|
玄関を開けると、なんだか懐かしい匂いがした。 後ろ手にドアを閉める。鍵もかけずにスニーカーを適当に脱ぎ散らかして中に入る。 なぜか入り口で丸くなっている飼い猫を軽く撫でて部屋を見渡す。見渡す、というほどの広さもない五畳半の部屋は自然光の中で見るとやけに埃っぽい。掃除なんて最後にしたのはいつだったろうか。チカは欠片も綺麗好きではないので、雑誌やCDが乱雑に散らばる僕の部屋に文句の一つも言わない。そして勿論、掃除もしてくれない。誰も人の部屋を好きこのんで片付けなどしない。当たり前のこと。 だけど、自分が出したゴミくらいは自分で処理してくれてもいいんじゃないかとも思う。烏龍茶の空きペットボトル、チュッパチャップスの袋、使いかけのまま放置されたリップクリーム。専用のものが洗面台にしっかり常備されているのを失念して買ってきた赤い歯ブラシも、勿論持って帰らないので困っている。仕方ないのでそれで猫の毛並みを整えるふりをしてみたりする。そのとき決まって猫は不機嫌そうな顔をする。 窓を開け放つ。静かに風を感じる。薄ら青い空と形を成さない雲、街並み。 何もすることがない、穏やかな平日の午後。 通学の電車の中で今日の講義が終わった後の予定が特に無いことを知りまず初めに思ったことは、半日過ごせばまあ何かしらの予定が入るだろう、ということだった。ここ最近何もしないで過ごしたなどという日の記憶が無いように、今日もその通りに進むのだと理由もなく考えていた。 しかし結局友人とそれらしい会話がなされることもなく、携帯の履歴が増えることもなく、バイトも休み。ぼんやりとこのアパートに戻ってきた僕は、それでも暇を持て余すことはないだろうと感じている自分に気付いて少し驚いた。昔の僕はこんな風に過ごす日も多かったような、そんな気がした。 ベッドとどちらにしようか微かに悩んで、だらりと床に身を投げる。両手両足、背中に腰と総動員して地面を均す。生活臭のする雑多なものが脇に追いやられて、僕の背中に久しぶりの絨毯の感触があった。 一息つく。 唐突に聞こえる音が切り替わって、風の音が、子供の歓声が耳に届いてくる。近くに大きい道路が通っているせいで車の走る音が騒がしい。外から内へ。目覚まし時計の針の音。冷蔵庫のモーター音。猫が発していると思われる音が何も聞こえてこない。本当に生きてる? 内から、外へ。 もーいーかい。子供達のやっている遊びがかくれんぼだと知って少し微笑ましくなる。まーだだよ。途切れ途切れに聞こえる車の音が風を連れてくる。僕の周りの空気が少しだけ変化して、街の音を身に纏う。瞼を閉じる。 外から、内へ。 脳裏をいくつかのセンチメンタルな物思いが巡る。しかしそれは何も残すことなく消えていく。高校卒業と同時に実家を出て一人暮らしを初めてもうすぐ二年になるが、僕はこの暮らしにまだ何の実感もない。そんな風にだらだらと続いた、就寝前のような思考が一瞬、停まる。次の瞬間、瞼の裏の暗闇に、いつか見たような夢を見る。メルヘンなテーマパーク、SFチックな街並み、都会の雑踏。次から次へと浮かびきらずに消えていく、景色。身に纏っていた街の音が質量を持って迫ってくる。その音の中にいくつもの夢が詰まっているような、それが熱を発しているような暖かさを感じるそれを消えかけた景色の尻尾ごと両腕で引き寄せて、 抱き締めたのは自分の体だった。 チープな電子音が鳴っている。どこか遠くから聞こえてくるような気がしたそれは、手を伸ばして探せばそこにあった。いつまでたっても慣れない手つきで操作する。 『会える?今から』 チカからのメールはたったの7文字だった。今どこにいるのかくらい書けばいいのに、と思わず苦笑する。彼女はいつもこんな感じだった。どこか抜けているというか、ただ単に変なのだと思う。 さて、意外な方向から予定が入った僕は一呼吸して素早く跳ね起きた。実に珍しい彼女からのお誘いだ。ちょっとくらい期待したってきっとバチは当たらない。まずは彼女にさしあたっての返事を送る。 『もちろん』 今日くらいはわざと一言足りなくたって、きっとバチは当たらない。 少し逡巡したあと手早くTシャツを着替えて、もう少し逡巡したあとジーンズも穿き替えてついでに髪もセットし直す。財布の中身を確認する。閉め忘れないように、と気付いた窓の外はいつの間にか、日が暮れ始めている。しっかりと閉めて、鍵をかける。 入り口で丸くなっている猫を軽く撫でて、ドアの取っ手に手をかけながらスニーカーを履く。 玄関を開ける。なんだか、街の匂いがする。 |