「ねぇ、祐一〜」
8月も終わりに近づいたある夏の日の午後6時10分。
相沢祐一(17)はだだをこねられていた。
だだをこねているのは、いとこで、幼なじみで、同居人で、恋人の水瀬名雪だ。まるで子供のようにじたんだを踏んでいる。
「一緒に行こうよ〜」
そう、全ての始まりは水瀬名雪の母、秋子のあの言葉だった……
『らっきょなんていらねえよ夏』
「今夜はカレーよ」
買い物から帰ってきたばかりの水瀬秋子がそんなことを言ったのはある夏の日の午後6時だった。母のその言葉に娘は「カレー、カレー」と嬉しそうに謎の歌を歌いながらイチゴのアイスをつっつき、娘のその歌にいとこは「やっぱり夏はカレーだよな」と答える。そして娘は「カレーといえばらっきょだよね」と言って「らっきょ、らっきょ」と再び謎の歌を歌い出す、そんなある夏の日の午後6時だった。
時間がいつもより遅かったため、秋子は急いで作りますから、と言って夕食の準備にとりかかった。祐一はリビングでテレビを見ていた。彼は前の日の学校の授業(この町は8月の終わり頃にはもう学校は始まっている)の体育のマラソンの後遺症に悩まされていて、とにかく両の足が痛かった。今日も死ぬ思いで学校に行き、トイレ以外イスから立たず、昼飯は名雪に買ってこさせ(イチゴサンデー2個で交渉成立)、百花屋に寄りたいとだだをこねる名雪を必死に説得しながら下校をした。彼としては、このまま秋子さんの作ったおいしいカレー(ちなみにルーは自家製らしい)を食べて、ゆっくり風呂に浸かって、あったかい布団でぐっすり眠りたかった。
しかし、そうはいかなかったのだ。
秋子はある重大なことに気付いてしまった。
「あら、らっきょうが無いわ」
「え?」
「……買ってくるの……忘れちゃったみたい」
そして今、祐一はだだをこねられている。どうやら
「一緒にらっきょ買いに行こうよ〜」
ということらしい。だが祐一としては激しい筋肉痛に耐えながら夏の夜更けをらっきょを買いに歩くのはまっぴらごめんだったので、言った。
「一人で行け」
だが名雪は「え〜」だの「う〜」だの「く〜」だの言って1歩たりとも引こうとはしなかった。意地でも二人で買いに行きたいらしい。しかし1歩も引く気がないのは祐一とて同じだった。
「俺は足が痛いんだよっ」
「う〜、ちょっとそこまで行くぐらい……」
「嫌だ。なんならこの痛みをお前にも味あわせてやろうか?」
「なんか祐一、目が怖い……」
「大体なんで俺がついてかなきゃならないんだよっ」
「なんとなく一緒に行きたいの」
「なんとなくで行けるかっ!!」
と、ここまではやや祐一が優勢であった。目に涙さえ浮かべる名雪につい転びそうになったものの、何とか耐えてきた。しかしそれもここまでだった。ついに名雪が最終兵器を繰り出してきたのだ。
「……聞かせるから」
「何を?」
「……あの目覚まし、香里達に聞かせるから」
最終兵器を食らった祐一は一瞬にして青ざめ、そして、転んだ。
「お待たせっ」
名雪が笑顔でコンビニから出てきた。手には小さなビニール袋。
「おう」
そして、今来た道をまた歩き出す。
「らっきょう、コンビニにも売ってるんだな」
「うん、コンビニはなんでもあるからね」
「世の中便利になったもんだ」
名雪が祐一ジジ臭いよ、と言って笑う。
8月の空。その空を夕焼けはこれでもかっていうくらい赤く染めていた。
「……にしても、寒いな」
さすが北国といったところだろうか。まだ8月なのに、時折吹き付ける風は冷たくて強かった。
「大丈夫、5分もあれば家に着くよ」
「しかしその5分の道のりは、祐一にとっては長く、そして険しいのだった」
「変なナレーション入れないでよ〜」
「だって足痛いモン」
「……祐一、なんか変」
「それに寒いし」
「もう」
祐一の手が2秒前より暖かくなった。名雪が、手をつないでいた。
「…あったかい?」
「なんだ、引っ張っていってくれんのか?名雪は気が利くなぁ」
「わ、そんなことしないよ〜」
照れ隠し成功。我ながら完璧。どうせならだっこして運んでいってくれよ、と言ってより完璧にしようと思ったが、最終兵器を繰り出されたら困るのでやめた。
「あ」
ふと、名雪が立ち止まった。
「きれい」
そう言いながら空を仰ぐ。
「夕焼け」
「……ああ」
名雪の見つめる場所━━川の向こうに見える街並みのもっと向こう━━では今日の仕事を終えた太陽が嬉しそうにこの街を赤く照らしていた。人はそれを夕焼けと呼ぶ。
「ホントに、きれい」
夕焼けなんか見たのは、いや見ようとしたのは久しぶりだったから。
「……ああ」
いつも通学の時通っているのに、気づかなかった。
川沿いであるこの道からは水に光が反射して、夕焼けがとても綺麗に見えるのだった。
「すごーい……」
名雪はすっかり見入っていた。でも祐一は夕焼けよりも、名雪に見とれてしまっていた。
夕焼けをバックに赤く染まった名雪はそれはもう綺麗で。
ちょっと、足の痛みを忘れた。
「……ありがとね」
ふと名雪がそんなことを言う。
「なんだよ、急に?」
「買い物つきあってくれて」
笑顔だった。つい10分前にヤーサン顔負けの脅迫で祐一の度肝を抜いたとは思えないような、天使のような笑みだった。
祐一はちょっとあきれ顔で、言った。
「……つーかあんな脅しといてありがとうってのもないだろ……」
「……う〜、脅しじゃないよ」
笑顔が一転、拗ね顔になる。
「脅しだろ、どー考えても」
「お願いしただけだよ」
「いや、あれは一緒に行かないと殺すって言ってるようなもんだ」
「う〜、そんなことないよ〜」
名雪は非難の声を上げながら、祐一の腕をぱしぱし叩いている。
「いや、あれは実に残忍な仕打ちだった」
「う〜……そんなこといってたら香里に目覚まし聞かせるよ」
「な……卑怯だぞ」
「どうなの?」
「……ごめんなさい」
「うむ、よろしい」
泣く子も黙る、とはこのことだった。
「くそ……変な弱味を握られてしまった」
祐一は名雪に主導権を握られたのが悔しいのか、拗ねていた。
まるで子供のようなその姿が、妙におかしくて。
「ぷっ」
見ると、隣で名雪が笑いをこらえていた。
「なんだよっ」
「あははっ、なんか祐一かわいい〜」
「うるせっ」
「あははっ」
「……ふん」
祐一はまた拗ねた。いつもはからかう側だが、いざ、からかわれる側に立つと祐一は弱いのだった。顔を真っ赤にして、子供のように拗ねるのだった。名雪はそんな祐一を見るのが好きだった。
「いつまで笑ってんだよっ」
「だって、おかしいんだもん」
「……ちくしょー、これでもし聞かせやがったらジャイアントスイング20回だかんなっ」
「あははっ」
すると名雪は、ぴょん、と祐一の前に出た。
「だいじょーぶだよ」
そして、
「あの目覚ましは、だれにも聞かせないから」
笑顔で、
「だって、」
言った。
「あの言葉は、わたしと、祐一だけのものだから」