『ハナウタサウダーデ』ぼんやりと、本当に、ぼんやりと。覚えていることがあった。時は全てを洗い流して、そのことに自分は助けられたり、絶望したりする。今までも、多分、これからも。ところで、覚えていることがあった。小学校の三年のときだ。夏だった。「ほら祐麒。早くお風呂」「いいよ、先入って」「なんで? 一緒に入らないの?」入らねーよ。確か、そう言われた。弟は機嫌が悪かった。蝉の鳴き声が聞こえて、プールの匂いがして、夜にはどこかから盆踊りの音楽が聞こえてきて。窓から入る夜風に目を細めながら、ああ夏なんだな、なんて一人で思っていた。夏休みは友達と目一杯遊び回って、たまに門限を破ってこっぴどく怒られたりもした。確かその時も、仲のいい子と一緒に行く約束をしていた。電話か、直接会ったときだったか、何でだったかは覚えていないけど。とにかく急に自分はその予定をキャンセルして、弟の部屋のドアをノックした。花火大会、一緒に行かない?夏休みの最後の日。ふたりで出かけた、それがその夏の最初で最後の日だった。わたあめを手に持って、浴衣を着て、いつもと違う髪型で。夜空に咲く花の下、確かにあのときの自分たちは、無敵だった。我が弟の福沢祐麒が、恋をしたらしい。そのことに気付いたのは、昨日の夕飯後に当の本人が突然祐巳の部屋を訪ねてきてこれまた突然とある質問をしてきたときだった。「あのさ、あの王子の恋人役の子、なんて名前?」おそらく祐麒が言う『王子』というのはつい先日催されたリリアンの学園祭での山百合会の出し物であるところの『人魚姫』に出てくる令さま演じる王子様のことであって、人魚姫の役は由乃さんで魔女の役がお姉さまで祐巳は魔女のアシスタントとかいう地味な役だったりしたことは多分今は関係なくて、その王子様の恋人役というのは祐巳と由乃さんに妹がいないばかりに人手が足りない薔薇の館にお手伝いとして来てくれていた松平瞳子ちゃんその人であって、弟は花寺学院生で、周りは男とかオカマとかホモとかばっかりで、でも弟はなにか間違いでも起こっていない限り至ってノーマルで、その質問を口にしたときの弟は頬を微妙に赤く染めたりなんかしちゃったりしてて、でも祐巳はそんなことにもろくに気付かないで「何、瞳子ちゃんがどうかしたの? あ、もしかして祐麒、惚れたなー」とか冗談で言ったら顔真っ赤にして狼狽えられてそっぽ向かれてそんなんじゃねーよとか言われて速攻で部屋から出ていかれてなんだアイツとか思って、まてよと冷静になってよく考えてみたら自分のデリカシーのなさ及び驚愕の事実が露骨に浮かび上がってきてうわあああああああああとベッドにルパンダイブしてうーうー唸ってたらいつの間にか寝てて陽はまたのぼりくりかえしてたりしたのだった。つまり。我が弟の福沢祐麒が、我が後輩の松平瞳子に、恋をしたらしい。でもって、演劇部に入ったらしい。それについてちょっと口論になったせいで、最近弟と祐巳は微妙に気まずいらしい。らしいっていうか、気まずい。そんなある日の昼休み、ミルクホールへ向かう途中の廊下で瞳子ちゃんに会った。廊下に突っ立って窓の外をぼんやりと眺めている。ちょっとアンニュイな横顔。気まずい。けれど無視するわけにも、もちろんいかない。「瞳子ちゃーん」わざと元気に手を振って声をかける。数メートル先の彼女はゆっくりと祐巳のほうを振り向いた。一瞬表情に変化があった気がしたけど、遠目からではよくわからない。「祐巳さま」「久しぶりだね」「……三日ぶりです」瞳子ちゃんは呆れ顔で言った。確かに会ったのは学園祭の後夜祭以来、久しぶりというほどではない。でも今まで彼女とは薔薇の館で毎日会っていたから、なんとなく祐巳はそんな気分になったのだった。彼女のほうは、そうは思わなかったのだろうか。「ところで、何見てたの?」「何、って……別に、ちょっと窓の外を」瞳子ちゃんの答えは曖昧だった。それはそうだろう。別に空をUFOが飛んでいてそれを凝視していたなんてこともあるまい。ただなんとなく景色を眺めていただけ。何を見ていたのなんて訊く方が、不自然。祐巳が訊きたいのはそういうことじゃなくて、窓の外を見ながら何を考えていたのかということだ。そのことに気付いて、ちょっと自分に嫌気がさした。でも。意識するなという方が、無理だ。「祐巳さま」名前を呼ばれて、思考から覚める。「ん?」返事した声、ちょっと変だったかもしれない。そして瞳子ちゃんはといえば、なぜか心なしか緊張している様子だった。「……」しばし逡巡。いつだってハッキリした態度の彼女らしからぬ迷いが浮かんだ表情。沈黙が長く感じられる。けど、祐巳がどうかしたの、と声をかけようとしたその瞬間、意を決したように瞳子ちゃんは言った。「あの、祐巳さまは」「うん」「祐巳さまは弟さんのこと、どう思われてるのですか?」「えぇ!?」思わず大きな声が出た。廊下を行き交う生徒が驚いてこちらを振り向く。慌ててなんでもないなんでもないと手を振って、瞳子ちゃんの手を引いて階段の踊り場へ身を潜める。「ふぅ」「もう、こんなことでいちいち隠れなくても」「だって」びっくりした。すっごいびっくりした。ウソ発見器が鳴ったみたいに心臓が飛び跳ねた。もしかして瞳子ちゃんには自分の考えてることなんて丸わかりなんじゃないだろうかとまで思った。「それで、どうなんです?」祐巳の顔を覗き込むようにして迫ってくる。頭の左右で揺れるおなじみの縦ロールが今日はやけに威圧感を醸し出していた。「え? あー……」曖昧な言葉を漏らす。正直、答えたくない。というか、自分もよくわからない。けど真剣な表情の瞳子ちゃんを見て「私、そんなにブラコンに見える?」などと茶化すわけにもいかず、祐巳は落ち着かない視線のまま答えた。「別に。弟は弟だよ」「はっきりしませんね」「だから。別になんとも思ってないって」よく考えれば、別にこの会話にやましいところはなにもないのかもしれないのだ。瞳子ちゃんの質問だって祐巳が勝手に深読みしてるだけかもしれないのだ。だけど、「ふうん」瞳子ちゃんは不満そうではあるものの一応納得といった表情で頷いた。『弟のことをどう思っているか』という言葉に込められた意味の読みとりにおいて、二人の間に齟齬はないようだった。秋の日が沈むのは早い。帰宅した頃にはもう外は真っ暗だ。今日も、夕飯はお父さんとお母さんと三人で食べた。祐麒まだ帰ってきてないの、と訊くと。「部活で遅くなってるんじゃない?」最近ずっと、こんな感じだ。このところ、ろくに顔も合わせていない。祐巳が、ちょっと気になる話を耳にしたのは学園祭が終わった次の日のことだった。人魚王子の役の男の子がかわいい。かっこいい。祭りの余韻がすっかり消え去ってしまった朝の教室。そんな会話が当の本人の姉の前で密やかに、だけど力強く交わされていたのだった。かわいい、というのはまだしも。祐巳はマリア様とタイマンが張れるほどの慈悲深い笑みを顔面に貼り付けながらしみじみと呟いた。たとえ時代が何周回ってもヤツが『かっこいい』と称される日はこないと思ってたわ。もしかしたら、人魚姫のお芝居が人魚王子とかいう謎のオリジナルキャラクターを加えてアレンジされるような時代には、ああいう男がうけるのかもしれない。まったく害のなさそうな、いかにも優しそうな顔。そこそこの身長。前世はタヌキ。だけど、あいつは生徒会長で、リリアンの学園祭にゲスト出演して、緊張するだの俺には無理だの散々愚痴をこぼしておきながら本番では堂々と自分に与えられた役を演じきってみせたのだった。かたや祐巳は紅薔薇のつぼみという自分の地位を持て余している、魔女さまの頼りないアシスタントだ。悔しいけど今のアイツは、弟だという贔屓目を抜きにしても、いい男だった。「ブラコン」呆れたように由乃さん。しかも隣では蔦子さんがうんうんと頷いている。昼休みの教室。窓際、教室の一角はすっかりこども悩み相談室の様相を呈していた。「な、違いますっ」祐巳は慌てて否定するが、由乃さんは「いーや、違わないわね」と腕を組んで首を振る。「で、そのぶらこん祐巳さんは弟が取られちゃうみたいで不安なんだ?」「ぶらこんはさておき、まあ、そういうことになるの、かな」「何かはっきりしないなぁ」どうも祐巳は弟のことになると態度が曖昧になるらしかった。「で、原因はまたあの……」由乃さんの言葉に祐巳は先手を打つ。「瞳子ちゃんは何も悪くないのよ。原因は全部私」「なんだ、わかってるんじゃない」蔦子さんのストレートな言葉に由乃さんが反応した。「どういうこと? 蔦子さん」「だって、その二人は普通に健全な恋愛をしているだけでしょ」「でも、祐巳さんにあんな質問浴びせるなんて」なおも噛り付く。由乃さんには以前、お姉さまとのすれ違いで随分心配をかけさせてしまった。それに瞳子ちゃんが無実とはいえ絡んでいたものだから、彼女の話題には少し攻撃的になってしまうところが由乃さんにはある。それだけ心配してくれているということをありがたく思う反面、瞳子ちゃんは根は全然悪い子じゃないんだよということを祐巳は由乃さんに伝えたかった。「弟をどう思ってる? だなんて、デリカシーなさすぎ」「それは、祐巳さんがぶらこんだからそう思うだけで」「……まあ、それはそうかもしれないけど」なんだかよくわからないが納得されてしまった。というか、そんなにブラだのコンだの連呼されるとさすがの祐巳もへこんでくる。「あの、二人とも……」「まーあまり無理して考え込まないほうがいいよ、祐巳さん」祐巳の抗議の試みも空しく、すでに話題は収束へと向かっているようだった。「またあの子にイジメられたら私が代わりに戦ったげるからね」「あはは……」由乃さんが竹刀を構えるポーズをして意気込む。剣道部ライフは順調らしい。祐巳は苦笑いでそれに応える。蔦子さんが祐巳の肩を叩いて言った。「また何かあったら遠慮なく相談して」「ん。ありがと」そう。ただちょっとだけ、びっくりした。それだけのこと。なんか偶然だな、とか。これが運命ってヤツなのかな、とか。そんなことをちょっとだけ思ったりした。それだけのこと。たぶん。だけどそんな風に考えていた祐巳はやっぱり甘くて、思ったよりも自分の心はぐちゃぐちゃしてて、それがある日ひょんなことから顔を覗かせた。そんな、バカみたいな一日。その日の夕飯は、久しぶりに祐麒も揃って家族四人で食べた。生徒会のこと、それから部活のこと。いつになく祐麒は饒舌で、だから、祐巳はてっきり弟の学校生活は順風満帆なのだとばかり思っていた。だけど夕食後、両親が席を立って二人になって、久しぶりの世間話をしているときだった。「えぇーっ!?」「しーっ!」祐麒に口を押さえられて祐巳はもごもごと変な声を出した。キッチンにいるお母さんの反応が薄いのは娘のそんな大声には慣れっこだから。お父さんは今頃トイレで頑張っているだろう。父は毎日、朝晩二回の大きな用を欠かさない。それはさておき。「……いじめ?」「だーかーらー」そんな大袈裟なことでもないけどさ、と前置きしてから祐麒は演劇部に入ってからの学校生活の一部を語りだした。簡単に言うと。派閥やら何やらいろいろと難しい問題が存在する花寺学院において今まで中立の立場だった祐麒が、演劇部に入ったことによって文化系の派閥に属してしまった。で、体育会系からなんかごちゃごちゃ言われたと思えば逆に演劇部で微妙に贔屓扱いされたり、さらにそれを良く思わない部員もいて近く開催される花寺学院演劇部の定期公演の舞台の練習でのまとまりがなんだかいまいちだったり。と、なんか色々あるらしい。まあ、なんというか。「メンドクサイねぇ」ほんと、面倒臭い。祐巳は思った。「まあね。でも、しょうがない」「なんで?」ちょっと不機嫌な声。祐麒がそうやって引き下がるのは、なんだか違うと祐巳は思った。「そういうもんだからさ」返ってきたのは、そんな悟ったような答え。確かにそういうのには口で説明できないこととかもあるだろうし、祐麒だってまだ状況を完全に理解できてる訳でもないのだろう。それはわかってる。わかってるけど。祐巳は弟の顔を見ながら言った。「でも、祐麒はそれでいいの?」「はあ?」祐麒は何を言ってるんだこの姉はという表情で見つめ返してきた。祐巳だって何を言ってるかなんて、それこそ口じゃ説明できない。だけど、だけど……「ねぇ、プリンひとつあまってるんだけど、あなた達食べる?」プリン!お母さんの言葉に祐巳の意識は180度転換した。持ってきたひとつのプリンが祐巳と祐麒の間に置かれる。テーブル越しに二人の視線が交錯する。「ジャンケン、ホイ」唐突に祐麒がそんなことを言うもんだから、祐巳は思わずチョキを出してしまった。「いえー。俺の勝ち」目の前で振られるグーの拳。むっかー。「じゃーこれ俺のね」「だめ! 今のなしっ!」早速プリンに手をつけようとする祐麒を呼び止める。「勝負っ」「今しただろ」「もう一回! 別ので!」お姉さま譲りの負けず嫌いさと由乃さん譲りの押しの強さで祐巳は再戦を迫る。祐麒はしょうがないなという表情で席に座り直した。「で、別のって? 何すんの」「……なんだろ」「おいおい」「あーあー、腕相撲」「腕相撲?」祐巳は祐麒と腕を組んで肘を突いて、そのまま左に45度ほど腕を倒した。「このくらいでいいかな」「って、ハンデ付きかよ」「当たり前じゃない。私はか弱き女の子よ?」「はいはい」「それでは行きます。レディー……GO!」負けた。「はい終わりー。これ俺のね」「待ってっ! もう一回! ハンデ60度で!」「……」「ほら、早くっ」「……」負けた。「今度こそ、終わりね」祐麒はそう言うと、ちょっとふふんと笑ってみせた。その顔を見てるとなんだかすごく、腹が立って。「だめ、もう一回」「やーだね」胸の奥で、張りつめていた何かが切れる音がした。「もう一回っ」「しつこいなぁ……って祐巳!?」泣いていた。いつの間にか、涙が。溢れ出すと、止まらなかった。「バカっ。祐麒のバカ」「な……」「バカぁっ」祐麒の狼狽した表情が余計に祐巳の感情を逆撫でた。「わかったって。やるよ」「いらない」「はぁ?」「いらないっ」祐麒の手を跳ね除ける。慌ててトイレから出てきたお父さんが何事かとリビングに入ってきたが、すでに事態は収拾不可能になっていた。「あーもう、訳わかんねぇっ」祐麒はそう吐き捨てるとお父さんを押しのけるようにして部屋を出ていった。ドアが乱暴に閉められる。テーブルの上に、プリンがひとつ。祐巳は駄々をこねる赤ん坊のように、ただただ泣きじゃくった。そんな、バカみたいな一日。「バカ」放課後。薔薇の館に行こうと祐巳に声をかけた由乃さんは、祐巳の言葉を聞いて開口一番、こう言うと席を立った。鞄を持って教室から出て行く。数人の生徒がちらちらと視線を送る。蔦子さんが机の間を縫うようにして、ゆっくりと祐巳の席にやってきた。「今日くらいは、お勤め休んでも構わないわよね?」祐巳は力なく頷いた。玄関を一歩出ると、そこはもうどしゃ降りの雨だった。マリア像の周りに色とりどりの傘の花が咲いていた。像の前まで来て蔦子さんと並んでお祈りをする。けど、再び歩き出しても何を祈ったのかよく思い出せなかった。由乃さんの言葉が胸に突き刺さっていた。「バカ」「っ……」「でしょ?」蔦子さんは紺色の傘の下で微笑みながら言った。「多分、由乃さんもいろいろ考えてたんだと思うよ」「……うん」「だけど、多分悩んで悩んで悩みすぎて、結局わけわかんなくなっちゃって。だからあんな風にキツイこと言っちゃったのよ」「……うん、そうだね」それは、わかってた。だから、祐巳は由乃さんに感謝しなくちゃならない。あの言葉が目を覚ましてくれたんだから。ちょっと、ダメージも大きかったけれど。「明日お礼、言っときなよ」「うん」校門の外は車通りもまばらで、車道にできた大きな水溜りに水滴がいくつも跳ねていた。朝のニュースの天気予報で降水確率80%と言っていただけあって、行きかう人々は皆、傘を持って歩いている。二人で並んで傘を差しながらだと、歩道はちょっと狭い。たまに前から人が来るたびに二人は縦に一列になる。傘同士がぶつからないように気をつけて、すれ違う。「私、どうしたらいいんだろう」呟く。迷ったけれど。悩んだけれど。だけど、どうしても答えは出なかった。一人で考えていると、降り注ぐ雨の重圧に押しつぶされてしまいそうだった。傘を持つ左手が、重い。だけど、祐巳の発した声は雨音にかき消されそうになりながらも、蔦子さんの耳に届いたようだ。「祐巳さんはさ」蔦子さんが心持ち傘を高く上げる。祐巳もそれにつられて左手を少し持ち上げた。「弟さんのこと、嫌いなの?」「そんなっ。好き。大好き」祐巳が慌てて身を乗り出すようにして言うと、蔦子さんは苦笑しながら続けた。「じゃあ、松平瞳子嬢は?」ちょっとだけ、いつものカメラちゃん入った呼び名で。祐巳は、彼女とはいろいろあったけれど、でも今は好きと答えた。「じゃあ迷う事なんてないわよ。やるべきことなんて、ひとつしかないでしょ?」「ひとつしか……」やるべきことは。それは、何?とか考え込んでたら。「うーん、祐巳さんは悩み顔もいいなぁ。撮りたい」ときたもんだ。「……蔦子さん?」「悩め悩め〜」「もう、私今すごいマジメに考えてるのに〜」「その顔、いただき」パシャ。「……え?」いきなりフラッシュが焚かれて、呆気にとられる。「祐巳さんの、そういう表情が好きなのよ私」カメラを持った手で祐巳の顔を指さして、蔦子さんは。「百面相。最近、ご無沙汰だったから」「……そう、だった?」「祐巳さんたら、いっつもどんよりした表情ばかりしてるんだもの」一歩、祐巳より前へ。そして振り返ってびし、と指をさして一言。「とりあえず、笑いなさい」ひとりぼっちがせつない夜、星を探してる。ラジオから流れるメロディーに合わせて軽く口ずさむ。お風呂上りのマイルーム。明日君がいないと、困る。曲が終わったところでラジオを止めて、ベッドに寝転がる。瞼を閉じて、一週間前の、三日前の、昨日の、そして今日の出来事に思いを馳せる。そのあとちょっとだけ、ずっと昔のことを思う。祐巳は祐麒のことが、大好きだ。瞳子ちゃんに対する見方もどんどん変わってきている。たまに憎たらしく思うことがあっても、根は可愛いくて、いい子だ。二人とも、自分にとって大切な人なのだ。なら、やることは決まっていた。まずは祐麒に台本を借りなきゃ。思い切ってドアをノックして、劇のあらすじ知っておきたいからとでも言えば貸してくれるだろう。そうしたらそれに、ちょっといたずらをしてやるんだ。明日には由乃さんにきちんとお礼を言って。そして、瞳子ちゃんにしっかり呼び出しをくらわせてやらなくちゃ。よし。祐巳はベッドから跳ね起きてひとつ伸びをする。そうすると、なんだか色々なことがほぐれていったような気がした。祐巳の部屋のドアから祐麒の部屋のドアまでの距離はほんの1,2メートル。今の祐巳には決して短い距離じゃないけど、何とかたどり着いた。胸に手を当てて深呼吸をひとつ。一歩前に踏み出すために、祐巳は、弟の部屋のドアをノックした。浮き足立つようなざわめきの中、照明が落ちる。視界が闇に包まれる。体育館の闇は、なぜだか胸を詰まらせる。観客席に舞台開始のアナウンスの声が響く。いよいよ、劇が始まる。祐麒はペットボトルのお茶に口をつけた。薄暗い舞台裏。ステージから役者の声が聞こえてきた。声量、滑舌のよさ、何もかもが他の部員のみんなのほとんどにはあって自分にはないものだ。だけど。やれるだけのことはやった、と思う。目を閉じる。今日までの地獄のような猛練習の日々が思い返されるかと思えばそんなことはなくて、瞼に浮かんだのは、姉の顔だった。久しぶりに二人で話をした、あの日の祐巳の泣き顔だった。いつだって彼女は、自分のことを心配してくれていた。ただあの時は祐巳も祐麒も、不安定だったのだと思う。自分が何のせいでそうなっていたのかも姉がなぜ近頃いつも不安そうな表情をしていたのかも、多分わかっている。そしてそれはどうしようもないことなのだということも、わかっている。ただ自分がもう少しうまく振る舞えたら、もう少し自分に気配りがあったらと祐麒は何度も後悔してきた。でも今は本番前だ。舞台に集中しなくてはならない。祐麒は自分の着ている衣装をもう一度確かめた。頭、首、上、下、靴下、靴。腰まである髪やスースーする脚も慣れないけど、足下が一番気になった。ヒールの高い赤い靴。歩きにくいったらない。それに、気をつけないと転んでしまう可能性もある。この靴だけは変えられないだろうかと意見を出したのだが、それが通ることはなかった。所詮新入り、仕方ない、寧ろ役を貰えただけありがたい。そう思うことにしている。「福沢、そろそろ出番だぞ」部員の一人に声をかけられる。「おう」と返事をして、祐麒は頬を二、三度叩く。口をあいうえおの形に大きく動かす。取り合えず思いつくものを適当にこなして緊張をほぐした。いよいよだ。その時、ふと台本が目に入った。数え切れないほど目を通して、マーカーの印や書き込みで随分汚くなっているその本に、本番直前に目を通しておきたくなった。台詞はほとんど暗記したといってここ数日はろくに目を通してなかったのに何を今更とも思うが、なんとなくあやふやにしか覚えていない台詞があるような気もしてくる。時間がない。急いで台本を手に取りページをめくった。と、ページの隙間から何かがこぼれ落ちる。祐麒は屈んでそれを手に取った。それは栞だった。微かな明かりを頼りに、そこに書いてある文字を読む。姉の字だった。見慣れたちょっと丸っこい字で、そこにはこう書いてあった。『ガンバ』ガンバは、さすがに古いと思う。「おーい、福沢」「ああ、今行く」台本を置いてステージに向かう。栞はポケットに入れた。お守りってことで。なんだか、緊張が溶けたようになくなっている自分に気付いた。突然、客席から歓声が上がった。それが黄色い悲鳴的要素を多く含んでいるのは、先日のリリアン学園祭の山百合会の出し物による成果。それと多分、彼が着ている衣装による成果。ロングヘアーの金髪のカツラに、下はスカート。ステージには、女装をした祐麒の姿があった。祐巳は思わず膝の上で手を握りしめた。隣に座る瞳子ちゃんの横顔を見る。彼女とは、一緒にこの定期公演を観に行こうと約束していた。館内は暗い。横目では、その瞳子ちゃんの表情を窺うことはできなかった。「初めて会ったときは」一本の低木を見つめながら瞳子ちゃんは言った。「全然、普通だったんですよ」いつかの柏木家での話だ。あの夏が、なんだか無性に遠くに感じられる。出会った頃は、普通だった。お昼休みの中庭。雨上がりの空はからりと晴れていた。飛行機のエンジン音が遙か頭上の青の何処かから、微かに聞こえてくる。「顔がすごい好みだったわけでも、声が好きとかそんなのでもなくて。礼儀正しそうな方だなと思っただけで……あと」「あと?」「どこかで見たことある顔だなぁ、って」瞳子ちゃんは視線を動かすことなく、続ける。「誰だっけ、誰の顔だっけって思って。なかなか思い出せなくて……って、祐巳さま?」瞳子ちゃんが振り向く。一方祐巳はというと、うつむいて口を押さえてふるふる震えている。「あの?」「いい、だいじょぶ、続けて」怪訝な顔になりながら、瞳子ちゃん。「それで、彼の隣に座ってる方を見て、あ、この人だ」「ぶはっ」ダメだった。思いっきり吹き出した。中庭に祐巳の笑い声が響き渡る。瞳子ちゃんが真っ赤なトマトになる。「祐巳さまっ」「なにそれ、意味わかんな……あははっ」「だって、そう思ったんですっ」瞳子ちゃんがムキになって言う。そんな反応がおかしくて、可愛くて、祐巳は笑い続けた。5分くらいは経ったかもしれない。「ふー」「よろしいですか?」祐巳の笑いの発作が収まるまで立ったままただただ羞恥に耐えてきたと思われる瞳子ちゃんが、疲れたような表情で訪ねてきた。祐巳はガッツポーズをしながら、「うん、ばっちり」はぁ。瞳子ちゃんのためいき。上級生にからかわれることがいかに大変かを彼女は今ひしひしと感じているに違いなかった。ところで。「瞳子ちゃん、それ、全然普通じゃない」「はい?」瞳子ちゃんは眉をひそめて聞き返した。祐巳の爆笑タイムが間に挟まれたせいで忘れられてしまったらしい。「瞳子ちゃんと祐麒の、初めての出会いってやつ」「ああ……そうですか?」「そうだよ」数歩だけ歩く。昨日ふった雨もすっかり乾いて固い地面を踏みしめる。「あれって多分、運命の出会いだったんだよ」「運命?」「うん」祐巳は振り返って言う。瞳子ちゃんは少しだけ顔をうつむかせた。「私にはよく、わかりませんが」「えー、わかるよ」にっこり笑って。「弟の顔見て、誰だっけって思ったら隣の人だったんだもんね」「まだ言いますか……」「瞳子ちゃんらしくない天然ボケ。これはきっと、いつもと違う何かがそうさせたに違いない。そう、これは運命」「もう、からかうのも程々に」「瞳子ちゃん、祐麒のこと、好き?」言葉に、息を呑む。だけどすぐに祐巳の視線を受け止めて、それを倍返しできるのが瞳子ちゃんだ。はっきりと彼女は言った。「好きです」「うん、よかった」祐巳は自然と微笑んでいた。瞳子ちゃんの清々しさが気持ちよかった。「祐麒も、瞳子ちゃんのこと大好きだよ。それは姉の私が保証する」あいつも一目惚れだしね、と付け加えて。「だから」まっすぐ、見つめた。さっきとは違う、何かを感じたのか。瞳子ちゃんは驚いたような表情で見つめ返してくる。「祐麒を、よろしくね」自分は、笑っていたと思う。笑顔でちゃんと、言い切れたと思う。だけど。「……祐巳さま」今にも、溢れてしまいそうで。走った。走って、中庭から飛び出して、走った。胸に瞼に、こみ上げてくるものを堪えて、走った。走った。「やほー」小さく声をかけられる。振り返ると、そこには見知った顔があった。「聖さま」手をあげるにかっと笑うその美人さんは、まぎれもなく佐藤聖さまその人だった。「隣、いい?」「あ、はい」祐巳がコートやバッグをどかした椅子に腰を下ろすと、聖さまは息を吐いた。「いやーまいったまいった。遅刻しちゃったよ」話によると、電車を降りて駅から花寺学院の校舎まで全速力だったらしい。そのわりにはあまり息は上がっていないみたいだ。さすが聖さま。ちなみに遅刻の理由を訊くと「寝坊」という答えが返ってきた。さすが聖さま。「聖さまも、見に来られたんですか」「まあ、元お隣さんだしね。今日ヒマだったし」まあ、その程度の理由で見に来る人もいるだろう。そういう人が沢山いてこその定期公演ともいえる。「ていうか、よく私の座ってる席わかりましたね」「そりゃキミ、なんたって私は佐藤聖ですから」「ですから?」「祐巳ちゃんのいるところなんて目を閉じてちょっと念じれば、たちどころにわかるのよ」さすが聖さま。「もう。真面目に答える気ないですよね?」「まあまあ」そう言ってコートを脱ぎながらステージを眺めて、聖さまは言った。「あれー、あの女装してる彼、君の弟じゃない」そうなのだ。祐麒を見なければ。悪いけど聖さまとじゃれ合ってる場合じゃない。というわけで、そこからはステージに集中した。「ところで聖さま、確か弟に会ったことほとんどないですよね。こんな遠くから見つけられたんですか?」「祐巳ちゃん顔だからね」理由になるんだか、ならないんだか。劇は、人魚姫だった。リリアンの学園祭で山百合会が演じた、あれだ。まあ原作と比べて相当アレンジされているわけだけど、その出来が良いということで花寺の演劇部の目にとまったらしい。ちなみに台本を書いたのはかの新聞部OB、築山三奈子さまだ。いつかの『いばらの森』事件といい、彼女は物書きでも目指せばいいと思う。それはさておき。男子高で人魚「姫」の劇をやるか、普通。女性が男装をするのと違って男性が女性の恰好をするのは、なんというか、色々と際どい。一歩間違えれば笑えないコメディだ。ところがステージの上の当の女装人魚姫は、意外にもギャグっぽさがほとんどないのだった。多分、出演者のそれぞれがすごく真剣に演技に取り組んでいるからなんだろう、と祐巳は思った。表情が違う。オーラが出てる。観客席からも初めは苦笑を含んだ笑い声が少し聞こえていたけど、今は皆が舞台に集中していた。そのステージは今、終盤に差し掛かっている。王子とその恋人の逢い引きのシーン。それを人魚姫が影から見つめる。得体の知れない胸の痛みに耐えながら。恋人を演じるのは祐麒だ。山百合会の舞台での瞳子ちゃんと、同じ役。「ね、祐巳ちゃん」耳元で聖さまの囁く声がした。「ところでさ」「はい?」「そちらのお隣は、お連れさん?」聖さまがちょっと身をずらして祐巳を挟んだ反対側の席を覗く。そういえば、瞳子ちゃんの紹介がまだだった。というか、声をかけられなかったし自分もステージに集中していたので、舞台が始まってからはほとんど会話がなかった。瞳子ちゃんはきっと気を逸らされたくないだろうけど、ちょっとお互いを紹介するだけならいいかなと思った。先代ロサ・ギガンティアがどんな人だったのか、瞳子ちゃんもちょっとは興味あるかもしれないし。「あ、この子は私の後輩の……」そう言って、振り向いて、声が出なかった。凛とした、表情だった。眼は、じっと前を見つめていた。ステージの上に向かって、限りなく真剣で、限りなく情熱的な、眼差し。本気な人の顔だ。そう思った。息が詰まって、頬が熱を帯びているのを感じる。なんだか、こっちまで照れてしまう。そして、あの瞳子ちゃんにこんな表情にさせる我が弟のことを、誇らしく感じた。でも、この胸の甘酸っぱさの理由がそれだけではないということも、判ってる。祐麒。いつの間にかあんなに遠くなってしまった最愛の弟の姿。「祐巳ちゃ〜ん」聖さまの声で我に返る。「後輩の、何さん?」そっとしておこうと思った。瞳子ちゃんの気を逸らすようなことは、したくないと思った。「田中ドリ子さん」「は?」「ほら、集中集中」聖さまの顔をぐいっと無理矢理前に向ける。その時、ステージの上でちょっとしたアクシデントが起きていた。去り際、王子の恋人がハイヒールに躓いて転びそうになったのだ。だけどステージに微かに動揺が走る中、祐麒は素早くバランスをとり直した。そして堂々と舞台の上から姿を消した。最後にちょっとミスをしかけたけれど、紛れもない素晴らしい演技だった。その間、瞳子ちゃんはしっかりとステージを見据えていた。姉の祐巳が不安のあまり目を逸らしたアクシデントにも、少しも動揺を見せることなく。きっと瞳子ちゃんは、心から祐麒のことを信頼してるんだ。適わない。そう思った。そして、適わなくていいんだ。祐巳はそんな確信に近いものも同時に感じていた。あいつが転びかけたときに舞ったミニスカートの裾からちらりと見えたパンツ、あれがまだ白かったころを覚えてる。なぜ白いのをはくのをやめたのかも知ってる。それを知っているのはお父さんとお母さんと、そして祐巳だけなのだ。だから、それでいいのだ、と思った。微かに、本当に微かに。歌を口ずさんでいた。自分にさえ聞こえないような大きさで。一瞬、何の歌だっけと考えて、すぐに思い出した。ああ、これは、盆踊りの歌だ。「祐麒君かっこよかったじゃん、祐巳ちゃん」大丈夫。もう泣かないよ、お姉ちゃん。泣いてない。「祐巳ちゃん?」泣いてないよ?ぼんやりと、本当に、ぼんやりと。覚えていることがあった。時は全てを洗い流して、そのことに自分は助けられたり、絶望したりする。今までも、多分、これからも。ところで、覚えていることがあった。小学校の三年のときだ。夏だった。「ねえ、ちゃんと風呂入ってる?」「もちろん」「えーおまえ姉ちゃんと風呂入ってるんだー」うん、入ってるよ。確か、そう答えた。真顔で。バカだ。蝉の鳴き声が聞こえて、プールの匂いがして、夜にはどこかから盆踊りの音楽が聞こえてきて。窓から入る夜風に目を細めながら、ああ夏なんだな、なんて一人で思っていた。夏休みは家にいることが多かった。ある日、夕食後に部屋で夜風に当たっていた。窓の向こう、夏の夜の喧噪の隙間から微かに、ノックの音が聞こえた。花火大会、一緒に行かない?夏休みの最後の日。ふたりで出かけた、それがその夏の最初で最後の日だった。わたあめを手に持って、下駄を履いて、浮き足立つようなざわめきの中、姉と手を繋いで。夜空に咲く花の下、確かにあのときの自分たちは、無敵だった。みんなと別れて、廊下を走る。玄関で軽く息を整える。靴を履き替えて、視線を上げる。目に入った姿に近づいていく。ゆっくりと、歩いて。「おつかれさま」この笑顔が、好きだ。「どうだった?」「かっこよかった」こっちが思わず赤面してしまうようなストレートなところが、好きだ。「そりゃ、どうも」歩き出しながら、あさっての方向を向いてそう答える。「素直じゃありませんのね」と呆れ顔で、でも笑いながら瞳子は言った。そんなことはない。自分が素直になれないのは、限られた人が相手のときだけだ。隣を歩く瞳子がいつのまにか祐麒の手を握っていた。不器用な握り方。祐麒も握り返した。ちょとだけ彼女が嬉しそうな顔をしたような気がした。目の前に二手に分かれた道が見えてきた。復路は左。平坦だけど、長い長い道のり。「行こっか」「行きましょう」笑い合って、手を引いて。この道を歩く。
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