赤毛のアンの作者モンゴメリ。
彼女の人生もまた、物語のように波乱万丈だったのです。
この名作「赤毛のアン」も、もしかすると陽の目を見ずに
捨て去られたかもしれないのでした。
ここでは、そんなモンゴメリにスポットをあててみましょう。
国文学が専門の私が中学レベルの英語力で
悪戦苦闘しながら、紹介していきます。
訳しまちがいがあるかもしれませんが
どうかお許しを・・・。
アンの作者ルーシイ・モウド・モンゴメリはカナダではじめて成功した
女流作家と言われている。
モンゴメリは1874年11月30日にプリンスエドワード島で生まれた。
彼女が子どものころの女性の生き方は、現在とはかなり違っていた。
女性には選挙権がなかったし、学校へ進学することはとてもむずかしかった。
女性は職業につかず、若くして結婚し家の中で子育てをするという時代だった。
しかし、モンゴメリは他の人とは違う夢を持っていた。
当時ほとんどが男性だった作家になりたいと思っていた。
そして、実際に成功をおさめたのである。
彼女は、24冊の本を出し、530の短編と500以上の詩を書いた。
もっとも有名な作品「Anne of Green Gables」は
20か国語以上の言葉で出版され、世界中の人々に読まれている。
モンゴメリが生まれたころのプリンスエドワード島は電話も車もなかった。
移動には馬車を使った。冬には、家の中はとても寒かった。
モンゴメリが2才になる前に、彼女の母は肺病でなくなった。それからすぐ
彼女の父は仕事のためにサスカッチワンに行ってしまった。
両親にさられたモンゴメリはプリンスエドワード島の北側の海岸にある
キャヴェンディッシにいる彼女の母方の祖父母に育てられた。
彼女の祖父母は村の郵便局をやっていたが
とても厳格な人で、彼女がパーティにいくことは許されなかったし、
友だちを家に招くこともめったになかった。
モンゴメリは1881年に学校へ通い始めた。
彼女はとても真面目な学生だったが、ときには数学の時間に詩を書いていた。
彼女は、友だちと物語クラブをつくっていた。ちょうど、「赤毛のアン」に
でてくるような。彼女たちのつくった話はどれも悲劇で、最後にみんなが
死んでいってしまうような話ばかりだった。
彼女は自分の作った詩を雑誌や新聞に送った。しかし掲載されることはなかった。
ふつうの人だったら、そこであきらめてしまうところだが
彼女は、作家になるという夢をすてることはなかった。
モンゴメリは1890年15才のとき、離れ離れになっていた父の住む
プリンスアルバートを訪れた。彼女は父との再会をとても楽しみにしていたが、
すぐに彼女は義理の母とうまく暮らしていけないことを知った。
義理の母はモンゴメリに家の仕事をさせたり妹や弟の世話をさせたかったのだ。
なんとか彼女は学校へ通うことができ、友だちもできた。
彼女は担任であるミスター・マスタードのことをよく思っていなかったが
彼のほうは、モンゴメリに好意をいだいていて、16才の彼女に結婚を
申し込んだ。彼女は冷たくお断りをしたのだが。
1890年11月26日、デイリーパトリオット紙に彼女の最初の詩が
掲載された。それから次々と彼女の作品は採用されはじめた。
それでお金がかせげるわけではなかったが、彼女は書くことを続けた。
1891年8月、彼女はプリンスエドワード島への思いが断ち切れず
父や友だちに別れをつげ、故郷へもどっていった。
プリンスエドワード島にもどったモンゴメリは先生になるための学校へいきたかったのだが
彼女の祖父母はそれを拒否した。それで、彼女はものを書いたり、ピアノを教えたりしていた。
しかし、あまりに彼女や彼女の友人がうるさいので、とうとう学校へいかせることを約束した。
1892年、彼女は大学を受験し、264人中5番という成績で合格した。
1893年、彼女はシャーロットタウンのプリンス・オブ・ウェルズ大学に入学し
1894年優秀な成績をおさめるとともに、キャヴェンディッシで教職についた。
彼女のわずかなかせぎと祖母からの援助で1895年ふたたびハリファックスにある
大学に入学した。たった1年間ではあったが、ものを書くために価値のあることだと
彼女は考えた。
1896年10月彼女はまた先生にもどった。はとこであるエドゥィン・シンプソンが
ベルモントでの教職の仕事を譲ってくれた。彼はすぐ、モンゴメリのことを好きになったが
彼女はそうでもなかった。しかし、仕事を続けたいがために、彼とひそかに婚約した。
1897年モンゴメリはハーマン・リードという農夫にくるおしいほどの恋をした。
ふたりが、結婚できないことはわかっていたが、彼女はエドとの婚約を破棄した。
1898年3月、祖父が亡くなった。彼女はキャヴェンディッシに住む祖母のところに
もどることになる。ハーマンにはもう二度と会えなかった。彼は1899年6月、
かぜのために亡くなっている。
モンゴメリは、しばらく詩や短編小説を書きながら、祖母の世話をしていたが、
1901年ハリファクスで新聞社の仕事についた。
デイリーエコー誌に校正担当として雇われたのである。
当時職場の中で、女性は彼女ひとりだった。
新聞社の仕事では大きな収入は得られなかった。しかし、彼女はこの仕事を愛していたし
多くの経験ができることをうれしく思っていた。
彼女は収入を補うために、記事を書いたり詩や小説を書くことを続けていた。
祖母の世話をするため、1902年6月彼女は新聞社の仕事をやめ、キャヴェディッシに
もどった。デイリーエコーを去ることはとても心のこりだったのだが。
1903年、モンゴメリは、ものを書く仕事で、当時の男性の収入より多い
500ドルという大金をかせぐようになっていた。
彼女の作品すべてが採用されたわけではない。
不採用になる作品もいくつかあった。しかし、彼女はがっかりすることなく
すぐ別の出版社に送ってみる。ときには、最初の出版社よりも多額で採用してくれる
こともあった。
彼女はときに孤独を感じていた。ほとんどの友人は結婚し、遠くへ去っていった。
ひとびとは、作家である彼女を、奇異な目でみていた。
何人もの男性が彼女に結婚を申し込んだが、彼女はそれを断った。
彼女は作家を続けていくことを決意していたのだ。
1905年、モンゴメリは、新しい物語のアイデアを考えていた。
主人公の名前はアンにしよう。アンのつづりはAnnではなくAnneに。
彼女は自分の名前のモウドをMaudではなくMaudeとまちがえられるのが
とてもいやだった。だから、アンにも名前のつづりにこだわるようにしたのだ。
そしてアンの髪の毛は赤色だった。これは彼女が学生のとき、クラスに髪が赤いことで
みんなにからかわれている子がいたからだ。
アンにはすてきな家に住んでもらいたいと思っていた。
モンゴメリは近所にある緑色の屋根の家がとても気にいっていた。
それで、アンの家は「緑の切妻屋根」にし、グリーンゲーブルスとよぶことにした。
彼女はアンの小説を書いていくうち、ますますアンが好きになっていった。
1905年5月、ちょうどそのころ牧師であるイワン・マクドナルドと親しくなった。
楽しく語らいながら、散歩をしたりする日には小説の筆はとまっていた。
しかし、彼女はすぐまたアンにとりかかった。掃除、洗濯、食事のしたくなど
家事の合間での執筆ゆえ、作業場は台所だったり寝室であったりした。
彼女はすべての力をふりしぼって、この作品に取り組んでいた。
1905年10月、アンの小説は完成した。
希望を胸に出版社へと送ったが、すぐに返却された。
しかし、彼女はがっかりすることなく別の出版社へも送った。
今までも不採用になることはよくあったのだから。しかし、そこからも返却された。
結局、5社に送ったがすべて不採用だった。
涙にくれたモンゴメリはアンの小説を古い帽子の箱につめてしまいこんだ。
そしてまた、以前のように詩を書いたりする仕事をするうち、アンのことは
すっかり忘れていた。
何ヶ月もがすぎ、荷物をさがしているうちに、その原稿をみつけた。
ページをめくるうちに、どんどんと興奮してくる。この作品ならもう一度
ためしてみる価値はある、そう思った彼女は今度はアメリカの出版社に送ってみた。
ついに、彼女の作品は採用されたのだ。彼女は出版社からの手紙を手にしたが
自分の目が信じられずにいた。
1908年6月20日、特別な包みがモンゴメリのもとに届いた。
それは彼女の本「Anne of Green Gables」だった。
「アン」はすぐにベストセラーになった。
モンゴメリの名前はすぐに世界にひろまった。
彼女の作品に魅了されたのは子どもだけではなかった。カナダの知事やイギリスの大臣も
彼女のファンになった。トム・ソーヤやハックルベリーを書いたマーク・トウェンは
彼女にファンレターに書いている。
出版社はすぐに次の作品を書くように言ってきた。
彼女はアンの作品をつくるのがうれしかった。それ以外の新しい話を書くことは無理だった。
すぐに新しい作品「アヴォンリーのアン」が完成し、出版社を満足させた。
彼女は大きな収入を得ることができ、生活は楽になった。
しかし、彼女の祖母は家を作り変えたりすることは望まなかった。
彼女は祖母のもとをはなれることはせず、旅行にも行かなかった。
モンゴメリには秘密があった。
1906年10月12日、モンゴメリはマクドナルドと婚約していたのだ。
しかし、彼女は祖母のそばを離れるわけにはいかなかった。
婚約してすぐ、マクドナルドは勉強のためスコットランドへと旅立った。
1910年3月、彼はオンタリオの教会の牧師になった。
ふたりは結婚したけれども、ほとんどいっしょにすごすことができなかった。
1911年3月5日、モンゴメリの祖母が肺炎のため亡くなった。
彼女は悲しみにひたった。祖母はきびしい人であったが、彼女が学校へいくことを
助けてくれた。彼女は祖母を母のように思っていたのだ。
しかしこれで、彼女は自由に結婚することができた。
1911年7月5日結婚し、すぐにイギリスとスコットランドに向けて長いハネムーンに
でかけた。彼女は自分の先祖の国に行くことをとても楽しみにしていた。
ハネムーンから帰って、ふたりはオンタリオの家にもどった。彼女の愛した島からは
遠く離れていたが、それでも自分の家に住めるということがうれしかった。
彼女は残りの人生をここですごすことになる。
1年後、彼女は長男を生んだ。そしてその2年後、次男が生まれる。
第一次世界大戦は彼女を恐怖におとしいれた。
争いの代償として、若い人が命をおとしていくなんて・・・。
夫であるマクドナルドは病に悩まされていた。しかし、職をなくしてしまうことを
おそれた彼女は夫はただの頭痛だということにしていた。
1930年代になると彼はほとんどの時間をベッドの上で過ごした。
モンゴメリは新しいシリーズをてがけた。
マリーゴールド、エミリー、パットというキャラクターを登場させた。
1939年に第二次世界大戦がはじまると、
モンゴメリは自分の子どもたちが戦争で
死んでしまうのではと不安だった。
たくさんの心労が重なり、1941年には彼女は
健康を害し、1942年4月24日亡くなった。
彼女はキャヴェンディッシの地に埋葬された。