ある日曜の昼下がり。今日もまた玄関のインターホンが鳴らされた。しかも連打。うるさい。こんなことをするのは、あの人たちしかいない。
「おっはー」木作りの重厚な扉を開いて顔を出した千里に、琉衣は片手をあげて明るく、けど何かを待っているように声をかける。千里はそれ来たとばかりに口を開く。「おっはーは古いですよ。それに、今はもうお昼です」「ナーイス。いやー、最近の千里のツッコミの上達っぷりは目覚ましいなぁ」「あはは」グッと親指を立ててみせる琉衣に千里は思わず苦笑する。見れば、彼女の後ろにはすっかりいつものメンバーが揃っている。「皆さん、こんにちは」そんな彼女らに、千里はいつもの挨拶。「千里さんこんにちはー」「ごめんねー、またお邪魔しちゃって」皆それぞれに挨拶を交わしながら家の中へと入っていく。誰もいなくなったころには、玄関はスニーカー、ブーツ、サンダルとさまざまな種類の靴でいっぱいになった。その数、12組。これが南草家休日の昼間の玄関に置いてあるいつもの靴の数。思い思いに会話を交わしながら廊下を歩く。豪邸といってもいいほどの広さを持ったこの家では、目的の部屋につくまでにもそれなりの時間がかかる。その目的の部屋は、二回の片隅にあった。数々あるほかの部屋に比べると小さめな、けれど千里の大事なものが置かれた、それゆえに思い出が沢山つまっている部屋。南向きだけど、西の方向に1つだけある小さな窓からは溶けるように落ちていく夕日を眺めることのできる部屋。そこから今、音が聴こえてきていた。いや、それは音なんて無機質なものではなくて、不器用だけどもっと生き生きとした……音楽。ピアノ。千里の、大切なもの。思う。自分以外にあのピアノを弾くのは彼女しかいない。確か外に出ていた筈だったけど、さっき玄関に靴があったしすでに家に戻っているのだろう。その音楽が聴こえてくる部屋、目的の部屋の前に立つ。ひとつ息を吐いて、ドアを開く。思ったとおりの姿がある。窓から差し込む陽の光を反射して輝く金色の長い髪、鍵盤の上をたどたどしく流れていく白い両手。「わぁ、シェリーがピアノ弾いてる」「シェリー、こんにちはっ」「Oh! 皆サン、こんにちハ」「はろはろー」「Hello! 琉衣」「ハグ、プリィーズ」「Hug? OK.」ひっしと抱き合う琉衣とシェリー。なんだかこの二人は妙に仲が良い。「シェリーもピアノ弾くんだ」「ハイ。最近千里に習って練習してマス」「千里、ピアノ上手だもんねー」由良の言葉に少し頬を染める千里。「そうでも、ないのですけれど」「そんなことあらへんよ。そう謙遜しなさんな」琉衣。「そうだよー。あたし千里さんのピアノ聴いてすっごく感動したんだよ」ことり。「さすが音楽科の生徒、って感じよね」京子。みんなから口々に褒め称えられる。「……あ、あの私、お茶入れてきますから」部屋を出て行こうとする千里。恥じらいで顔が真っ赤。「あ、千里、ワタシも手伝いマス」「いえ、私一人でも大丈夫ですから。シェリーは皆さんにピアノを弾いてあげて」「あ、シェリーのピアノ聴いてみたい」「そうですカ? ではお願いしマス、千里」「はい。シェリーも頑張ってくださいね」「?」振り向くシェリー。その視線の先には待ちきれないといった様子の聴衆の姿。「今こそ日ごろの練習の成果を見せるときですよ」「ハハ……頑張りマス」軽くガッツポーズの千里にちょっと情けない顔のシェリー。彼女はピアノがそれほど上手くはない。そんな様子のシェリーに微笑んで、千里はドアを静かに閉じた。
つい一ヶ月ほど前の話だ。実際には5分以上経っていた。でもその場にいる全員が、まるで一瞬の出来事の後のように息を呑んでいた。みんな時間を忘れて聴き入っていたから。「千里、すごく上手でシタ」唯一平然とした顔のシェリーが胸の前で拍手をする。それで我に返った皆が次々に手を叩き始める。その音が部屋を包んでいく。「すっごーい!!」ことりが子供のようにはしゃぎながら千里に駆け寄る。「シェリーの話を聞いて上手なんだろうなとは思ってたけど……予想以上ね」葉子がため息混じりに言う。音楽が好きな彼女以外のどのメンバーにしても、意見は同じだった。千里が頬を染める。「そんなにたいしたものじゃ、ないのですけど」「そんなことないって。凄いわよ……」京子が呆然とした顔で呟く。ますます赤くなる千里。「あー。京ちゃんまたぼーっとしてるー」ことりに頬を引っ張られてイタイイタイイタイと喚く京子に部屋が笑いに包まれる。つい一ヶ月ほど前の話だ。自分の家にある大切なピアノで、コンクールでなくてもっと身近な人に演奏を聴いてもらう楽しさを再確認したある午後の出来事だ。それから毎週の土日、そして夏休みに入ってからはほぼ毎日、彼女らは千里の家に通うようになった。そのたびに、ちょっとした演奏会とお茶会が開かれた。
キッチンでアイスティーの準備を始める。手早くケトルを火にかけ、棚から茶葉の入った缶を取り出す。手間はかかるが、千里が客に出す茶をインスタントで済ませることはなかった。戸棚から人数分のティーグラスを出す。キッチンの台に12個の涼しげな透明のグラスが所狭しと並んだ。彼女らが気を遣って遠慮してくれたことはあった。途中で立ち寄ったというコンビニの袋を提げてくることもあった。それは気持ちは嬉しかったけど、だけど茶菓子は別にしても茶だけは自分で出すことにしていた。きっと、喧騒から離れて一人でいる時間も少し欲しかったのだろうと今なら、思う。グラスに氷を入れながら千里は物思いにふけった。カラン、カラン、とグラスが音を鳴らす。自分は人見知りをするきらいがある。そんな自分が皆と今のように親しく付き合えるようになったのは多分、シェリーのおかげだ。異文化の相手ゆえ自分から積極的にコミュニケーションをとらねばと思うようになっていき、それが普段の生活にも徐々に現れていった。また家にホームステイを迎えるというのは会話の話題にもなった。シェリーが友達を家に連れてくることもあった。彼女が促進剤であり、連結点だった。その彼女は今、皆にピアノを聴かせているだろう。けして上手ではなくとも、何事にも一生懸命なシェリーの姿はそれだけで魅力的だ。いつものピアノの練習風景。自分がすらすらと弾いた曲をたどたどしく追っていく彼女の白い指。その彼女は今、皆にピアノを聴かせているだろう。多分、この気持ちは、嫉妬だ。キッチンにケトルが出した甲高い音が響いて、千里は我に帰った。
「だからぁ──」猫談義で盛り上がってる由良と京子をよそに、そこでは今日もいろいろな話題に花が咲いた。「そういや遠子、この前貰ったクッキー、あれめちゃめちゃうまかったで」「あは、本当ですか? ありがとうございますー」「遠子、料理得意だもんねー。いいなぁ」「今度、皆さんの分も作ってきますね」紅茶にお茶菓子。クーラーのきいた部屋で、それなりに優雅だったりする午後のひととき。なのに。「……そういえば、クッキーを焼くのって料理っていうのでしょうか?」またこの子は何を言い出すかなといった目でみつめる皆をよそに遠子は続ける。「だって、薄力粉やらバターやら砂糖やらを混ぜてすくってまとめて形にしてオーブンで焼くだけですよ? 火も使わないんですよ?」「知らへんわ」中華料理で特大フライパンをぐわんぐわんいわせるのでもあるまいし、火を使わない料理があったっていいだろう。「ガスも使わないものをなぜ料理と呼べるのでしょう?」「いえまあ、お菓子作りは料理とはいわないっていいますし」「あら、そうなんですか?」また暴走しかけた遠子を千里がかろうじて止める。彼女はたまに何を考えているのかわからない。「そういえば、このシュークリームも遠子さんが作ったんでしたよね」「はい、そうなんですよー」「あ、そうなん?」琉衣が網かごの中からひとつシュークリームを掴む。「すごくおいしいですよ」「ありがとうございますー」千里の言葉に遠子が笑顔でお礼を返す。
「じゃあ、おじゃましましたー」「また来るねーっ」この日もつつがなく演奏会が終わって、陽がすっかり沈んだ頃。帰路につく皆を見送り終えて、玄関は先程の賑やかさから一転、静かになる。「……千里」シェリーの声が静かに響く。「今から、ワタシにもう一度ピアノ弾いてくれませんカ?」珍しい提案だった。部屋にピアノの音色が響いている。優しく、軽やかで自然な流れ。すでに窓のカーテンが閉められた室内は薄暗く、照明は小さな丸テーブルのスタンドが仄かに放つオレンジ色の光だけだ。千里の演奏の観客がシェリー一人というのはよくあることだった。というか、一ヶ月前に皆にピアノを聴かせる前までは、ピアノのあるこの部屋に入るのは千里とシェリーだけだった。家での演奏。ドアの隙間からかすかに階下にも漏れる音をきっと家族も聞いていただろう。でも、この部屋で直接千里の演奏を聴いてくれるのは、シェリーだけだった。「……千里」でも、皆が聴きに来てくれるようになってからの一ヶ月間、千里がシェリー一人を相手にピアノを弾くことはあまりなかった。特に、理由はないのだが。「千里」「え? あ、なんですか? シェリー」演奏を終えてからも物思いに耽っていて、だから反応が遅れた。「すごく、綺麗な演奏でシタ」「あ、はい。ありがとう」プルルルル。電話が鳴る。内線。シェリーが出る。「はい──今行きマス」がちゃりと受話器を置いて千里のほうに向き直る。「ご飯ができたって。下に下りまショウ」「あ、シェリー、先に行っててください。ちょっと軽く掃除をしてから行きます」ピアノやスタンドにほこりが目立った。「わかりまシタ。あと、千里」ドアの取っ手に手をかけたところでシェリーが振り向く。「はい?」埃取りを手に千里は自然に応える。「もし、何か悩んでることがあったりしたら、遠慮なくワタシに相談してくださいネ」「……はい。ありがとう、シェリー」笑顔で返す。シェリーも笑顔で部屋を出て行く。内心、少しどきりとする。
「まぁたまたやって来ましたぁー」翌日。妙なテンションの琉衣に続いてまたまたいつものメンバー。廊下にちょっとしたご一行が出来る。「ごめんねー。夏休みなのをいいことに毎日入り浸っちゃって」顔の前で手を合わせる茉莉方。「いえ、私も皆さんが来るのを楽しみにしてますから」「千里はホンマえーヤツやなぁ」「そういえば滝元さん、シェリーに変な日本語を教えるのはやめてください」「……シェリー、何て言うとった?」「この前、突然私の前に現れたかと思ったら『だっちゅーの』などと口走ってそのまま去っていきました。しかもジェスチャーつきで」「あちゃー」「あははー。相変わらず琉衣は古いねー」そんなこんなでいつもの部屋へ。シェリーと皆が挨拶。琉衣とはハグ。そしていつもの演奏会。一段落したらお茶会へ。千里は紅茶を入れるキッチンで束の間の孤独を味わう。
「あのねぇ──」またまた猫談義というか討論で盛り上がってるというか燃え上がってる由良と京子をよそに、そこでは今日もいろいろな話題に花が咲いた。「要するに千里は、もっと自分に自信を持たなアカン」「あはは」何故か説教口調の琉衣に千里ならずとも苦笑い。「まあでも、確かに千里はちょっと謙遜しすぎよね」と梨沙。話題はいつの間にか『激論! 南草千里のその人となり』といった様相を呈してきた。「ピアノだってすっごい上手なのに、いつも褒めたって『そんなことないです』って。ちょっと嫌味だぞぉー」白い歯を見せて笑いながら続ける。明らかな冗談。でも千里は少し胸が痛くなる。「でも、ほんとにたいしたことないですから」「アカンアカン、それがダメなんや。もっとこう、胸を張って」琉衣が言葉どおりに胸を突き出す。「でも、琉衣はもうちょっと謙虚にならなきゃだめだよねー」「なんやてぇ」琉衣と梨沙がちょっかいを出し合いはじめる。千里はふと視線を移す。ことりや潤と輪を作りながらも、どこか暗い表情のシェリーと目が合った。何故か、視線を逸らしてしまう。そういえば、さっき自分がピアノの演奏をしているときも彼女は似たような表情をしていたということに気づく。今の自分も、同じような表情をしているかもしれない。
その日も、薄暗い部屋にピアノの優しい音色が響いていた。最近、シェリーが皆が帰った後にピアノの演奏を要求してくる。そして、あまりシェリーの機嫌が良くない。二人の間に会話は少なくなっていた。それでも、シェリーは皆が帰った後にピアノの演奏を要求してくる。カーテンが閉め切られてスタンドのオレンジの光だけが空間を照らす様子は幻想的ともいえた。そんな雰囲気の中で、千里は5分以上にもわたる演奏を終える。しばらく、沈黙が流れて。何がきっかけだったのかはわからないけれど。シェリーが口を開く。「ワタシ、千里のピアノの演奏が好き」優しく鍵盤を押したときとは違う、強く、はっきりとした口調。「でもワタシが千里のピアノが大好きなのは、上手だからじゃナイ。千里もすごく上手だけれど、技術だけならもっと上手い人、いっぱい知ってる」シェリーが真っ直ぐに千里を見つめたまま、語りだす。「ワタシは、千里の演奏を聴いてると凄く興奮する。カラダが、あっつくなってくる。千里のピアノ、すっごく気持ちがこもってるカラ。すごく色々なことを考えて、色々なことを伝えたくて、そんな気持ちを込めて演奏しているんだって、わかるカラ」身振り手振りを交えて。少し早口になりながら。「だから、千里のピアノが好き」強く、言い切る。千里はシェリーに視線を向ける。眼が合う。瞳の色に、気圧される。シェリーは続ける。「だけど、千里の最近のピアノ聴いて千里が何か悩みを抱えてるんだってわかるケド」シェリーはベッドから立ち上がり、ピアノの隣に立つ。「千里が何を悩んでるのかまでは、わからナイ」ピアノの黒い体に白い手をかけて。「千里がちゃんと、言葉で伝えてくれなきゃ、わからナイ」ああ。そうだ。そうなのだ。「千里、悩みがあったら相談してくれるって言ったよネ?」シェリーが離れていってしまう気がして。自分にちっとも自信がもてなくて。自分はこうしてまた、シェリーの言葉をただ聞いているだけだ。そんなのは。そんなのは、もう。「……教えてくれませんか? 千里」「私、」一言目が飛び出たら、あとは堰を切ったように言葉が溢れた。
久しぶりだった。誰かにこれだけの言葉を話したのは、本当に、久しぶりだった。シェリーはそんな自分の言葉を凄く真摯に聞いてくれた。バカみたいだけど、ちょっと涙が出た。そんな自分を見て慌てるシェリーが可笑しかった。やっぱり、シェリーはシェリーだった。そんな当たり前のことに気づけなかった今までの自分。全部吐き出したら、すごくすっきりとした、晴れやかな気分になれた。「どんなにつまらないことでも、話してほしいんデス。それだけで、心が軽くなりますカラ」そうだよね。ありがとう、シェリー。
「まぁたまたまたやって来ましたぁー」そしてまた、いつもの演奏会。いつもの優しいメロディーとは違った、明るくてアップテンポな曲。いつも謙遜していたのは、自分の性格と、あとはやっぱり演奏に自信がなかったから。でも、今なら素直な気持ちで鍵盤と向き合える。演奏が終わり、いつもに増して大きな拍手が鳴り止んだ後、葉子が言う。「なんか、今までで一番良かった。曲が違うだけじゃなくて、聴いててすごく楽しい」「やっぱ千里はピアノの天才やなっ」琉衣のちょっと過剰気味の褒め言葉に、千里は笑顔で応える。「はいっ。ありがとうございます」「おぉ?」勢いよく応える千里にちょっとビビる琉衣。千里とシェリーは顔を見合わせて笑った。なんやなんやー、と琉衣。窓から差し込む日差しは眩しい。夏の終わりは、まだまだ先になりそうだ。
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