3.絶対平和主義について


「平和、平和」と口にして平和憲法(日本国憲法)を堅持していれば平和でいられるとする態度を、かつて司馬遼太郎は念仏平和主義といった由だがいいえて妙である。さすがに冷戦が終了し湾岸戦争が起きたあたりからこうした呪文は力を失ってきたようだが、日本ではいまだに類似の思想に出くわすことが少なくない。
こうしたひとは「とにかく戦争はだめ」で、ありとあらゆるすべての戦争に否という。「では、侵略されたら、そのまま戦わずに殺されるのか」と問えばイエスと答える。勇ましいかぎりだが、なに口だけならタダ、いざとなったらわかりゃしないよ、と私などは思うが、もはや「戦争」についてはいっさい思考停止してしまうのだから、下手な宗教よりも強力な阿片だ。
ごく常識的な日本人はさすがに「自衛権」だけは認める。だが、軍事について無知であることにはかわりがなく、いつかような絶対平和主義に傾いてしまうかわかったものではない。国家の防衛は本来専主防衛のごとき甘いもんじゃなくて、場合によっては先制攻撃も辞さない覚悟でなくてはならないのだが、そこまで納得できるひとは少数かも知れない。
ともあれ、絶対平和主義については、実際の平和には役だたないばかりでなく、かえって有害であるということを説こうと思う。
そもそも絶対平和主義とは戦争に区別をつけない思想だ。つまり、「必要な戦争」とそうでない戦争、「避けえない戦争」とそうでない戦争、「正当な戦争」とそうでない戦争、こうした区別をいっさい認めない。すべての戦争に反対なのだから理論上そうなる。あるいは「すべての戦争が違法」という考えとしてもよかろう。
「すべての〜が〜」というタイプの言い方を簡単にしてしまうのは、およそ粗雑な精神だと思う。通常の殺人事件でも情状酌量というものがあり、量刑が減じられたりもするのに、戦争というだけですべて「悪」ときめつけられるのだからたまったものではない。まあ、きめつける方はすかっとするだろうが。
よくよく考えてみれば、これはおそろしい思想だということがわかるはずだ。というのも、これは裏を返せば絶対戦争論に転化するからだ。論理的にいって「すべての戦争は違法」というのは「すべての戦争は合法」というも同じことなのだ(そこに他の基準がないかぎり)。絶対平和主義は絶対戦争主義に理論上対抗できない。いったん戦争が起こればもともと「絶対平和主義」などは無力だし、そこで戦争に区別を設けようとさえしないならば、最大限陰惨な戦争にエスカレートしても止めようがない。これは逆説でもなんでもないのだ。
戦争法の歴史をふりかえると、正当原因にもとづく場合にのみ戦争を合法としたグロティウスなどの「正戦論」が近世初頭では有力であった。しかし、当時はまだ国際法が成熟しておらず、正当性を判定する客観的な国際機関もなかったので、いつしかそれは「観念論」とさげすまれ、「無差別戦争観」にとってかわる。これは戦争を国家の自由裁量にまかせ、いついかなる理由でも(つまり理由がなくとも)戦争を行えるとする考えである。
無差別戦争観はいわば戦争の正当性を否定した、といえる。「すべての戦争が合法である」というのは、イコール「正当性」を問わないということだからだ。おわかりの通り、これは絶対平和主義の考え方とまったく同じなのだ。区別をつけず、諸々の戦争を平板にひとならびに考えてしまえば、一見両極端の発想が鏡に写したかのように見事に一致してしまう。
無差別戦争観は十九世紀末まで続くが、特筆すべきはその期間中にかえって戦争法規そのものは発展をとげていることだ。奇妙に思われるかも知れないがそうではない。いままで戦争の正当性の話をしていたのは、厳密に言えば開戦規定で、いかなる場合に武力の発動が許されるかということである。ここでいう戦争法規は戦時における戦争の仕方を規定した国際法のことである。例えば「捕虜の虐待の禁止」などがそうで、これらは破った場合に報復を受けたり国際的非難を浴びるなどのデメリットがあり、兵器の技術革新と歩調を合わせるかのように、まずまず慣習法として守られ、のち次々と成文化していく。
時下って第一次世界大戦が起きる。あまりの被害の規模の大きさにヨーロッパ諸国はいよいよ戦争それ自体の悲惨さを痛感し、「戦争の違法化」に駒をすすめる。絶対平和主義(あるいは念仏平和主義)を自認するかたよ、よろこんではいけない。「戦争の違法化」とはもちろん、いかなる場合に戦争は許されるか、という取り決めであって、戦争を区別する考えである。このあたりも日本では勘違いが多い。
有名なものはいわゆる「パリ不戦条約」(戦争放棄に関する条約;1928年)で、その第一条で「国際紛争解決の為戦争に訴ふることを非と」している。はじめて自衛以外の戦争を「非」(違法)としたが、罰則規定もなく、また「自衛」の解釈については各国政府の解釈にまかせるなどと取り決めたために、なんの実効力もないただの「宣言」にとどまったが、のちの戦争違法化の流れをつくり模範となった。
無差別戦争観から脱却した国際社会は国際平和実現のための手段を、「勢力均衡」(パワーバランス)から「集団安全保障」へと徐々に移行しはじめる。その考えのもとに結成されたのが国際連盟であり、こんにちでは国際連合である。
国際連合は、国際連盟の失敗を踏まえて、条約違反国に対する強制措置の可能な組織として成長してきた。安保理常任理事国の拒否権によって機能停止していたが冷戦後にようやくその力を少しずつ見せはじめているところである。
こうした歴史を概観すればわかる通り、人類は無差別戦争観の泥沼から抜け出し、ようやく集団安全保障を確立しはじめたところだ。それはなにより戦争を「違法化」すること、すなわち戦争を必要なものとそうでないもの等々に分けることに依拠している。その作業がどれだけたいへんでつらかろうとも、無差別戦争観に戻るわけにはいかないであろう。
しかるに絶対平和主義は原理上無差別戦争観に対抗することができず、むしろ助長するだけだ。それは無差別戦争観つまり絶対戦争主義と表裏の関係にある。いわば双子だ。かつて三島由紀夫は、戦前の「一億総玉砕」と戦後の「一億総懺悔」が同じ精神性であることを喝破したが、そろそろ絶対平和主義がいかなる観念的な錯覚に陥っているかにみな気づかなくてはならない。
めんどうくさくつまらなく見えるかも知れないが、戦争開始要件を国際法で規定し、また戦時法規を地道に積み重ねていくことでこそ、現実の戦争の被害を最小限にすることができるのである。戦時国際法と国連はその成果である。
もはや絶対平和主義ないし念仏平和主義にはまって思考を止めるわけにはいかない。時間は刻々と過ぎ、その間にも戦争は起こるのだから。戦争を無差別に悪とすることは、平和構築にとって有害無益な思想である。

<参考文献>
『国際法概説[第4版]』、有斐閣双書、2001年(4版)
西井正弘『図説 国際法』、有斐閣ブックス、1998年
『岩波コンパクト六法 昭和62年度版』、岩波書店、1986年

(20031127:Tachibana Kichikusai)


インデックスへ