構大変だと思う。
ジョセフィン伯母さんのうちへ泊まったアン。
夢のようなできごとの連続だった。
でも、アンは往きよりも帰りのほうが楽しいくらいだった。
この道の果てにはわが家が待っていることを知っていたからである。
「ああ、生きているってありがたいこと。家へ帰るってうれしいものね」
アンが小川の丸木橋をわたると、グリーンゲーブルスの台所の灯が「お帰り」というように
なつかしくまたたいていた。アンが元気よく台所に駆け込むと、テーブルの上には
熱い夕食が待っていた。「やっと、帰ってきたね」マリラは言った。
「あんたがいないと、ひどくさびしくてね。こんなながい四日間をすごしたことがないよ」
夕食のあと、アンはマシュウとマリラに町でのことをすっかり話し、最後に言った。
「でも、いちばんよかったことは、家に帰ってくることだったわ」
こんなに深い絆で結ばれている家庭は、いまどきなかなかない。
アンが町のクイーン学院に行く日が近づいてきた。
マリラはうす緑色の布地でイブニングドレスを仕立て、アンにプレゼントした。
その服を着て、アンが詩を暗誦している姿を見て、マリラはアンがグリーンゲーブルスについた
晩のことを思い出していた。黄色がかった茶色の服を着たおびえたこどもが、涙をいっぱいため
痛ましい表情をうかべていた姿がそのままよみがえってきた。
思い出しているうちに、マリラの目に涙があふれてきた。
「こんなに大きくなって行ってしまうんじゃ、つらいよ」
アンは、まじめな目つきでやさしくマリラの目をのぞきこんだ。
「あたしはちっとも変わっていないわ。ほんとうにいつもおなじアンよ。
あたしがどこへ行こうと、外側がどんなに変わろうと、ちっともちがいはないのよ。
心はいつまでもマリラの小さなアンなのよ。」
この言葉はアンの本心なのだが、こうした言葉がいえること自体、アンが成長した
証拠だった。
目に涙が浮かんできたマシュウは家の外へ出ると、ひとりで思った。
「まったく、あのスペンサーの奥さんは、ありがたいまちがいをしでかしてくれたものさ。
運がよかったんだな。いや、そんなものじゃない、神様のおぼしめしだ。
わしらに、あの子が必要だってことを神様はごらんになったからだ。」
ついにアンが町へ行く日がきた。マリラは涙なしの別れをつげたが、アンが行ってしまうと
ともすれば、涙が流れ出して、どうにもならないせつない思いになった。
その夜、寝床にはいったとき、東の部屋に元気な娘の姿がないのだと思うと、たまらなく
みじめな気持ちになり、枕に顔をうずめてはげしく泣き出した。
自分の育てた子どもが旅立っていくとき、親はこんな思いになるものなのだ。
マシュウが静かな死をむかえた。
ダイアナはアンといっしょにいようと言ったが、はじめて自分一人にしておいてくれと言った。
アンの頭にはマシュウのいろいろな思い出がうかんだが、涙は出てこなかった。
うとうとと、するうちにふと、マシュウと最後に話をしたときの記憶が
よみがえり、はげしく泣き出した。
その声を聞きつけたマリラが部屋にはいってきた。二人はともに泣き、心から語り合い
慰めあった。
これからアンとマリラは、二人で支えあって生きていくのである。