”公園へあと少し”





 道を歩いていた。 

 どこかで見たような景色は、暗くて、
 どこかに、もう少しで辿り着けそうな場所に懐かしい場所があることを知っていて、でも判らなくて、目の前は薄暗くて、歩き回って、自分の勘だけが頼りで、この角の曲がればあの場所があると、そのことだけをただ願うように、でもその向こうには無くて、道路脇に一台のトラックだけが在って、子供が、一人の子供がその荷台の上で泣いていた。
 何の音も無い。
 違った。意識できない。確かにあるはずのざわめき、人の、車の、街の、そんな音をうまく認識できないそれなのにその子のすすり泣く音だけを奇妙に認識できて、ふらりと、手を伸ばす。降りられないでいるその子に手を差し伸べる、そのために一歩を踏み出した、瞬間、ずるり、と荷台からパイプが滑り落ちた鉄パイプが滑り胸のまんなかに何の感慨も無くづぶづぶと


「──ッ!」
 勢いよく寝返りを打つと、ばさりと音を立てて毛布が滑り落ちた。

 何かの言葉を大声で発してしまったような、そんな漠然とした不安と羞恥が喉の奥に張り付いている。
 その中で、次第に意識が覚醒していく。
 夢だった。
 そう認識するのと、目の前の暗闇に目が慣れるのはほぼ同時だった。目を閉じると、先程の夢の残映がぼんやりと焼きついている。しかしそれも、日常の音に解体されていく。車の走り去る音、一段階。サッカーボールを蹴る音、二段階。歓声、三段階。下から聞こえる食事の支度の音、四段階。
 もう、ほぼ跡形もない。穏やかな日曜の朝。枕に顔をこすり付けて、それから起き上がる。いつものように朝の支度をする。
 欠片だけポケットに滑り込ませて、飛行機の飛び去る音に見送られながら部屋を出る。


 ひやりとした風が少しだけ冷たかった。もうすぐ春なのにな、なんて思うけれど、去年の今頃はどんな陽気だったかなんて考えてもまるで思い出せない。
 でも、日向に出ればじんわりとした暖かさに頬が緩んで、きっと空は晴れてるんだろうなと思う。それで一歩を踏み出す。
 別に理由なんてなかった。ただ、私の足は商店街へ向かっていた。正確に言えば、その向こうへ。あの公園へ。そのことに理由が必要なくなる日が来るなんて事を、以前の私は考えもしなかった。それだけの余裕が、今はできたんだと思う。そしてその代わりに、確かに何かが薄れていってるのだとも思う。
 食後すぐの運動は体にも悪いのだけど、きっと大丈夫だ。なにせ、自分の歩みはゆっくりすぎるくらいだから。
 慎重に、集中して、ひとつずつ道を通っていく。危ない道と危なくない道、一度切らした集中力をすぐに取り戻す術、聞こえる音や足元の感触から今の居場所を特定しなおすやり方。慣れればそんな中でも考え事ができる。それか暇なときに思わず考え事をしてしまう、といったほうが正しいかもしれない。私の命が突然消えてなくなるとしたら、きっとこういう瞬間。
 商店街に差し掛かるにつれて周りも騒がしくなってくる。漂ってくるファーストフードやクレープの匂いに思わず、朝食を食べたばかりなのにお昼のメニューのことを考えてしまい、そんな自分にちょっぴり苦笑する。
 行き交う人々の声。 スーパー、玩具屋、ゲームセンター。それらの前をただ、通り過ぎていく。いつもと変わらない賑やかさ。私がこの世界で何番目かに好きなもの。
 けれどそれも、いずれ小さくなっていく。どんなに、どんなにゆっくりと歩いていても。
 気が付けば、そこはもう街路樹に囲まれた、桜が咲く通りだった。車が通ることもない遊歩道。
 地面に舞い落ちる花びらは、知らずに踏みつけてしまっているかもしれない。幾度となく通った道。けれど一人で歩くのはいつ以来だろう。
 一人で歩くのは、いつ以来だろう。


 暗闇の中を幾筋も延びる光の道があって、その中を私は歩いている。
 初めからそこに在った道があれば自分で切り開いた道もある。いつかあの子と歩いた道にもう色褪せてぼんやりとしか見えない道、それといろいろ、いろいろ。
 そして今でも光り輝いている多くの道、あの人がくれた道。それは私にとって、かけがえのない宝物。

 でもきっと、その一歩外の暗闇は、どこまで行っても暗闇だ。一度迷い込んだら最後、何も見えなくなる。
 私が歩けるのは、だから、その道だけ。


 こつん、という感触に我に返る。靴の横に何かが当たったのだ。感触ですぐに何かが判る。サッカーボール。一緒に、とてとてと走りながら近づいてくる足音。
 私が足元のすぐ近くに落ちているボールを拾い上げる、それだけのことに微かに逡巡すると、彼か彼女かは、やや戸惑ったような雰囲気を風に乗せたようだった。
 幸い、すぐにボールを探し当てることができた。それを投げ渡してやろうとする前に、足音が目の前にやってくる。
 ありがとう、という声がして、それでやっと、相手が小さな男の子だとわかる。
 はい、どうぞ。
 視線を低くしてボールを差し出す。それを受け取った彼は、踵を返すと賑やかなリズムで走り去った。
 私はその方向を、じっと見つめていた。
 その向こうの世界のことを、少しだけ想像する。私が永遠に知ることのない世界。少ないピースをたどたどしく当てはめながら、慈しむように。
 そうしているうちに足音は、何もない暗闇へと消えていく。そして私は、ゆっくりと立ち上がる。
 いつの間にか風が、桜の匂いを連れてきていた。




 彼と初めて歩いたあの日のことと
 彼女と一緒に勇気を出して歩いたあの日のことと
 また彼と手を繋いで歩く今と




「このままでいいんだよね、きっと」
 呟いた言葉は春の空気に溶けていく。冷たい風と穏やかな日差しの下で、
 この道を抜ければ、

 公園へあと少し。







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