WEB上での「マリア崇拝」発言集


カトリックのマリア信仰を指す言葉として「マリア崇拝」は不適切と思われるが、意外に知られておらず、意図はともあれ、この言い方が広がっているようである。そこで、検索エンジンを借りて主要なものを拾い集めてみようと思う。ただし、掲示板上の発言は扱わない。
(たちばな)



<基本として>
カトリック、プロテスタント、ユダヤ教の違い
マリアを礼拝することは、我々プロテスタントにしてみれば、とんでもないことです(マリアは人間に過ぎません)(・・・)
カトリックは、スコラ哲学とアリストテレスに影響を受けており、人間の理性は完全には堕落していないとみなし、救いは、信仰と行いによるとします。これらの思想に影響を受けてしまうのも、聖書のみに権威を置いていないからでしょう。マリア崇拝や聖人崇拝もそのような中から生まれてきました。

・「eChurch」内。典型的なプロテスタントのマリア信仰観である。教理史についての無知が目立つ。スコラ哲学もアリストテレスの影響も中世の話であるが、マリア崇敬・聖人崇敬はそれ以前からある。もちろん聖書「正典」化以前からもある。
マリヤ「崇敬」
マリア崇敬は、あくまで崇敬であり、崇拝ではありません。
歴史的・沿革的に、マリア崇敬は、神であられるイエスさまのお母様としての尊敬を元にしています。
でありますから、いくら尊敬され、崇敬されるにしても、神であられるイエスさまと、マリアさまでは一線を画されるものであるのです。
尊敬の度合いというか、質が違うのです。
そうですから、マリア「崇敬」という言葉はありますが、マリア「崇拝」という言葉はないのです。
・上に対するカトリック一般信徒の反応。これもよく見られる答であるが、これでは「言葉」の区別をしているだけと思われかねないように思う。マリアはあくまで「被造物」であるのに対して、キリストは神の第二位格であり造られざるものであるという根本的区別を明確にしておくことが肝要ではないか。

<プロテスタント>
登戸教会について
カトリックでは、司祭や神父といった聖職が、ローマ法王を頂点としてピラミッド型階層構造になっています。そのため、ローマ法王の教えや古くからの言い伝えや習慣なども重んじます。例えば、マリヤ崇拝や聖人崇拝などがプロテスタントにはないカトリックの特徴です。なお、修道院があるのもカトリックです。
・つとめて客観的に書かれている。
Q&A
カトリックはマリア崇拝や懺悔(ざんげ)による罪の赦しがありますが、これらは聖書にはかいていません。これはカトリックが聖書だけを絶対のものとせず、ローマ法王が神のようになっているからです。これを改革したのがルターやカルヴァンです。
・「岡山めぐみ教会」のサイトから。非難口調とまでは言えないが、あまりに図式的であり、誤解をまねきかねない。
キリスト以後の安息日の歴史
10世紀 ネストリウス派キリスト教は、ブタも食べず、カトリックのミサの権威も認めず、マリア崇拝を拒否し、第七日安息日を守っていた。
・SVA嵯峨野教会。真偽はわからないが興味深い内容である。
メッセージ

<カトリック>
Welcom to adobe Golive 6
この様な批判(マリア、聖人崇拝、教皇制度)は、特有の事では無く、多くのプロテスタントの方が持っている”気持ち”です(気持ちであってイデオロギーではありません。一見、仲良いようにつきあっていても、カトリックと、プロテスタントの関係について、敢えて問いただすと、常にこの点を指摘し、カトリックの問題点として、プロテスタントの正統性を主張します。そうして、非常に排他的な口調で、それ以外の人は地獄に行くと信じている人が、残念な事に、私の周りには多かった様な気がします。然し、これは、敢えてその違いを指摘すればという事であって、普段の信仰生活においては、全く意識されるべく問題ではないということも書き記しておきます。
・一般信徒の生々しい思いがつづられている。つまるところお互いに違いを認めたうえで仲良くなることを肝要としている。基本であり、「気持ち」としてはそれでじゅうぶんである。問題は、違いを意識するために具体的にどうするかであろう。
モーセの罪
この徹底した人間の相対化を考えると、カトリックの、聖人やマリヤ崇拝を考えざるをえません。マリヤについては、無原罪とし、また聖人についても、教皇についても、無誤謬と教えるのは如何なものでしょう。人間を神と等しく、絶対化し偶像視していることにならないでしょうか。
・カトリック系メルマガ「旧約聖書薮にらみ」中記事。カトリック内でもマリア崇敬批判がある、ということの一例である。しかし、「神と等しく、絶対化」するのと「偶像視」では全然意味合いが異なると思うのだが。こういう言い回しは、「マリア崇敬」批判でよく使われる「神格化」という語の曖昧な用法と同様の問題を抱えているようにみえる。また教皇無謬の教義とは「司教座から」発せられる宣言について言われているのであって、「偶像視」とはまったく関係がない。

<個人的考察>
個人研究報告
ネストル教 キリストから別れた一派で正しくは、「ネストリウス派」で漢語で景教と呼び、特徴としてマリア崇拝やイエスの神性を認めない教義をもち、ヘブライの伝統を重んじた宗派でローマの国教より異端宗派として、シリアを拠点としてペルシア、インドそして中国に伝来した。
・景教についてはよく知らないのでノーコメント。ただネストリウス自身は、イエスの神性を認めなかったわけではない。神性と人性の区別に関心があったせいで、結果的に人性の強調になったに過ぎない。逆に区別より統合を重んじて人性と神性が受肉において一つの性になったとしたのが「単性論」であり、それは反ネストリウス的考えなのである。だが、このあたりについて混乱混同をよく目にする。
絶対神ヤハウェ
そこで生まれたのがキリスト両性論である。簡単に言えば、イエスは神であり、人間でもある、どちらも正しいというものである。まるでガキの答のようだが、正統とされる教義はどれも似たり寄ったりである。そして、イエスを真の神であると認めた結果、発展していったのが”聖母マリア崇拝”である。神を産んだマリアは、それだけで神に等しいというわけだ。しかし、聖母マリア崇拝には土着の大地母神信仰が根底にあるため、神学的な根拠はまったくない。はっきり言えば、マリアはただの人間に過ぎないのである。
・「超常現象」を研究するサイトから。よく勉強している方と思われるが正確な記述ではない。「神を産んだマリアは、それだけで神に等しいというわけだ」などということがキリスト教の枠内で言われることはありえない。聖母マリア「崇拝」に「神学的な根拠はまったくない」と言い切っているが、少なくともカトリックにおいてはマリアを含む聖人に対する崇敬について、神学的根拠はある。これらは「神の母」や「崇拝」という語に引きずられた憶測による誤解の最たるものだと思う。
聖母マリアにのまれた神々/モナ丼/考
イエスは神と同じ性質だから、イエスを生んだマリヤもただの人ではない、格上げすべきだという議論が起こった。マリアは「神の母(聖母)」であり、人が持つ原罪から免れているという考え方である。エフィソス公会議(431年)で、エフィソス人にたきつけられてアレクサンドリア総司教キリウスの一派はマリア礼拝を議決してしまう。一方、マリア崇拝に反対しイエス・キリストの神性を小さく評価したコンスタンチノープル総司教のネストリウスは破れ、やがてエデッサに構え東方への布教を行うことになるのである。
・マリアの尊称「神の母」をめぐる議論は、マリアそのものが論争点だったのではなく、あくまでキリストの「二性一位格」の問題、つまり人性と神性との関係についてが争点であった。上の記述ではまるでマリア崇敬が最大問題であるかのようだが、そうではない。「エフィソス人にたきつけられて」などというのは、<見てきたような嘘>とでも言いたくなる。参考文献を多数あげているが、その中に教理史ないし教会史についての本はない。
(「エフィソス人にたきつけられて」云々の箇所は、竹下節子の本(参考文献としてあがっている)からまる写ししているということがわかった。竹下本については別項で扱うことにする)

*エフェソス公会議で争われた「神の母」という尊称をめぐる議論は「ICFフォーラム」の「教理史解説」で簡単にまとめられている。
*改革派に属するH.R.ボーア「初代教会史」(教文館)から七つの重要な世界教会総会議(公会議)のうちの三つを並べてみよう。

第三回 エペソ 四三一年
ネストリウスを排斥し、キリストの両性に関するアレクサンドリアの見解を是認する。
第四回 カルケドン 四五一年
キリストの両性に関して、次の四語「混淆されず」「変化をうけず」かつ「分離されず」「分割されず」をもって論議を完成させる。
第五回 コンスタンティノポリス 五五三年
アンテオケの三人の有名な神学者の「第三章」を排斥し、カルケドン決定はキュリロスの理解でみることを確認する。

三一論争が御父と御子を「同一本質」とすることで決着したのちに争われたのは、見るようにもっぱらキリストにおける人性と神性の関係についてであったのだ。カルケドン決定のあとも「単性論」「単意論」「単勢力論」と次々に非正統的解釈が出てくるが、ともあれ、キリストの位格内の構造をめぐる話であって、マリアについてはまったく枝葉末節のことでしかない。
*ただし、「神の母」という尊称がすでに存在した「マリア崇敬」(マリアを祝う祭)からきたこと、エフェソスの決定がその後の「マリア崇敬」に影響を与えたというようなことは言えるかも知れない。

<学術系>
キーワード
キリスト教はゲルマン民族に浸透する過程で、キリスト教と関係のない要素も吸収しました。たとえば、聖人の考え方。マリア崇拝。
・社会学者橋爪大三郎の講義録より。何を根拠にこういうことを言うのかわからない。キリスト教の歴史の初期からマリア崇敬はあった。しかもマリアのための最初の教会が立てられるほど盛んだったのは西方(ラテン語圏)ではなく東方(ギリシャ語圏)である。だが、ゲルマン民族への布教は西方から行われていたのだ。
(「ゲルマン民族への布教は西方から」という記述は間違いだった。ゴート人ウルフィラによる宣教が発端。ただし、ウルフィラが感化されたのは、第一ニケア公会議で「異端」とされたアリウス派の解釈。それでゲルマン諸部族にはアリウス派が広まったが、のちに部族の王の正統派への改宗にともないアリウス派は七世紀中頃には消滅する)
対談1
中沢 ネストリウス派っていうのが非常に重要な宗教なんです。シリア・キリスト教のもとになるもので、ニケーア教会会議のあたりから異端にされちゃう。東方キリスト教はこのネストリウス派が中心になる。じつはこのネストリウス派が広がった地帯にイスラム教が生まれているのです。景教とイスラームは思想的に似たところがあります。
中沢 ネストリウス派が何を主張したかというと、キリストの神性・人性の問題ですね。神の子イエスというものを東方キリスト教は否定した。イエスは人の子であると。マリア崇拝も禁止している。西方キリスト教はこれを神の子であると言い、マリア崇拝を始めた。

・「中外日報」HPの記事。鎌田東二と中沢新一による対談。両者とも間違いというよりも勢いまかせの法螺をふいているだけだ。学問的価値のない駄弁でしかない。
中沢のいう「東方キリスト教」なるものはいわゆる東方正教会ではない。ネストリウスはもちろんのこと、正教会も、ただの人間というような意味で「イエスは人の子」(この場合の人の子とはメシアの称号ではなく「人間」という意味だろう)などと言ったりはしない。ネストリウスが排斥されるのは「ニケーア」公会議(325年)ではなくエフェソス公会議(431年)である。そしてニカイア公会議で決定されたことこそイエスがまさしく神であるということ(三位一体)だったのであり、コンスタンティノポリス公会議(381年)で再確認されてからは、このことについては、異論はほぼ消滅したのだ。それゆえ、ネストリウスはキリストの神性を否定していたわけではない。
また、「ネストリウス派が広がった地帯にイスラム教が生まれている」というのはともかくとして、それがゆえに「景教とイスラームは思想的に似たところがあります」と結論できないことは誰でもわかる。なぜこんな思いつきを堂々としゃべるのか。
まとめると、宗教学者中沢新一は、おそらく「東方教会」と「ネストリウス派」と「単性論」とニカイアで排斥された「アリウス派」の区別がまったくできていない。これでは中沢の本を読んだところで何も学べないばかりか、学んだことまで失いかねない。みなさまもご注意のほどを。
データベース 宗教民族学資料
・地母神崇拝とマリア「崇拝」を無造作に結びつけるのはよく見るタイプの思考であるが、おそらくこうした「宗教民族学」から来ているのであろう。にわかにうなずけない話なのだが、かといって否定し切ることも難しいと思う。
第一章<カタリ派の特徴と教義上の概念>

<女性問題>
男社会はいかにして成立したか

<魔女系>
魔女誕生・第三章

<その他>
反・ギリシャ神話
ゲストブック抜粋
賛美歌135(十字架のもとには)
ave.maria.html
・「アヴェマリア」について


キリスト狂
トップへ