1.
ポストモダン思想などにおける自然科学用語の濫用を告発した本『知
の欺瞞』をあらわした物理学者であるアラン・ソーカルとジャン・ブ
リクモンはその中で次のように言っている。
ポストモダンの著作を読むと、比較的最近の科学の発展によって、わ
れわれの世界観が変化しただけでなく、深遠な哲学的、認識論的な変
革がもたらされたという主張に出会うことが多い。一言で言えば、科
学の本性そのものが変化したというのだ。こういった主張を支持する
例としてもっともよく挙げられるのが、量子力学とゲーデルの定理と
カオス理論である。それ以外にも、時間の矢、自己組織化、フラクタ
ル幾何学、ビックバン、その他もろもろの理論が挙げられる。
(『知の欺瞞』岩波書店(田崎晴明、大野克嗣、堀茂樹訳)pp176-
177)
ここで取り上げる、五島高資(俳人)の評論「現代思想と現代俳句
俳句という創造」第1回は、まさにそうした「ポストモダン風な」文
章の典型といえよう。
五島はまず量子力学から説きおこし、ゲーデルの不完全性定理に触れ、
「カオス理論」こそ言及してはいないが、「ビック・バン」と「オー
トポイエーシス」はぬかりなく入れている。それらが連載評論のただ一
回分に網羅されているのは驚きだ。そしてそのいちいちがもとの科学
理論をきちんと理解せずにか、かりにしているにしてもまったく
無関係な領域への無理なたとえとして使っており、まさに知的濫用の
典型的な例になっている。以下、多少くわしく見ていこう。
2.
五島はこの「俳句評論」を、宇宙全体の構成単位である「素粒子」に
ついて語ることからはじめる。人間やら動物やら、ともかく存在する
ものすべては「素粒子」に還元される。
ところが、この素粒子とは、物質的性質(粒子性)と非物質的性質
(波動性)を示し、状態関数であるシュレーディンガーの波動方程式
による存在確率としてしかその存在を把握できない。量子力学が追い
つめた物質の本性とは、ランダムにうごめく素粒子の不確定な運動状
態以外のなにものでもなかったのである。
素粒子が存在確率としてしか把握できないものであるならば、素粒子
によって構成されている私たちも含めた全宇宙の存在もまた確率とし
てしか把握できないことになる。つまり、私たちは、存在するかもし
れないし、存在しないかもしれないのである。
(五島高資<現代思想と現代俳句 俳句という創造>第1回「定型の詩
法」『現代俳句』2000年10月号(角川春樹事務所))
*太字強調は引用者による。また以下「俳句という創造(1)」とい
うように省略する)
なんの問題もなく文章を読んできた者も、最後の「つまり、私たちは、
存在するかもしれないし、存在しないかもしれないのである」という
くだりを見れば誰でも思わずのけぞるだろう。これは量子力学に対す
る典型的な誤解だ。
量子力学はきわめて小さいスケール、ミクロの世界における粒子のふ
るまいを記述する理論である。われわれが普通に生活している世界に
そのまま適用できるわけではない。量子論的効果はあっても無視でき
るほど小さい。テーブルの上に置いてあるコップが、なにもしないの
に見るたびに場所が変わる、というような出来事は起きない。五島は
目の前で人間が突然消失するところでもみたのだろうか?
そう思って文章を読み返してみると、ほかにもいろいろ気になるとこ
ろがある。たとえば「確率」ということも五島はよく理解していない
ようなのだ。五島は「確率的把握」という言い方で、つまるところ、
自然はきっちりと明確に把握できない、ということを意味したいよう
である(これはのちの論述でわかる)。しかし、量子力学が「不確定
性原理」を掲げるからといって、自然についてはなんでもかんでも不
確実なことしかわからないとか、はっきりしたことはなにもいえない
とか、そのように考えるなら、それは正しくない。量子力学が物理学
において現在確固たる地位を占めているのは、むしろそれが予測して
きたことが、検証によって、おそろしいほど当たってきたからだ。
確率的、というのは、まったく予測ができない、ということを意味し
ない。例えばサイコロを投げるとしよう。われわれはその一振り一振
りにおいて、どの目が出るかをあらかじめ知り、予測することはでき
ない。しかし、ある目の出る「確率」が六分の一であることは知って
おり、繰り返し振っていけば、実際にある目の出る確率がその予想値
にちかづいていくことがわかる。つまり、全体として出る目の「確率
」は統計学的法則に従っており、予測可能なのだ。
量子力学はもっと複雑だが、基本的には同じだ。ダブルスリット実験
を思いだそう。ひとつひとつの粒子は、どちらのスリットを通り、ス
クリーンのどこに到達するかをあらかじめ知るすべはない。しかし、
粒子をつぎつぎ飛ばしていれば、いずれは、よく当たる箇所と当たら
ない箇所との差から、いわゆる「干渉縞」ができる(これは「波動性
」をあらわしている)。粒子も全体としての動きは、そのように予測
可能な法則に従っているのである。
「不確定性原理」にしても、粒子は「観測」した時点で「位置」が
「確定」するという主張なのだから、五島のいうような「存在するか
も知れないししないかも知れない」ということを意味していない。い
ずれにせよこれらは、高校で習う「確率」をきちんと理解していれば
わかることだろう。
ほかにも波動性を「非物質的性質」としているのも気になる。まさか
「電波」を精神的なものと同一視しているのだろうか。そうだとする
とまさに五島高資はほんものの・・
ともかく、ここはこれくらいにして、次にうつろう。
3.
さて、先に引用した箇所に次のような文章が続く。
この現代物理学が行き着いた奇妙な結末は当然と言えば当然の成り行
きだった。そもそも物理学とは自然現象の存在様式を言語で置き換え
る作業である。すべての言語は、0と1の二種類の記号の組み合わせ
によって表現可能であることから、言語化とはその対象を0と1とで
二項対立的に分別することである。物理学における言語化あるいは数
式化とは、無限定なる自然現象を二項対立的に分析して有限化すると
いう矛盾を本来的に孕んだものであった。そして、ゲーデルの不完全
性定理に示されるように、いくら言語を尽くしても、いくら分析し計
算しても、言語による物理学が言語によって自己の無矛盾性を証明す
ることは不可能である。
(五島高資「俳句という創造(1)」)
私は正直に告白しなければならないが、この段落を読んで、はじめま
ったく意味がわからなかった。物理学についての漠然とした、そして
いくぶん情緒的な記述に、文脈を無視して、突然数学基礎論上の定理
である「不完全性定理」が出てくる。いったい五島はなにを言いたい
のだろう? とはいえ、ここでわからないと弱音をはいても仕方がな
いので、一文づつ検討していくことにしよう。
第一文は飛ばすとして、
「そもそも物理学とは自然現象の存在様式を言語に置き換える作業で
ある」
「そもそも」と大上段に初めているが、これはなんとも不明瞭な主張
である。あたっているともないとも、にわかに判断がつけられない。
物理学である以上、実験や観察といった契機が不可欠だと思われるが、
ここではそのようなことも述べられていない。いずれにせよ、「言語」
という言葉で何を意味するのかにかかってきそうである。そこで、次
の文、
「すべての言語は、0と1の二種類の記号の組み合わせによって表現
可能であることから、言語化とはその対象を0と1とで二項対立的に
分別するということである」
この文は、前半と後半に飛躍がある。というよりも、後半はまったく
意味不明である。言語は文字で表されるから、なんらかの仕方で2進
法(0と1の組み合わせ)にコード化できる。しかし、それは五島自
身が書いているように、たんに「可能」なだけで、そこから必然的に
「言語化とは0と1とで分別することである」ということが帰結する
わけではない。だいいち数字によるコード化なら10進法もあれば13進
法もある。だから0と1を二項対立だなどととるのも2進法の観点か
らそうなるだけの話だし、どうコード化するかは恣意的な問題に過ぎ
ない。
「物理学における言語化あるいは数式化とは、無限定なる自然現象を
二項対立的に分析して有限化するという矛盾を本来的に孕んだもので
あった」
まず「無限定なる自然現象」とはひとつの哲学的主張であって、論証
ぬきならただの独断である。ここでの「二項対立」が無意味なのはす
でに述べた。また「有限化するという矛盾」なるものもまったく意味
不明だ。物理学は自然を抽象する。その意味では、自然を部分的に把
握するに過ぎない。つまり、自然のすべてを説明するものではない。
しかし、これは別に「矛盾」でもなんでもないのだ。たんに物理学が
部分知だということに過ぎない。矛盾というからには、物理学の理論
がまったく自然と合致しないというのでなければならないが、そうで
はないことは小学生でも知っている。むしろ、数式のような抽象的な
ものが自然の運動に実に見事に合致することにわれわれは驚く。
「そして、ゲーデルの不完全性定理に示されるように、いくら言語を
尽くしても、いくら分析し計算しても、言語による物理学が言語によ
って自己の無矛盾性を証明することは不可能である」
ここまでくれば、この文がまったくナンセンスだということは誰でも
わかるだろう。まるで無関係な文脈に「不完全性定理」をぶちこんで
いるのだ。もちろん、五島は「不完全性定理」自体をまったくわかっ
ていない。そもそも物理学ではなく数学の定理だということはおいて
おくにせよ、五島の理解によれば、この定理は数学が「本来的に矛盾
を孕んでいる」と言っていることになる。まったく違う。
不完全性定理は、ある公理系が無矛盾ならば、公理系の無矛盾性はそ
れ自身によって証明できない、というものだ。証明可能性と真理性は
ちがう。たとえるなら、車(数学の公理系)について、それが動くに
もかかわらず、どんな車でもチェック(証明)できない部品(命題)
が必ずあるようなものだ。証明できない、ということからは、ある命
題が「真でない」ということは言えない。チェックできない箇所があ
っても車が走ることはありうる、ということと同じだ。また公理系が
矛盾しているなら、どんなことも証明可能になり、自己の無矛盾性も
証明できてしまう。だから、数学が「本来的に矛盾を孕む」
などというのはまったく馬鹿げた主張である(不幸にもある公理系に
矛盾が発見された場合は、公理系を組み直せばよいだけの話だ)。
4.
ここで五島高資が、つまるところなにを言いたいのかを整理しておこ
う。好意的に読めば、それはおそらく、「物理学のような科学言語で
は自然のすべてを言いあらわすことはできない」というもの
だろう。しかし、この程度のことなら、誰でも知っている当たり前の
ことであって、あえてご教示いただくにはおよばない。そこで五島は
脈絡を無視して皮相な知識を並べることで、場合によってはなにか深
遠なことが書かれているのだと読者に錯覚させようとしているのだろ
う。しかし、実態はこんなものである。五島の文章は、言葉は仰々し
いが実際には「当たり前」でしかないことを語っているか、そうでな
ければ、「自分でもよくわからない」ことを書きなぐっているのだと
思っておけばよい。
5.
ここで、さきほど飛ばした一文に戻ろう。
「この現代物理学が行き着いた奇妙な結末は当然と言えば当然の成り
行きだった」
これはつまり、物理学は「本来的に矛盾を孕んだもの」なので、つい
に量子力学によって、自然は明確にはとらえきれないことがわかった
といいたいわけだ。これまで見てきたように、五島は根本的に自然科
学というものを理解していない。量子力学もまた、ある仕方で自然を
明確にとらえている。あくまで部分知だが、それは矛盾といったもの
ではない。だいいち「結末」などといっているが、五島の挙げている
ものは、第二次世界大戦以前に確立した初期量子力学の話で、こんに
ちにおいては、量子力学と一般相対性理論が統一されようとしており、
二十世紀中に物理学は大きく発展してきたのだ。当然その結果、自然
はさらにその姿をあらわしてきたのだし、今後もまた新たな発見が期
待されている。自然についての知識はあきらかに増大している。
ちなみにゲーデルの不完全性定理も1930年に発表され、ヒルベルトら
の数学の完全公理化の野望は挫折せしめられたものの、形式主義は全
数学の方法として発展的解消を遂げ、二十世紀は前の世紀に並ぶ数学
の大きな進展の時代となったのだ。
五島の論述の含みは、単純といえば単純だ。科学言語では自然をとら
えきれない、そのことを科学自らが明かしてきた、と言いたいわけだ。
しかし、くりかえすが、科学が部分知にすぎないのは自明である。五
島の言い方は、よくあるオカルトの「この世には科学で解明できない
ものがある」という物言いとそっくりだ。あるいは、半端な宗教家が
口にする「科学だけではほんとうのことはわからない」という言葉を
想起するべきだろうか。実際、五島はそう言っているのだ。しかし、
これらは、科学者らがあたかも「科学ですべてがわかる」と言ってい
るかのように想定したうえでの立論である。科学者はそんな馬鹿げた
ことは思っていない。仮想敵を馬鹿に見立てるのは劣悪な批評にあり
がちだが、彼らがやっているのはまさにそういうことだ。
科学が自然をとらえきれないとして、ではとらえきることはできるの
だろうか。ここで俳人五島高資が取り出すものこそ、なにをかくそう
「俳句」なのである。
がっくりくるが、五島の下手な手品にさらにつきあうとしよう。
次へ
(以下つづく・・Tachibana Kichikusai)