自動ドアをくぐった瞬間に、目が合った。寂れた商店街の本屋の前。そいつは車道を挟んだ向こう側で、ただじっとこちらを眺めている。二回ほど瞬きをして、そのままとてとてと歩いていった。停めてある自分の自転車の鍵を外してサドルに跨る。誰もいない歩道を歩く猫。あたしはそいつと同じ方向に向かってゆっくりペダルをこぎ出した。
”猫街”
この街のどこかにはね。猫さんがいっぱい溢れている、猫の国があるのよ。白や黒や茶色、色々な色をした猫がいっぱいいるの。それでね、そこにはなんと、言葉を喋れる猫さんもいるのよ。人間みたいな姿をした猫さんだっているの。
この街のどこかにはね。猫さんがいっぱい溢れている、猫の国があるのよ。
自転車からはすぐに降りた。進むスピードが遅すぎてかえって疲れるから、手で押して歩いた。太陽は眩しすぎず、気温は暑すぎず涼しすぎず、雲の量からいって気象予報的には晴れ。絶好の散歩日和。猫は淡々とあたしの前を行く。時折こちらを振り向いては、あんまり興味のなさそうな顔をする。ポケットに手を突っ込んで、中のカメラを弄ぶ。今日はこれのお世話になることはないと思う。不思議な感覚。あたしたちはそのうち商店街を出て、閑静な住宅街へ入っていった。こっちは家とは反対方向なんだけど、まあ、いいかな。どうせ暇なら、ゆっくり歩いていこう。見慣れない道を行進する。先頭に猫。少し距離を置いて後ろに自転車を手で押した女子高生。割と頻繁に道を変えながら、気まぐれに石塀の上に飛び乗りながら、猫は黙々と歩みを進める。曲がり角に消えた姿を見失わないように足を速めて、あたしは続く。とある分かれ道で、急に立ち止まって振り向いたそいつは意地悪くそこに座り込んだ。あたしも負けじと立ち止まる。道のど真ん中で見つめ合うあたしたちに買い物袋を下げた主婦が奇異の視線を投げかけながら通り過ぎる。恥ずかしがるあたしを尻目に、そいつは欠伸でもするようににゃおんとひとつ鳴く。
昔どこかで聞いたような話を思い出す。この街のどこかについての話を思い出す。京子に話したら、呆れられるだろう。でもその後、ホントにあったらいいよねって笑い合えると思う。ことりに話したら、信じて探しちゃうかもしれない。あの子だったら。そして何日かたって、見つけたよ、って元気に話したときに、多分あたしは信じるだろう。彼女は本当にそれを見つけたのだと思うだろう。だから、言わない。風がひとつ、頬を撫でた。メイクさえも通さず直に触れる風は本当に気持ちが良い。多分、心だってそうだ。きっと直接触れる風は、気持ちよかったり、痛かったり、冷たかったり、暖かかったりするのだろう。顔に化粧はしてなくても、頭の中は随分のあいだ外気に触れていない気がした。
ふと前を向いたら、曲がり角に吸い込まれていくしっぽが見えた。ぼーっとしてて危うく見失うところだった。小走りでその場所まで駆けていく。額に薄く汗が滲む。リズミカルに息を吐く。目が合ったときに感じた導かれるような予感は、猫を見ていたい口実でも目的のない散歩にとってつけた理由でもどちらでも、もしかしたらなかったのかもしれない。その場所についた時に、そんなことを思った。
そこは、空き地だった。
ジャイアンやスネ夫がたむろしているようなのじゃなく、びっしり生えた草が膝丈まで伸びた正真正銘の空き地。その緑の雑草の海の一番奥でこちらをじっと見つめながら、そいつは佇んでいた。待っていてくれたのかもしれない、となんとなく感じた。古びた石塀には、子供が潜って通れそうな穴が開いていた。真っ暗な穴。そいつはあたしと目が合うと、二度瞬きしてその穴に消えていった。その向こうは猫の国、なんてことがあるのかもしれない。なんてね。ことりならすぐに追いかけていって、穴をいとも簡単にくぐり抜けるだろう。そして顔を出してみんなを手招きするのだ。すごいよ、見て見て。
あたしじゃ大きすぎて通れないかもしれないけど、せめて覗いていこうか。向こうの景色を確かめてみようか。でも、何故だろう。ここから先に行くと、もう戻ってこれないような気がした。日差しが、穏やかだった。
あたしは自転車のサドルに跨って、来た道に向かってペダルを踏んだ。まだ日が落ちるには早いから、どこかの公園に立ち寄ろう。そこのベンチで買った雑誌をゆっくり読もう。運が良ければ野良猫を見かけるかもしれない。その時こそ、ポケットの中で眠るカメラの出番だ。休日だった。
このまちのどこかにはね。ねこさんがいっぱいあふれてる、ねこのくにがあるんだよ。しろやくろやちゃいろ、いろいろないろのねこがいるんだ。そいでね、そこにはことばをしゃべれるねこさんもいるんだよ。にんげんみたいなすがたをしたねこにんげんもいるんだ。
このまちのどこかにはね。ねこさんがいっぱいあふれてる、ねこのくにがあるんだよ。
しってた?
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