4.国防について(絶対平和主義について・続編)


日本ではいまだに国防についての認識はすすんでいない。

世論調査によると、戦後五十有余年を経てようやく改憲派が多くなってきたようであるが、9条は改正反対の方がいまだ多いようだ。改憲=9条改正とは限らないわけで、これはアメリカ主導で行われた現行日本国憲法の制定過程がかなり知られてきたことの効果なのかも知れない。つまり、主権国家として「自主憲法」を制定することには賛成だが、現行憲法の「精神」とでも呼ぶべきものについては残すべきだというひとが多いのだろう。
もとより、かねてから「改憲派」の論者たちも、別に現行憲法のすべてを否定したことなどない。ほとんどは、国民主権や、人権の尊重、広範な思想信条表現の自由を肯定してきた。護憲派はあたかも改憲派が戦前の憲法への逆行を志向しているかのようなえげつないイメージ操作をしてきたのだが、その真意が国民にも伝わり、護憲思想が後退してきている、ということなのだろう。
それでも戦後長きにわたって「平和思想」を吹き込まれてきた日本人は、なかなか戦争についてきちんと思考するというところまではきていないらしい。ここでは戦争を抑止し、安全を確保するためには、従来のような「平和思想」ではだめであることを示そうと思う。

まず「平和」とはなにか、と言えば多くのひとは「戦争のない状態」と答えるだろう。実際「戦争」と「平和」は対概念である。しかるに、絶対平和主義のようにすべての戦争に反対するひとは、平和について夢想することはあっても、戦争について考えることは忌避する。まるで戦争について想像したり、「戦争」と口にするだけで戦争が起こるかのようである。逆に言えば「平和」と唱えていれば、それだけで平和が維持できるということである。こうした態度を司馬遼太郎は「念仏平和主義」といい、井沢元彦はそこに「言霊」思想を見る。私はテレビである民主党衆議院議員が「自衛隊」を「軍隊」というと「聞こえが悪い」から「軍隊」と呼ぶべきではないと本気で主張するのを見てほとんど病的な感性であると思ったものだが、これなどはまさしく「言霊」思想といえよう。
これほどカルト宗教的に平和主義を考えてないひとでも、おそらく認識においては大同小異に違いない。平和を戦争のない状態、いわば消極的に理解しているのだ。しかし、平和の実現とは、そのような受け身の態度では成しがたいものなのである。

そもそも平和が戦争のない状態であるとするならば、平和について理解するためには、その対概念の戦争についてよく理解していなければならない。戦争という概念の内容がいいかげんならば、平和の理解もいいかげんにならざるをえない。しかし、「平和思想」を謳歌した太平楽の日本人は戦争を、たいがいはただの「人殺し」、あるいは「大量殺戮」という程度のイメージしかもたない。たしかに戦争は「殺人」を含むし、軍民を問わず多くの死傷者を生む。けれども、それだけなら大災害や大規模な事故も同様だし、自動車事故のようなより身近なケースを考えても何十年のスパンで言えば「大量死」といえなくはない。戦争を人の死によって定義づけるのはおよそ不十分であることがわかろう。
クラウゼウィッツの古典的な定義を持ち出せば戦争とは「政治の延長」である。卑近なたとえをすれば、口論している二人が互いにあい譲らずついに手まで出してしまうというイメージだ。国家と国家は互いに様々な利害を争っている。ある国の国益が他の国の国益と合致しないのは、社会生活を営む個人と個人の関係を考えても容易に類推できるはずだ。個人にエゴがあるように、国家にもエゴがあるだけの話で、これをことさらに非難したり嘆いてみても仕方がない。平和主義者らはこのあたりがとんちんかんで、エゴをなくせばいいなどと説く。冗談ではない。ならば、まずおのれがすすんでエゴをなくせと言いたい。私を含む凡人は人間にエゴがあることをはっきり容認したうえで、それらが衝突しないように、互いに妥協点を探りながら、なんとか安定的な社会生活を営んでいる。自己の利益のみを考えて行動する人間は社会的に制裁されるか、極端な場合は法によって罰せられる。国家間の問題も基本的には同じである。
国家の場合は話し合いは「外交」によって行われる。クラウゼウィッツのいう「政治」とはほぼ「外交」のことである。そして 「外交」で決着しない場合にいよいよ「戦争」の発動となる。だから、「戦争」は多くの人間を殺害し、多くの物を破壊するが、その目的はあくまで相手国の意志を強制していうことをきかすところにある。だからクラウゼウィッツの言葉はいいかえれば「戦争は形を変えた政治」となる。
ところで、そんなうまくいくもんか、と思うひともいるかも知れない。つまり、じゅうぶん外交することなしに戦争にうったえる国家もあるのではないかと。例えば今回の英米を中心にしたイラク攻撃は新しい国連決議を待つことなく攻撃を開始している、もっと「話し合う」べきだったと、さっそく「平和思想」屋が槍玉にあげている。イラク問題はいずれ別に書くつもりだが、ここでは置いておくとして、通常は「外交」から「戦争」へという順序自体は保たれるものなのである。なぜならば、ある国はなんらかの利益を得ようとしているわけだが、その手段として「外交」と「戦争」と二種類ある。「戦争」は相手国のみならず、その国自身にも大きな被害と人的物的損失をもたらす。そう考えれば、戦争でなしに外交で同じ目標が達成されれば、それにこしたことはないのである。国家の指導者がいかに悪人であったとしても、よほど合理性を欠いてないかぎりは、そのように行動する。いわゆる「侵略者」と評される国家指導者でも基本的には同じである。なにがなんでも戦争をしたいなどという人間はそんなにいないのだ。

ここで重要なポイントを指摘しておきたい。通常よほど合理性を欠いていないかぎり、大きな損失をしてまで戦争をしたがる国家はない。だから、戦争の前に外交を行って互いの国益を調整しようとするのだ。これを延長していえば、いかに侵略を狙ってやまない国家があったとしても、戦争を起こした場合の損失が耐えられないほど大きいと予想されれば、戦争を躊躇するということだ。そしてこれは戦争の抑止のためには、じゅうぶんな国防のための常備軍が必要であることを示しているのである。
侵略国家はある土地にまったく軍隊がなければ侵攻するだろう(もちろん前提としてその土地を占領するあきらかなメリットがいる。たとえば地下資源)。相対的に小規模の場合は侵攻するかもしれないししないかも知れない。これは戦争した場合の損失の予想によって変化する。相対的に大規模なら躊躇するだろうし、圧倒的ならば戦争することはあきらめるだろう。このようなことは、例えば危険視されている北朝鮮が朝鮮戦争以降なぜ大規模な戦争を行わないのかについて考えれば容易に納得できるはずだ。在韓・在日米軍と韓国軍・自衛隊の存在が抑止力として働いているのは火を見るよりあきらかだ(もちろん米国の核兵器が最大の抑止力である)。
絶対平和主義者ならば、侵略者の戦争したいという気持ちを変えられればよい、と説くだろう。もちろん、これは文字通りにはただしい。しかし、絶対平和主義者は侵略者の意図を変更させるための具体的手段を言わない。とにかく神さまだか仏さまだかに悪人に改心してもらうように祈ればいいということらしい。やんぬるかな。具体的な方法はあるのであって、まさに国家が軍隊を所持し、戦争の準備を怠らないことである。実際にそれで日本は平和が保たれてきたのであって、ひとびとが「平和」を念じたからでも憲法に非戦条項があるからでもない。

ただし、付け加えねばならないが、こうした抑止が効力を発揮するのは、いうまでもなく防衛する側に戦う気があることである。そんな精神論が関係あるのか、と思うかも知れないがあるのである。さきほどのシミュレーションを思い起こしてほしいが、侵略者が戦争を断念するのは、あくまで自国にも多くの損失をもたらすと想定するからである。わりにあわないと予想されるからあきらめるのだ。それゆえ当たり前のことながら、相手国の軍隊が必ずじゅうぶんに機能することを前提としている。相手国もまた戦争のためには損害を覚悟しておかなくてはならないはずだが、かりに損害を気にしてじゅうぶん戦おうとしなければどうだろう。侵略国側は予想する損害の大きさを低く見積もるはずだ。そしてそれは、より侵略を誘因することだろう。
こう考えるとわかる通り、戦わない軍隊は張り子の虎でしかない。日本の自衛隊がそうだとは言わないが、国民の側の国防意識の低さや現行憲法九条の縛り、法律の不備などは、自衛隊全体の士気を下げているとは言える。北朝鮮が日本に対する挑発行為をやめないのは、あきらかにこうした「戦う気のなさ」を悟られているのだ。いくら能力のある武器を持っていても、使う気がないならば、おもちゃも同然である。
したがって、よくよくつきつめれば、軍隊がある、というだけでは不十分であり、いざとなったときは戦争する気構えがなければ国家を防衛することはできない。もちろん国防とは、国民を守ることでもあるのだから、国民ひとりひとりの利益にもなるわけで、そのことに国民が無関心だというのはどう考えてもおかしい。選挙にいかないでもさしたるマイナスにならないが、国民の国防意識が低ければ、その分全体の国家の防衛力もおちるとしなければならず、たいへんな国益の損失なのである。
日本の「平和思想」は戦争を考えることを忌避し、軍隊の価値をおとしめ、国民の国防意識をそぐことだけに寄与してきた。「平和思想」はいわば具体的な平和構築の足を引っ張ってきたに等しい。こんにちの国民はいまだ「平和思想」の影響を受けつづけている。多くのひとは、自衛隊の存在を認める一方、自衛隊が実際に戦うことは想定していないのだ。なんという倒錯か。

改めて言う。絶対平和主義は平和にとって有害無益な思想である。

<推奨文献>
この論考では、とくに参考にした文献はないが、戦争一般について考えるために適当と思われる書物を挙げておく。
入江隆則『敗者の戦後』(徳間文庫)
日下公人『人間はなぜ戦争をするか』(クレスト社)
松村劭『戦争学』『新戦争学』(文春新書)
前2者はあるいは絶版かも知れない。

(200328:Tachibana Kichikusai)


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